水戸光圀と「大日本史編纂」

水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、「大日本史編纂」に取り掛かる。

異母弟の重臣・鈴木重義(雑賀重義)を隠居所・西山荘に呼び、全面的協力を要請する。雑賀の棟梁・孫市に預けていた庶長子の「一蔵重康(いちぞうしげやす)」を水戸徳川家重役に送り込んだ。

雑賀鉄砲衆の鉄砲頭として雑賀孫市の兄弟とも子ともいわれる鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、千六百六年になって徳川家康に召抱えられて徳川氏に仕え、後に二代将軍・秀忠の命により、家康の末子・頼房に附属されて水戸藩に移り、水戸藩士・鈴木家となる。

鈴木孫三郎重朝(しげとも)は、幼名を鈴木一蔵と言い、重康の名をさずかった「松平元康(徳川家康)の庶長子ではないか?」と噂される人物である。

それが、三河鈴木家から依頼を受けた雑賀孫市に育てられ、雑賀党の棟梁に成っていたのである。

義経方の三河鈴木、三河松平の家臣
義経が奥州に落っるに及び、弟の「亀井重清が隋行する」と、兄の藤白・総頭領三郎重家に報じた。

それを聞き、鈴木三郎重家は叔父・七郎重善と共に源義経に随行を決意し、逃避行の難に赴いたが、叔父の七郎重善は三河矢矧駅にて脚の疾(やまい)に罹(かか)り、そこにて休養中に義経主従の高館戦死を聞く。

三河の里人の請うままに「挙母(ころも)の里」の奥なる猿投山に熊野権現を勧請して仕へ、挙母(ころも)の里に住み着いたその子孫を三河・鈴木(挙母・鈴木氏)と言う。

つまり脚の疾(やまい)の為に三河の地に留まった重家の叔父・鈴木七郎重善が三河鈴木党の祖となり「松平家臣となった」と言う謂れが三河鈴木家にはある。

水戸藩士・鈴木家は重朝の子の重次の時に、神君・家康の落胤・鈴木孫三郎重朝(鈴木一蔵)の家系が四代目に女児ばかりだったのを契機に、後継ぎとして主君徳川頼房と側室寿光院(藤原氏)の子(光圀とは腹違いの兄弟)を養子に迎えて「鈴木重義」と名乗らせ、「大日本史」編纂作業の始まる頃には、完全に水戸藩親族系の家臣の家と成っている。

鈴木家は後に雑賀家を名乗り、水戸藩の重臣として幕末まで続いた。

光圀は藩内外に「大日本史編纂」を宣言し、学問所(現在の研究所)「彰考館」を設置して藩内の優秀な人材を登用する。
「大日本史」は、徳川頼房(正三位権中納言)の三男、従三位中納言・徳川光圀(みつくに) によって編纂された歴史書である。

神武天皇より後小松天皇まで紀伝体によって述べ、本紀・列伝・志・表からなっている。

歴代皇位から神功(じんぐう)皇后を除き、弘文天皇を加えた他、南朝を正統とした点が「大日本史」の特色で、この編纂作業は、実に明治の中頃まで続いて居る。