ホツマツタエ 秀真伝

秀真伝 ホツマツタエ

『ホツマツタヱ』(ほつまつたゑ)は、ヲシテによって五七調の長歌体で記され、その成立時期は不詳である。
日本史学の分野では武光誠、日本語学の分野では飯間浩明らにより江戸時代に神道家によって作成された偽書であるとされている。
また、ヲシテを神代文字のひとつとみなす研究者からは古史古伝のひとつと同一視されている。
しかし、漢字が渡来する以前に日本で通用していた文字と文献であって、後世の偽造とされる神代文字・古史古伝とは全く異なるとの主張もある。
文献全体の包括的な史料批判を試行する動きはあるが、まだなされていない。

『ホツマツタヱ』には、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」「ホツマツタエ」とも、また漢訳されて「秀真伝」「秀真政伝紀」とも表記されている。

『ホツマツタヱ』と同様の文字による古文書である『ミカサフミ』(「三笠紀」)『フトマニ』(「太占」)も発見されている。この3書に使われている文字は同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。「ヲシテ」は、過去の神代文字研究、または同文献の研究経緯により「ホツマ文字」「秀真文字」「伊予文字」と呼ばれたり、「オシテ」、「オシデ」と表記される場合もある。

12世紀初頭に成立した『類聚名義抄』などにヲシテに関する記述が認められると理解して、ホツマツタヱは少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡、小笠原通当等が真書であると主張した。

近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、ホツマツタヱが再発見された1966年以降である。諸写本の校正、『古事記』『日本書紀』と『ホツマツタヱ』の3書比較、『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』『フトマニ』の総合的検証が進められつつある

『ホツマツタヱ』を真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。『ホツマツタヱ』が扱っている歴史は、記紀の神代や人皇12代景行天皇(オシロワケ)までである。

『ホツマツタヱ』を表記している文字は、48文字の基本文字があり、変体文字を含めると197文字が確認されている。

同時代のヲシテ(ホツマ文字)で書かれた文献には、伊勢神宮初代の神臣(クニナツ)オオカシマ命が記した『ミカサフミ』、アマテルカミ(記紀にいう、天照大神)が編纂して占いに用いたと伝えられている『フトマニ』などが発見されている。

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内容 一部分

御間城入彦五十瓊殖尊。 
第10代崇神(すじん)天皇。  
ワカヤマトネコヒコ(9代開化天皇) と内宮イカシコメの第1子。斎名:ヰソニヱ(五十瓊殖)。
磯城ミヅガキに遷都。 
三種の八咫鏡と八重垣剣を宮中に置いて、寝食を共にするのは恐れ多いとして、トヨスキ姫をしてアマテル (ヤタ鏡) をカサヌヒに、ヌナギ姫をしてオオクニタマ (八重垣) を山辺の里 (大和神社)に祀らせる。そして鏡と剣のコピーを造って宮中に置いたようだ。 
しかし疫病が流行り国民の半分が死ぬという事態になり、更に二宮を建てて二神を移した。それでもだめで結局、オオタタネコを斎主として大ミワ神を、シナガヲイチを斎主としてオオクニタマ神をを祀らせてようやく治まる。
神名記を作成し、神部を整備して八百万神を祭らせた。 
宇陀のスミ坂やオオ坂などで、大臣オオカシマとオオタタネコに霊還しをさせる。 
四道に勅使を派遣する (オオヒコ:コシ国、 タケヌナガハ:ホツマ、 キビツヒコ:西南、 タニハチヌシ:タニハ)。 
タケハニヤスが謀反を起こすがこれを破る。 
民の負担だった兵役や貢をやめる。 
ツノガアラシトをして任那を建てる。 
ヤマベに葬る。

蘇那葛叱智。 
崇神天皇の晩年にやって来た任那からの朝貢の使者。 
垂仁の即位の祝にも貢を上げて来朝する。
  

『任那国 ソナカシチして 貢なす その道程は 筑紫より 北へ二千延 海 隔て 新羅の西南ぞ』34文
『任那より ソナカシチして 貢 上げ 初御代 祝ふ 大御酒 賜い 賜物  五色の 上熟錦 綾 百機 任那の君に 賜わりて シホノリヒコが 幟

健磐龍命。 
肥国の国守。アソツヒコとも言うらしい。 
ホホデミの内侍・アソ姫の父。
ホオテミは九州の開墾に勤め、北東部は『豊の国』と呼ばれるほどに豊かになったが、阿蘇国の土地はまだ肥えなかった。そこで宮を造り、魚を入れて土を肥やしたところ豊かな地となったので『肥国(コエクニ)』と改名する。喜んだ地守のタケイワタツは娘のアソ姫を斎餞としてホオテミに奉る。

彦火火出見尊。 
ニニキネとアシツ姫 (コノハナサクヤ姫) の間に生まれた三つ子の三男。 斎名:ウツキネ。 
常に狩を楽しんでいたので、ヤマサチヒコ(山鉤彦)。 ツクシ央君。ケヰの神。若狭彦。御祖に継がふ天君。
ハテツミの娘のトヨタマ姫を内宮として、ウガヤフキアワセズを生む。 
コモリの娘モトメはスケ、イソヨリ姫は内侍。後にイソヨリ姫をカモタケスミの妻に賜う。
ニニキネに引き続き、コヤネとコモリが左右を勤める。 
ハラ → ウツノ宮 → オオツシノ宮 → イササワケ宮 → ハデの館 → カゴシマ宮 → アソ宮 → ツクシ宮 → ウド → ミツホ宮 → シノ宮。 
最後はトヨタマ姫と共に大津シノ宮で神上がるが、遺言により遺骸はイササワケ宮に葬る。

大津のシノ宮。 
ニニキネが都をミヅホ宮に遷すと、ホオテミは二現 (二荒) のウツの宮 (宇都宮) からここへ移る。
ホオテミが皇君となると、ニニキネはここに退く。
ウガヤが皇となると、ホオデミと后トヨタマ姫はここへ退き、世を去る。
  
『二現 裾の ウツ宮は オオツシノ宮 今 造り これ 賜わりて 移ります』25文
『ワニに乗り行き シノ宮で ヤマクイ招き 諸共に ウカワに行けば 宮 会いて』25文
『天地つ日月を 若宮に 授け給いて 大上君 シノ宮に坐す』26文
『天君と 后 諸共 シノ宮に 下り居て ここに 神となる』27文
  

ハテツミ。ハテ。ハテカミ。 
ソヲの国守。スミヨシの孫。他文献では豊玉彦。  
トヨツミヒコ・トヨタマヒメ・タケツミヒコ・オトタマヒメの父。 カゴ宮の主。 
兄の釣針を失ったホオテミが、シホツチの翁に導かれて筑紫ウマシのウドの浜に着き、向かった所はハテツミの館(鵜戸)。中央からモノヌシとして派遣されて来た、カンタチと共に筑紫三十二県を統治する。六船魂の第五。

カンタチ 天神立命。 
コモリの長男。 
テルヒコと共にアスカへ下る。
アスカではモノヌシとしてテルヒコに侍っていたらしい (先にはカグヤマがテルヒコのモノヌシとなっている)。
後にツクシからの御使の要請に応えて、モノヌシとして筑紫へ行き、現地のハデヅミと共に三十二県を治める (ツクシヲシカの初)。そのコトシロとして、弟のツミハがアスカに侍る (ツミハは同時にオオモノヌシ・コモリのコトシロも勤める)。 
ソヲのフナツの娘フトミミを娶ってフキネを生む。

ヤスクニ。ヤスクニ宮。
  
『御子は天日の 位 乗る 日の山の名も 大山ぞ 故 大山下 ヒタカミの ヤスクニの宮』6文
『ヤマトヤス宮 引き移し 天ヤスカワの ヒルコ姫 御子オシヒトを 養します』6文
『天に収めて オオヤマト ヒタカミ ヤスの 政事 聞こせば民も 穏やかに 二十五万年』28文

オシホミミ・ヲシホミミ 天忍穂耳尊。 
タガ若宮。ツボ若宮。 斎名:オシヒト。 贈名:箱根神。
アマテルとセオリツ姫の子で、天地つ日月の皇子。 
フチオカ麓のオシホヰで生まれた、オシホミの御子(どん詰まりの御子・最終の御子)。
タカキネの娘のタクハタチチ姫を娶り、クシタマホノアカリとニニキネを生む。 
はじめ多賀ワカ宮に住み、病弱のため、オモイカネとシタテル姫が守役となる。オモイカネ・シタテル姫の亡き後は、タカキネが代の殿として国政を執る。そのためタカキネの子のヨロマロをヒタカミの守とする。 
その後、ヒタカミのケタ壺に都を遷し (タカの首)、アマテルより三種と共に天地つ日月を受ける。
フツヌシとタケミカヅチが左右に侍る。鹽土の翁 (塩竈の神) も大いに関係しているようだ。
箱根のヰツヲハシリの洞に隠れる。
オシホミミ亡き後は、タカキネがアマテルよりヒタカミを賜り、独立の国としての道を歩んでゆく。

筑前國夜須郡。 
筑紫御使のカンタチは夜須に、曽於のフナツの娘フトミミを娶り、フキネを生む。
またフキネはここに葬られる。 
  
福岡県朝倉郡三輪町大字弥永、於保奈牟智 (オホナムチ) 神社。
  
『先にツクシの カンタチは ソヲのフナツの フトミミを ヤスに娶りて フキネ 生む』27文
『言いて夫婦 神となる ヤスに納めて 祭る後 ツクシヲシカの 御言宣』27文

ヤマトヲシロワケ 大足彦忍代別。
12代景行(けいこう)天皇。 
垂仁天皇(イクメイリヒコ) とヒハス姫の第二子。斎名:タリヒコ(足彦)。
マキムキのヒシロ宮に都。 
3年春、紀国に神祭の御幸を止め、御代りにウマシタケイヰココロをアビカシハラに遣って祭らせる (9年間)。 
12年8月、クマソが背いて貢ぎしないという陳情に対して、自らツクシに御狩に出かける (19年9月まで)。 
25年7月、タケウチをホツマシルベに任じて、ホツマ、ヒタカミ、ツガルの情勢を探らせる。 
27年10月、クマソがまた背いたので、オウスを派遣する。 
40年10月、サカオリ宮のタケヒの要請に応じて、オウスをヱミシ討伐に派遣する。 
オウスの遺し文により、オオタタネコに『ホツマツタヱ』をオオカシマに『ミカサフミ』を編纂することを命じ、自らも『カグミハタ』を編纂する。

ミハタノトメノオンフミ・ミハタヲリトメ・ミハタノフミ

御機の留の御文。御機織留。御機の文。
「陽陰なる文」「橘の文」の別名。

御機の留の御文。 
三種の一つとしてアマテルがニニキネに賜る。
  
『天地の日月を 受くる日の 三つの宝の その一つ 陽陰なる文の 道奥ぞこれ』23文
『会・饗 祝をなせば 門出に 御機の留の 御文を 御孫に賜ひ 御鏡を コヤネに賜ひ 御剣を コモリに賜ひ』24文
『この故に 三種を分けて 授く意は ”長く一つに 和る” 由を 文に記して』24文
『文を御孫に 授けます セオリツ姫は 御鏡を 持ちてカスガに 授けます ハヤアキツ姫は 御剣を 持ちてコモリに 授けます』24文
  

春日と香取の神

アマノコヤネ 天児屋命。天児屋根命。 
カスガ。カスガ守(春日神)。 斎名:ワカヒコ。 幼名:カスガマロ。
春日殿 (ヰチヂ) とアサカ姫 (カトリの妹) の子。オシクモ・ヒタチの父。 

生まれるとき母の胎内に100月宿っていたという。コヤネの背丈は一丈二尺五寸(約2m80cm)で、これはアマテルと同じだったと言う。ニニキネ・ホオテミ・ウガヤの鏡臣。タケミカヅチの娘(ヒメ)を娶る。したがってカスガ殿、カシマ、カトリの家に伝わる道奥はすべてコヤネが引き継ぐこととなる。 

テルヒコと共にアスカに赴くが、クシヒコと同様に宮移しに承服できず、アスカを去ったようだ。その後ニニキネと行動を共にして八島を巡る。ニニキネがアワのミヅホ宮に都を遷してからは、ホノアカリムメヒトがハラに留まり、コヤネがその預かり役となる。モノヌシのコモリはニニキネに同行するため、ミゾクイ(ミシマ) がハラの守りに当たる。 

ニニキネがツクシヘ御狩に出かけると、コモリと共にミヅホ宮に侍り、央君であるムメヒトを補佐する。 
アマテル亡き後は、アマテル神の内宮で神教人を勤める。 
天鈴33年2月11日に1,560,025歳で罷り、山背のオシホに葬られ、後に枚岡に送られる。

フツヌシ 経津主神。 
香取守/神。フツノミタマ。 
誰の子か不明。また子孫は無かったようだ。アマノコヤネの叔父。

イツナミチのモノマに対して、ツハモノヌシ・ミカツチと共に初めて霊還しを実践した。 
六ハタレ退治の功により、カグヤマ (ホツマ国) を治め、また『カトリ守』の名を賜る。 
ミカツチと共に「カシマ立ち」を成功させる。
オシホミミの羽の臣。  
フツヌシの妹のアサカ姫は、ヰチヂ (ココトムスビ) の妻となり、アマノコヤネを生む。

カトリの名は「カグ山 (ハラミ山) を司とれ」から来ており、これはホツマ国の治めを任せられた事を意味する。このためフツヌシは「カトリ上君・上つ君」とも呼ばれ、一段高い尊敬を得ている。
  
積羽 (八重事代主神)。 
コモリの次男。 三島大明神。 
ニニキネのオオモノヌシ・コモリのコトシロヌシとなる。
ホオテミの時、弟のタケフツと共にイフキの宮にて四国24県を治める。
その後、筑紫に行ったカンタチ (アスカ君のモノヌシ) のコトシロとして、アスカの宮にも侍る。
その後は 阿波 → ハラ → ミシマ → ハラ → ミシマ → 阿波 と通い勤め、ミシマミゾクイの娘のタマクシ姫との間に、クシミカタマ・クシナシ・タタライソスズ姫を儲ける。 
83万3048歳で罷る。この時クシミカタマは108歳、イソスズ姫は15歳。
阿波の県に葬られる。死後にタケヒトから、ヱミス神の名を賜る。

蹈鞴五十鈴媛。 
ツミハ (コトシロヌシ) とタマクシ姫の娘で、クシミカタマ・クシナシの妹。 
タケヒト (神武) の内宮。カンヤヰミミとカヌナカワミミを生む。 
ツミハが伊予にあるとき、妻のタマクシ姫がイセに詣で、サルタヒコがたたらなす時生まれた。 
タケヒトの后となるまでは阿波宮にいた。天鈴35年生まれ。

カンヤヰミミ
神八井耳命。 
イホのトミ (斎の臣)・イホミ(斎臣)。ミシリツヒコ。
神武天皇と中宮イソスズ姫の第一子。斎名:イホヒト。 
弟カヌナカワミミと共に兄のタギシミミを殺害する。そのことを悔いてか後に、トイチ (現:磯城郡十市町) に住んで “イホのトミ (斎の臣)・ミシリツヒコ” と名を替え、兄タギシミミの御霊をねんごろに祭り、生涯を閉じる。 
多臣(おおのおみ)の始祖。
  
カヌナカワミミ 神渟名川耳尊。 
神武天皇とタタライソスズ姫の第二子。斎名:ヤスキネ (ヤスタレで生まれる)。 
第2代綏靖(すいぜい)天皇。ミスズヨリ姫を内宮に、イキシとタマテ(3代安寧天皇) を生む。
カンヤヰミミと謀り、兄タギシミミを殺害する。  
ミワの神を、代々のスメラギの守りとして九月十一日に祭らせ、クシネにオオミワの姓を賜る。 
タネコが罷った時、ウサマロにミカサの姓を賜る。 
52歳で即位し、カダキ(葛城)タカオカ宮を都とする。
84歳で崩御。ツキタ岡に葬られる。

  

タカオハリベ
(高尾張侍・高尾治侍)。
「タカオを治める物部」の意。「タカオ」は葛城国の一区域の名と思われる。
身の丈が低く、手足が長く、大力で、穢気を放って手強かった。天皇はオオモノヌシ・クシミカタマに対策を命じ、葛網を被らせてようやく退治する。 
ツルギネは、この地を神武から賜わるが、元来葛城は ヒコトヌシ-カッテ-?-ツルギネ の領地だったわけで、神武側に付いて元の領地を取り戻したことになる。

ウサマロ 宇佐麻呂。宇佐津臣命
アメタネコとウサコ姫の子。 
カヌナカワミミ (綏靖天皇) の鏡臣。
アメタネコが罷った時に、カヌナカワミミからミカサの姓を賜る。 
中臣のウサマロ。三笠氏の祖。

■「オハリ(尾張)」は葛城の「タカオハリ」と同根と思われる。

『カヌナカワミミの尊を 世嗣御子 鏡の臣はウサマロと アダツクシネはモノヌシと 御子の両羽ぞ 地政り御食供え申す ヲモチ君』31文
『アメタネコ クシネ・ウサマロ 若宮に 送り 議れば タキシミコ 一人 政を 執らんとす』31文
『アメタネコ 去る 百八十七歳 骸 納む 御笠山 春日の殿に 合ひ祭る ミカサの姓 ウサマロに 賜ひて讃ゆ ミカサ臣』31文

御機の文。  
ヒコホホデミからウガヤに渡された皇位継承の神璽。三種の一。
  
『時に若宮 中に坐す コヤネは左 ミホヒコは 右に侍れば 天君は 御機の文を 己手づから 上御子に譲り 真后は ヤタの鏡を 捧げ持ち カスガに授く 大スケは 八重垣の太刀 捧げ持ち コモリに与ふ 君と臣 謹しみ受くる』27文
  
  
御機織留。   
孝霊天皇(オオヤマトフトニ) から孝元天皇(ヤマトクニクル) に授けられた天神の璽。三種の一。
  
『三十六年 初春十日に モトキネを 世嗣となして 己手づから 御機織留 授けまし』32文
『”これ 天神の ヲシテなり 朝夕 眺め 鑑みて 民を治めよ” 装いを 民に拝ませ』32文
  
  
■オシホミミがアマテルから受けた三種の一つ『ヤサカニの環玉』はそれっきり三種宝としては登場せず、『ミハタノフミ』がそれに取って代わる。後に垂仁の頃、タニハミカソの飼い犬アシユキが食い殺した狢の腹の中『ヤサカニノタマ』で発見されイソノカミに納められるが、同一の物かもしれない。つまり紛失していたのか。

  

ホツマツタエ 目次

ホツマツタエとは…
ホツマツタエは、古代大和ことばで綴られた一万行に及ぶ叙事詩です。
作者は、前半天の巻・地の巻をクシミカタマ(神武時代の右大臣)が、後半人の巻をオオタタネコ(景行天皇時代)が、編纂、筆録と記されています。

アワのうた
アから始まり、ワで終わるので「アワのうた」といいます。「いろはうた」以前の日本古来の48音で、ホツマ48文字を表わします。天の部1アヤに記されています。

序 ホツマツタエを述ぶ
大三輪臣(ミワのとみ)大直根子命(オオタタネコ)の奉呈文

詞述(ことのべ)の長歌(うた)
三笠臣伊勢神臣(ミカサとみイセのかんおみ)大暁島命(オオカシマ)

天の巻(1〜16アヤ)
1 東西(キツ)の名と穂虫(ホムシ)去るアヤワカ姫の恋、和歌(ワカ)初め  

2 天神七代(あめななよ・イサナギ、イサナミ)床神酒(とこみき)のアヤ
ヒナ祭りと桃の花 −男雛・女雛の実名(いみな)は?

3 一姫三男(ヒヒメミオ)生む産殿(との)のアヤ
イサナギ・イサナミの御子誕生

4 天照神(ひのかみ)の瑞御名(みずみな)のアヤ
アマテル神の誕生と即位

5 和歌の枕言葉のアヤ
イサナギ・イサナミと和歌の枕

6 天照神(ひのかみ)十二后(ソフきさき)のアヤ
アマテル神、中宮セオリツ姫と十二后

7 遺言文(のこしぶみ)刑罰(サガ)を立法(たつ)アヤ
アマテル神の岩戸隠れとソサノオの流浪 

8 魂返(たまがえし)悪魔(ハタレ)討つアヤ
アマテル神とムハタレ(六魔王)の戦い 

9 八雲(やぐも)打ち琴造るアヤ
ソサノオの八岐(やまた)の大蛇(おろち)退治と出雲建国の歌

10 鹿島立ち釣鯛(つりたい)のアヤ
大国主、出雲を譲る -ダイコクさんとエビスさん

11 三種神宝(ミクサ)譲り受けのアヤ
皇太子オシホミミ、三種神器を授かる

12 アキツ姫(速秋津)天児(あまがつ)のアヤ
天児(あまがつ)・這子(はうこ)の起源

13 ワカヒコ(天児屋根)伊勢鈴鹿(イセスズカ)のアヤ
アメノコヤネ(天児屋根)、イセ(伊勢)スズカ(鈴鹿)の教えを説く

14 世嗣祈祝詞(よつぎのるのとこと)のアヤ
アマテル神、世嗣(よつぎ)得る祈願の詔のり

15 御食万物成り初(みけよろずなりそめ)のアヤ
稲荷信仰とキツネの由来

15-2 アマテル神(天照大御神)の詔のり
    健康食(スガカテ・清食)の勧めと万物創成の五化元素

16 妊娠(はらみ)慎む常陸帯(おび)のアヤ

地の巻(17〜28アヤ)

17 神鏡八咫(かんかがみやた)の名のアヤ

18 オノコロと呪(まじ)なうのアヤ

19ノ1 乗馬法(のりのり)ヒトヌキマのアヤ

19ノ2 乗馬術(のり)の紀(ふみ)テルタエのアヤ

20 天孫(スメミマゴ・ホノアカリ、テルヒコ)十種神宝(トグサ)得るアヤ

21 ニハリ宮(みや)造営法(のり)定むアヤ

22 オキツヒコ(興津彦)火水(ひみず)の祓(はら)い

23 御衣格式八重垣剣名儀(みはさだめつるぎな)のアヤ

24 扶桑国(コエクニ)逢莢山(はらみやま)のアヤ
コノハナサクヤ姫(木花之開耶姫)桜の誓い

25 ヒコ尊(みこと・彦火火出見)釣針(ち)を得るのアヤ
ヒコホホデミとトヨタマ姫

26 ウガヤ(鵜茅葦不合)葵桂(あおいかつら)のアヤ
トヨタマ姫・葵の返歌 −葵祭の起源

27 御祖神船魂(みおやかみふなたま)のアヤ
タマヨリ姫に白羽の矢 −神武天皇の誕生

28 君臣(きみとみ)遺(のこ)し教(のり)のアヤ

人の巻(29から40アヤ)

29 タケヒト(神武)大和(やまと)討ちのアヤ
タケヒト・大和討ち −神武東征

30 天皇(アマキミ・神武)都鳥のアヤ

31 直入神三輪神(ナオリカミミワカミ)のアヤ
カンタケ・都鳥の歌 −神武の御世

32 富士山(やま)と淡海瑞(あわうみみず)のアヤ
富士山と不老長寿の仙薬

33 神崇(かみあが)め疫病(エヤミ)治(た)すアヤ

34 ミマキ(崇神)の御世(みよ)ミマナ(任那)のアヤ

35 ヒボコ(日槍)来朝(きたる)角力(スマイ)のアヤ

36 ヤマト姫(大和)伊勢皇太神(かみ)鎮座(しずむ)のアヤ

37 鶏合わせ(とりあわせ)但馬守橘樹(たちばな)のアヤ
タジマモリ、常世国(とこよくに)と橘樹(たちばな

38 ヒシロの世(よ・景行期)クマソ討つアヤ
景行帝とヤマトタケルのクマソ征伐  

39 ホツマ討ち(日本武尊やまとたける東征)十九歌(つずうた)のアヤ
ヤマトタケルの東征とオトタチバナ姫

40 熱田神(あつたかみ)世を辞(いな)むアヤ
ヤマトタケ 白鳥の挽歌

この文字は中国雲南など西南諸省に広く居住する少数民族の「イ文字」に酷似している。

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三書同根説

「帝紀・旧辞」となにか?
日本書紀には、「帝紀・旧辞」は、オオタタネコによって、編纂されたとある。

現在残っている、「ホツマツタエ」は、漢文、和文で書かれていない。

景行天皇が九州巡狩に行って、熊本筑後方面を巡る場面

ホツマツタエ 人の巻 38アヤ

(景行天皇治世17年)七月四日、ツクシ路後(筑後)のタカタ宮(高田行宮)に入られると、間もなくこの地の大御木(オオミケ)が倒れました。木の長さは九百七十丈もある大木で・・・ 君がこの木について問いかけると、一老人(おきな)が答えて、「この木は檪(くぬぎ)の木です。倒れる前は朝日の影がキジマ(杵島)峯にかかり、夕日の影はアソ(阿蘇)の山を覆っていました。

日本書紀景行天皇紀

その時に長さ九百七十丈の倒木があって・・・天皇> 「これは何の樹か。」老人> 「これは歴木(くぬぎ)という木です。倒れる前は、朝日の光に照らされて杵島山を隠し、夕日の光に照らされると阿蘇山を隠すほどでした。」・・・

この二つの文章を見ると、よく似ている。
日本書紀も、ホツマツタエも、同じ景行天皇紀の中で、同じ言葉で同じ内容を記述しており、「970丈のクヌギ」も、「杵島阿蘇」も同一であるから、どちらかが真似したことになる。
ホツマツタエは、オオタタネコによって編纂されたものであり、年代は200年代後半と考えられ、日本書紀を遡ること約500年であるから、日本書紀が、ホツマツタエを下敷きにして、記述していることになる。
そっくり引用したにも関わらず、引用した書物名の欄には、記載していない。

「九百七十丈の歴木(くぬぎ)の木」とは、「九百七十=クナ」、「歴木=クヌギ」であり「狗奴(クナ)国」を表す。

「日本書紀」は、倭国と大和を合わせたものが大倭であり、日本は倭国の一部の豊日や日向など九州天孫王朝の古地だったのかもしれない。日下部氏がいたのだから、日の本の国があった。
白村江の敗北ののち、新生の国名を滅びた倭や畿内をあらわす大和でなくこの日本の名前としたのかもしれない。