日本書紀』は720年(養老4)に完成、『古事記』の成立から8年後のことでした。
天武天皇(てんむてんのう)が、治世晩年の天武681年(天武10)に
「帝紀(ていき)」および「上古諸事」の編纂を
川島皇子(かわしまのみこ)や
忍壁皇子(おさかべのみこ)らに命令しました。
およそ40年後の720年に
舎人親王(とねりしんのう)が
元正天皇(げんしょうてんのう)に、
その完成を奏上(そうじょう)しました。
『日本書紀』は、30巻と系図1巻からなり、
「天地開闢」から持統天皇(じとうてんのう)までを扱っています。
『古事記』と『日本書紀』に描かれる神話は、大きな話の流れが同じであることから、
「記紀神話」とも呼ばれていますが、細部を比較すると、両者には大きく異なる部分があります
「古事記」には偽書説もありましたが、安万侶さんのお墓が見つかり、墓誌も発見された。また、「古事記」では「万葉集」より古い万葉仮名を使っていることがわかり、現在は安万侶さんが「古事記」を筆録したことは確かとされています。
多氏(おおのし)は神武天皇の子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)の直系子孫で、安万侶さんは十五代目に当たります。安万侶さんは文人だけでなく、武人としても名をはせた人でした。
次に、「古事記」と「日本書紀」を比べると、「古事記」は非常に完成度が高く、文学性も豊かです。「日本書紀」はいろんな史料を提示しているのですが、歴史研究者から見ると、素朴な形から複雑な物語へどう変わっていったかということがよく分析できます。
「古事記」と「日本書紀」は、帝紀(ていき)と旧辞(きゅうじ)を共通して使用しています。帝紀は天皇の系譜、事蹟(じせき)を書いたもの、旧辞はいろんな伝承、物語、それに伴う歌謡です。「日本書紀」はそれに加えて、歴代天皇や各豪族、社寺の史料なども使っていますから、「古事記」は全三巻ですが、「日本書紀」は十倍の全三十巻あります。
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「古事記」の序文には、壬申の乱の後、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)を相手に帝紀、旧辞の削偽定實(さくぎじょうじつ)(偽りを削り、真実を定める)を行ったという記事があります。これは「古事記」を考える一番のポイントです。
稗田阿礼は非常に聡明(そうめい)で、目で字を追っていくと、おのずからその読み方が口をついて出る。聞いたことはいつまでも記憶している。それで天武天皇がみずから語りかけて、帝紀と旧辞を誦習(しょうしゅう)(よみ習うこと)させた。これは丸暗記でなくて、既に記録にまとめられたものの読み方、時代背景などを習い覚えたという意味です
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天武天皇9年(680) 上毛野三千らは国史『帝紀』を編纂した
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太安万侶
墓は、春日山の奥にあります。出てきた墓誌は橿原考古学研究所附属博物館で展示しています。邸跡は平城宮の東にありますが、具体的な位置はわかっていない。
稗田阿礼
どこにいたかは全くわかりません。奈良県大和郡山市に稗田という町があります。
和田萃さん(京都教育大学名誉教授)
天武紀十年三月に天武天皇は川島皇子(かわしまのみこ)以下十二人の人々に(天皇の系図を中心とした)帝紀および、(神話や伝承などの古い時代の出来事を記した)旧辞を定めさせたという記事がある。このときの人たちは、天武十二、三年にほかのポストに移っているので、この事業は三年くらいの間のものと考えられます。恐らくその段階である程度まとめられたものをもとに、天武天皇が削偽定實し、稗田阿礼が誦習したのだろうと思います。
橿考研(奈良県立橿原考古学研究所)の飛鳥京跡の百四次調査で、天武十年のこの事業に符合した木簡が出土しています。将来的にはあの辺から天武朝にかかわる大量の木簡が出るのではないか、飛鳥での木簡の状況から、天武朝における歴史の編纂事業はかなりつかめるのではないか