酉年の古代史、鷹と白鳥

仁徳天皇に酒君が鷹を献上し、鷹狩をする

日本書紀には、見慣れぬ鳥が仁徳天皇に献上され、酒君(秦氏?)がこれを鷹と同定し、さらに、飼い馴らして最初の鷹狩をする話が次のように伝わっています。

「此の鳥の類(たぐい)、多(さわ)に百済に在り。馴らし得てば 能く人に従ふ。亦 捷(と)く飛びて 諸(もろもろ)の鳥を掠(と)る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号(なづけ)て 俱知(くち)と日(い)ふ」とまうす。是 今時の鷹なり。乃ち酒君に授けて養訓(やす)む。幾時もあらずして訓(なつ)くることを得たり。(同上書)

この後、仁徳天皇は、百舌鳥野(大阪府)で鷹狩をし、数千の雉を獲ったとあります。宮中の兵部省に、主鷹司(たかつかさ)という役所ができ、その後、この役目は、蔵人所(くらんどどころ)の鷹飼に引き継がれていったのだそうです。

卅┼三年の秋九月の庚子の朔(AD355.09.01)に、依網屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕りて、天皇に獻りて曰す。「臣、毎に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇びて獻る。」天皇、酒君を召して、鳥を示せて曰はく、「是、何鳥ぞ。」酒君、對へて言す。「此の鳥の類、多に百濟に在り。馴し得てば能く人に從ふ。亦捷く飛びて諸の鳥を掠る。百濟の俗、此鳥を號けて倶知と曰ふ。」【是、今時の鷹なり。】乃ち酒君に授けて養馴む。幾時もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち韋の緡を以て其の足に著けて、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に獻る。是の日に、百舌鳥野に幸して遊獵したまふ。時に雌雉、多に起つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽に數十の雉を獲つ。是の月に、甫めて鷹甘部を定む。故、時人、其の鷹養ふ處を號けて、鷹甘邑と曰ふ。

依網池が造成されたのは、書紀では、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の六十二年の条とされる(書紀巻5)。東住吉区我孫子町、庭井町から大和川の対岸、松原市天美町一帯(地図)とされる。屯倉となっており、阿弭古が管理していた。

稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の時(書紀巻4)に、古事記は葛城の垂見宿禰の女(むすめ)、亶鳥(わし)比賣を娶って生んだ子、建豐波豆羅和氣の王を、道守臣、忍海部の造、御名部造、稻羽の忍海部、丹波の竹野別、依網の阿毘古等之祖としている。

大足彦忍代別天皇(景行天皇)の十八年の四月の条に(書紀巻7)、山部阿弭古が祖、小左(をひだり)を召し、冷き水を進らしむ、といふ記述があり、阿弭古は依網で山部として仕えていた葛城系の氏族となろう。

珍しい鳥が網にかかった。分からないので、酒君を召して問うてみると、倶知(鷹)といふ。隼は知られていたが、鷹は知られていなかった。鷹は訓練すれば、人に従うとの酒君の言葉に、天皇は酒君にその訓練を任せた。韋はなめし皮のこと。緡は釣り糸、縄のこと。韋で作った紐を足に付け、尾に小鈴に付け腕にすえて、天皇に献上した。百済では鷹狩りの風習があり、それを導入したのが百済の王族の酒君であった。百舌鳥野で試してみると、數十の雉を獲、鷹甘部を定めたといふ。百舌鳥野は和泉国の大鳥郡の地、大阪府堺市の百舌鳥町から浜寺石津町にかけての地域、と注される。酒君と阿弭古の子孫が鷹甘部を構成したのであろう。甘は詩、斉風、鶏鳴(けいめい)に、「子(し)と夢を同(とも)にすることを甘(たのし)まん、は酣楽(かんらく)の意(字統)」とある。鷹甘は鷹遊びとなろうか。職員令の兵部省の被官に主鷹司があり、鷹戸が付属し、令集解によれば、大和、河内、摂津に鷹養戸十七戸があった、と注される。鷹甘邑は、摂津志に、「住吉郡鷹飼部第宅古蹟は鷹合村に在り又、鷹甘部の墓有りて、今、平塚と称す。」と注される。鷹甘の風習が百済からもたらされ、鷹甘部が設置されたといふことからすれば、百済の王族である酒君が来朝したという話を否定するのはどうも馴染まない。鷹狩りができる身分同士でなくば、この話は成立しないであろう。

その後の鷹狩

Wikipediaによれば

日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令)/主鷹司(養老令)が置かれた。正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。平安時代に入ると新設の蔵人所にも鷹飼が置かれ、主鷹司が天皇の鷹狩を、蔵人所が贄調達のための鷹狩を管轄するようになる。だが、仏教の殺生禁止の思想の広まりにより鷹狩に否定的な考えが生まれて鷹の飼育や鷹狩に対する規制が取られるようになり、清和天皇は真雅や藤原良相の助言を受け入れる形で、貞観2年(860年)に主鷹司の廃止と蔵人所の鷹飼の職の廃止が行われ、以降鷹の飼育に関する規制が強化された。次の陽成天皇の元慶6年(882年)に蔵人所の鷹飼のみ復活され、蔵人所が鷹狩を管掌する

弓で鳥を取った、鳥取部、犬を飼った犬飼部
河内国司は万の最後の有様を朝廷に報告した。朝廷は「万の死骸を八つ切りにして八つの国に串刺しにして曝(さら)せ」と命じた。国司は指示に従って死体を切り串刺しにしようとしたとき、突如雷鳴がとどろき大雨が降った。すると、どこからともなく万が飼っていた白犬が現れ、万の亡骸の周囲を何度も何度も回ると天に向かって吼えた。そして、万の首を食いちぎると頭をくわえて持ち去り、古い墓を掘り出して埋めた。

鳥取部万の悲劇
万(よろず)は大連・物部守屋(おおむらじ・もののべもりや)の近侍だった。西暦587年7月、大臣蘇我馬子(おおおみ・そがのうまこ)が皇太后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)の詔(みことのり)を受けて、諸豪族や諸皇子と共に河内の渋川に身を引いた守屋を攻め、討ち滅ぼすという事件が起きた。そのとき、万は守屋の指令で百人の兵士を率いて難波の守屋の屋形を守っていた。

守屋死すの報を受けると、万は夜陰に紛れて馬で妻の実家があった茅淳県(ちぬのあがた)の有真香邑(ありまかのむら)の山中へ逃げた。数百人の兵からなる追討軍が組織され万を囲むと、万は竹藪に隠れ、縄を竹でつないで動かすことで、その竹の動きに注意を奪われた追討軍を矢で射った。万の放つ矢は悉く追討軍の兵を貫いたという。
ひるむ追討軍を見て、万は山奥へ逃げた。このとき一人の兵士が彼より早く駆けて前方に出ると、川のそばに隠れて万の膝を矢で射当てた。さしもの万もその場に崩れ落ちたが、矢を抜き取ると、悲痛な声で次のように叫んだと伝えられている。
「万は天皇の楯として、その勇をあらわそうとしたが、聞いて頂けず、かえってこの窮地に追い込まれてしまった。共に語るに足る者は来い。自分を殺そうとするのか捕らえようとするのか聞きたい」
だが、兵士達は競い合って矢を射た。万は飛んでくる矢を払い防ぎながら三十余人を殺した。しかし、逃亡生活で疲れ果て、受けた疵も深かったことから、万もここで覚悟を決めると、持っていた太刀で自らの弓を砕き、太刀も怪力で折り曲げて川に投げ捨て、捕縛しようとにじり寄る追討軍を前にして、小刀で頚を刺し自刃した。武人としての悲壮な最後だった。

鳥取部と誉津別命: 天湯川田奈命などの後裔

右京/神別/天神/鳥取連/連/角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也/垂仁天皇皇子誉津別命。年向三十不言語。于時見飛鵠。問曰。此何物。爰天皇悦之。遣天湯河桁尋求。詣出雲国宇夜江。捕貢之。天皇大嘉。即賜姓鳥取連
山城国/神別/天神/鳥取連/連/天角己利命三世孫天湯河板挙命之後也
河内国/神別/天神/委文(しとり)宿祢/宿祢/角凝魂命之後也   (角凝魂命の子孫には織物業の人もいたらしい)
河内国/神別/天神/美努連/連/同神四世孫天湯川田奈命之後也   (美努<御野>は地名で美努連は古くからの在地豪族か)
河内国/神別/天神/鳥取/同神三世孫天湯河桁命之後也
和泉国/神別/天神/鳥取/角凝命三世孫天湯河桁命之後也

地名と氏が結びつくのは河内国大県郡鳥取郷と鳥取氏と和泉国日根郡鳥取郷と鳥取氏の二例だけである。
「古事記」中巻にも「於是天皇因其御子定鳥取部 鳥甘部 品遲部 大湯坐 若湯坐」とあり、「日本書紀」が天湯河板擧への論功行賞で設置された趣があるのに対し、「古事記」では誉津別王のために設置された様子がうかがわれる。

河内の天湯川田神社
河内国安宿郡の式内小社。鳥取氏の祖天湯川田奈命を祀る。
古代の鳥坂郷で東に隣接して鳥取郷がある。鳥取氏の居住地であった。角凝魂命の三世の孫が祭神の天湯河棚命で鳥取連はこの命の後裔とされる。旧社家の鳥取氏宅には三尊形式の神像があり、中央の一体は白鳥を抱いていると言う。 そのような神宝は是非神社に戻しておいてほしいものだ。 始祖の天湯川田奈命の本拠は和泉の日根郡鳥取郷である。角凝魂命を祀る 波太神社 が鎮座する。子孫が河内国大県郡の当地へ移り住んだものと思われる。

谷川健一氏の名著「青銅の神の足跡」によれば「湯」は金属の溶解した状態を意味し、白鳥は鍛冶人が金子屋神として尊崇していたと言う。鳥取氏に率いられた鍛冶集団が金属を追いかけての移動を物語るものとされる。 北1500mに 鐸比古鐸比売神社 が鎮座する。鐸比古命をこれもまた垂仁天皇の子沼滞別命とする説明がある

荒神谷遺跡の在る場所(出雲市斐川町神庭)が、誉津別皇子(ホムツワケ)の白鳥伝説で知られる宇屋谷の直ぐ近くであり、垂仁紀で語られる五十瓊敷入彦命の神剣製造譚(忍坂邑に収められた一千口の銅剣=裸伴、アカハダトモ。記は『鳥取の河上宮』で拵えたとする)や、ホムツワケの出雲詣でに随伴した曙立王の出自にも関連があるかもしれないが、よくわかっていない。

垂仁帝は、臣下に『誰か、あの白鳥を捕えられる者はいるか』と下問され、鳥取造の祖・天湯河板挙が出雲で鵠を捕えて献上した(『新撰姓氏録』右京神別、角凝魂命の三世孫・天湯河桁命の後なり。鳥取連の条には『出雲国宇夜江に詣でて此の鳥を捕えた』とある。現在の斐川町宇屋谷付近)

水間君と鵞鳥、養鳥人:雄略天皇

雄略天皇の時代に呉から天皇に献じられた鵞鳥を水間君の犬が喰ってしまい、鴻10羽と養鳥人(とりかい)を献じて罪を贖い許されたとの記事も残っており、大陸から有明海、筑後川を経て筑紫に到った使者を迎える役を担っていたとも推察される。
即位10年秋9月4日。身狭村主青(ムサノスグリアオ)たちは呉の献上した二匹の鵝を持って、筑紫に到着しました。この鵝は水間君の犬に食われて死んでしまいました。
別の本では、この鵝は筑紫の嶺県主泥麻呂(ミネノアガタヌシネマロ)の犬に食われて死んだといいます。
それで水間君は恐怖して憂いて、自然と黙っていられなくなって、鴻(カリ)十隻と養鳥人(トリカイ=鳥を飼う仕事の人)を献上して罪を償いたいと請いいました。天皇は許しました。

冬10月7日に水間君が献上した養鳥人たちを軽村(カルノフレ)・磐余村(イワレノフレ)の二箇所に安置しました。

鴻:おおとり。ひしくい。がんの最大種とあるが???。ヒシクイ(菱喰、Anser fabalis)は、鳥綱カモ目カモ科マガン属に分類される鳥類。全長78-100センチメートル。翼開張142-175センチメートル。頸部は長い。上面の羽衣は羽毛の外縁(羽縁)が淡色の暗褐色、体下面の羽衣は白い。尾羽基部を被う羽毛(上尾筒、下尾筒)は白い。尾羽は黒く、外側尾羽や先端が白い。

水間氏は日本の古代氏族で水沼(みぬま)氏に同じ。
『日本書紀』によれば景行天皇と襲武媛(そのたけひめ)の間に生まれた国乳別皇子を始祖とするという。国乳別皇子は、神功皇后が新羅を攻めたとされる際に弓頭(もしくは弓大将)として従ったとされ、現在の久留米市三瀦(みずま)にある弓頭神社に祭られている。

雄略天皇の狩:近江の来田綿での市辺押磐皇子の暗殺
現代語訳
冬10月1日。雄略天皇は穴穂天皇(=安康天皇)、かつて市辺押磐皇子に国を引くついで、後々のことを皇子に自由にさせてやろうと思っていたことを恨んで、使者を市辺押磐皇子の元に派遣して、嘘をついて狡獵(カリ)をしようと約束して、野で遊郊(アソビ)を勧めて言いました。
「近江の狹々城山君韓帒(ササキノヤマノキミカラフクロ)が言った。
『今、近江の来田綿(クタワタ=現在の滋賀県蒲生郡蒲生町・日野町)の蛟屋野(カヤノ=地名)に猪・鹿がたくさん居ました。その頭に載っけている角は枯れ木の枝のよう。集まった足は弱木株(シモトバラ=シモトは潅木=潅木は3m以下の木)のようです。呼吸する息は朝霧ように立ち込めている』
願わくば、皇子と猛冬(カムナヅキ=10月=冬のはじめ)の影のできる涼しい月に寒風かかすかに吹く時期に、野に遊び、いささか楽しみ、走り射よう」
市辺押磐皇子はその誘いに従って馳猟(カリ)をしました。大泊瀬天皇は弓を引き、馬を走らせて、騙して皇子を呼び
「猪がいる」
と言い、市辺押磐皇子を射殺しました。市辺押磐皇子の張内(トネリ=従者)の佐伯部売輪(サエキベノウルワ)
またの名は仲手子(ナカチコ)といいます。は皇子の遺体を抱いて、息を荒くして慌てて、どうすればいいか分かりませんでした。皇子の周囲に転びまわり、皇子の名を呼び叫んで、頭と足を何度も行ったり来たりしました。天皇は全員を誅殺しました。

鷹狩と軍事、鷹狩を好んだ人びと

奈良、平安時代に桓武天皇、嵯峨天皇、貴族では大伴家持、在原業平、坂上田村麻呂等など、鷹狩を好んだという。鎌倉時代の源頼朝。頼朝は、諏訪大社や二荒山神社など、神社の伝統行事に限って鷹狩を認めたものの、鷹狩を無益な殺生として、全面的に禁止しています。頼朝が好んだのは、もっぱら巻狩りだったという。

信長、秀吉、家康。公家も盛んに鷹狩をしています。公家の鷹狩は、家康が禁じてしまいました。以来、鷹狩は武家専用になったという。全面的に禁じたのが、生類憐みの令で有名な綱吉。これを破って、復活したのが吉宗という。

鷹狩の獲物の鶴

江戸時代、江戸周辺には鷹場が各地に設けられます。家康は、東金(千葉)、越谷、忍、鴻巣(3箇所とも埼玉)などの旧北条氏領をにらむ地に、軍事をかねて鷹場を設けましたが、やがて、鷹場は江戸近辺に指定されるようになります。
享保2年、吉宗の時代、葛西、岩淵(赤羽付近)、戸田、中野、品川、六郷の6か所が6筋と言われて将軍家の鷹場とされ、その外側には御三家の鷹場が指定されました。ここでは、庶民の活動はできませんでした。

鷹狩で、もっとも珍重された獲物がツルでした。朝廷では、正月に鶴包丁という儀式が行われ、将軍家は、朝廷にツルを献上するのが習わしでした。これに倣って、将軍家も各大名も、年頭や慶事には鶴包丁の儀式を行い、ツルを食したと言います。このため、乱獲を招き、吉宗は、3年間、このツルの献上を中止した上、各大名にも接待、饗応での鶴肉の使用を禁止しています。

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