論衡、山海経、漢書の倭人
中国の古記で最初に倭人が出てくるのは、中国の後漢時代の王充(紀元27年~紀元105年頃)が
魏略 拘邪韓國
『魏略』 著者は魚豢(ぎょかん)である。魚豢については事績が伝わっていない。 『三国志
ホツマツタエ 秀真伝
秀真伝 ホツマツタエ 『ホツマツタヱ』(ほつまつたゑ)は、ヲシテによって五七調の長歌体
晉書列傳 四夷倭人
晋書は、西晋4代54年(265ー316)、東晋11代104年(317-402)を記した正史である。帝
新羅、百済、高句麗の元号
朝鮮三国では、日本での譲位の場 合と同じく、前王の崩御の時点で、 次王の元年と
梁職貢図の倭国、斯羅國、新羅
職貢図は、中国王朝からみた諸夷と呼ばれた周辺諸民族が、様々な扮装で来朝する様を、文章
大八島国
おおやしまくに ここで柱を巡りてイザナキの命まず、 「あなにやし、えをとめを」 と言い
水戸光圀と「大日本史編纂」
水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、「
古語拾遺 忌部氏
中心は阿波と讃岐の忌部氏である。 現在の徳島市二軒屋町に忌部神社がある。鳴門市に「大