春望、杜甫と芭蕉、国破れて

春 望
 
  長安の賊中にあって、春の眺めを述べる。
 
  国破山河在   国破れて山河在り
  城春草木深   城春にして草木深し
  感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺ぎ
  恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
  烽火連三月   烽火 三月に連なり
  家書抵万金   家書 万金に抵る
  白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く
  渾欲不勝簪   渾て簪に勝えざらんと欲す

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杜甫が仕官という年来の希望が叶って、右衞卒府冑曹参軍なる官職を 与えられたのが四十三歳の時であった。希望がかなったと思った矢先 、反乱によって国破れ、捕らわれの身となった。

755年11月、杜甫43歳のとき、安禄山が反乱を起こした。
玄宗皇帝の不仲の臣を討つと称して、18万の兵を挙げた。
正月に、東都の洛陽を陥し、安禄山は大燕皇帝と称した。
その5月、長安の玄宗皇帝と貴族たちは、都落ちをした。

杜甫もまた、都落ちし、辺鄙な羌村に妻子を疎開させた。
杜甫は玄宗皇帝の太子に参内に向かう途中に捕まり、長安に送られた。
白髪頭の老人の杜甫は、荒廃した長安の都を見た。

国が無く、秩序も無く、人々が餓え、全てが変わり、
旧都のすがたは見る影もなくなった。

唐朝廷は、この時より沈滞して行く。

杜甫と芭蕉、奥の細道の冒頭文

芭蕉の遺品に『杜子美詩集』があったとされており、生涯を通して杜甫を尊敬していたことが窺える。『奥の細道』の冒頭にも杜甫の人生である道中で息を引き取りたいと、述べている。同文の有名な一節。

さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時のくさむらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ。

夏草や 兵どもが 夢の跡

杜甫の歴史

河南鞏県(河南省鞏義市)で生まれる。父は杜閑、母は崔氏。祖籍は襄州襄陽(湖北省襄陽市)。三国時代から西晋の武将であり、「破竹の勢い」で有名な杜預は先祖に当たる。祖父は初唐の宮廷詩人として有名な杜審言である。

杜甫の詩人としての評価は必ずしも没後短期間で確立したものでない。没後数十年の中唐期に、白居易・韓愈らによってその評価は高まったものの、北宋の初期でさえ、当時一世を風靡した西崑派(晩唐の李商隠を模倣する一派)の指導者・楊億は、杜甫のことを「村夫子」(田舎の百姓親父)と呼び嫌っていたという。一方、南宋初期の詩人である呉可は『蔵海詩話』の中で「詩を学ぶには、まさに杜(甫)を以て体となすべし」と書いている。

絶句を得意とした李白と対照的に、杜甫は律詩に優れているという評価が一般的である。奔放自在な李白の詩風に対して、杜甫は多彩な要素を対句表現によって緊密にかつ有機的に構成するのを得意とする。

735年(開元23年) : 呉、越から洛陽に帰り、科挙の進士を受験したが及第せず。
736年 – 740年(開元24年 – 28年) : 斉・趙に滞在する。
737年(開元29年) : 洛陽に帰り、陸渾荘を造りそこに滞在する。
744年(天宝3載) : 洛陽で李白と会う。
745年(天宝4載) : 斉に滞在する。再び李白と会い、友好を結ぶがこれが最後の再会になった。
747年(天宝6載) : 長安で一芸に通じる者のための試験が行われたが、不合格。
750年(天宝8載) : 長男の杜宗文が生まれる。
751年(天宝10載) : 玄宗に「三大礼賦」を奉献する。
753年(天宝12載) : 次男の杜宗武が生まれる。
754年(天宝13載) : この頃、仕官のつてを求め、高官たちに詩を献ずる。
755年(天宝14載) : 河西の尉に任じられるが断り右衛率府の胄曹参軍になる。
756年(至徳元載) : 安禄山の攻撃により長安が陥落する。霊武(現在の寧夏回族自治区霊武市)で粛宗が即位したとの情報を聞くと、長安脱出を試みるが、反乱軍に捕まり幽閉される。
757年(至徳2載) : 脱出して、粛宗から左拾遺の位を授かる。
758年(乾元元年) : 房琯を弁護したことにより粛宗の怒りを買い、華州(陝西省華県)に左遷される。
759年(乾元2年) : 関中一帯が飢饉に見舞われたことにより、官を捨てて、秦州(甘粛省天水市)に赴く。さらに同谷(甘粛省成県)に移るが、ドングリや山芋などを食いつないで飢えを凌ぐ。蜀道の険を越えて成都に赴く。
760年(上元元年) : 成都で草堂(杜甫草堂)を建てる。
765年(永泰元年) : 成都を去り長江を下る。
770年(大暦元年) : 襄陽を通り洛陽を経由して長安に戻ろうとしたが、相江の舟の中で客死する。死因としては、頂き物の牛肉を食べ過ぎて亡くなった話が有名だが、この話が事実ではないとする意見も多く、確実な死因は不明。

義経が住んでいた丘、高館(たかだち)頂には義経堂。

まず高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河(たいが)也。
  (中略) 
さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。      「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」 
と、笠うち敷きて、時のうつるまで泪(なみだ)を落としはべりぬ。

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

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