鉄剣、出土品、4〜5世紀

東大寺山古墳出土の中平銘大刀:奈良県天理市

古墳から金象嵌の長さ110センチメートルの鉄刀が検出された。推定銘文は、次の通りである。

「中平□□ 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 □□□□」

文の内容は、「中平□年五月丙午の日に、この銘文を入れた刀を造った。よく鍛えた鋼の刀であるから、天上では神の御意にかない、下界では災いを避けることができる。」という意味である。

中平とは、霊帝の治世の184年 – 189年の期間の年号である。この頃は、『魏志』倭人伝には、倭国乱れ互いに攻伐し合い、長い間盟主なく、のち卑弥呼が王となる、とある。 「五月丙午(へいご、ひのえうま)」とは、盛夏を意味し、刀剣や鏡などの金属器を造る時、太陽から火を採る最適の日と考えられている。実際の日の干支とは関係なく刻まれる吉祥句(常套句)である。日本の箕谷の鉄刀にも五月と刻まれている。

東大寺山古墳は全長140メートルの前方後円墳で、4世紀後半頃に築造された。刀には環状の柄頭(つかがしら)が新しくつけられていた。この柄頭は、三葉環頭と称されるもので、埋葬の直前に付け替えられたと考えられる。約200年も経て埋葬された。下賜された人物とその子孫が権威の象徴として「伝世」したともみられる。

天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては和邇氏の本拠地であり、関連一族が築造した古墳が丘陵上に点在しており、東大寺山古墳群をなしています。同規模の前方後円墳が他に3基あり東大寺山古墳→赤土山古墳→和爾下神社古墳→墓山古墳の順で築造されています。

副葬品は鉄刀20本、鉄剣9本、鉄槍10本、320本の鉄鏃・銅鏃、漆塗りの楯・短甲などの武器類、玉類、石製模造品などが出土している。「中平」銘鉄刀を含む5本の鉄刀の環頭は三葉環の鉄刀で、福岡市西区徳永下引地の若八幡宮古墳(4世紀)からも出土している。

倭国では2世紀終わりごろに「倭国乱」が起こり、争乱状態であった。

4世紀の和邇氏
被葬者は難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)説がある。
副葬されていたおびただしい武器や武具により埋葬者は武人です。難波根子建振熊は神功皇后新羅遠征時、丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍。帰国後の忍熊王との戦いでも活躍しました。建振熊は和珥氏ですが、丹波・但馬・若狭の長となり、海部氏の系図(国宝)にも記載されています。
建振熊は神功皇后と15代応神天皇時代の功労者として、和珥氏の墓域に全長140mの比較的大型の前方後円墳を出現させたか?

会津大塚山古墳の鉄剣

会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。また、環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している。

会津大塚山古墳は大正9年(1920年)に考古学者の鳥居龍蔵によって古墳として認められ、その後、昭和39年(1964年)に『会津若松市史』出版事業の一環として東北大学文学部考古学研究室(伊東信雄教授)による後円部の発掘調査が行われた。

この調査では、後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。また環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土している。南棺は北棺よりも古い埋葬で、遺った歯から老齢の男性であると推定され、大塚山古墳の主と考えられている。北棺からも量は少ないが南棺と同様の副葬品が出土した。

この調査によって古墳の全容がおおよそ判明し、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。

若八幡古墳の鉄剣

若八幡宮神社内にある前方後円墳。高祖山山塊より派生する標高29メートルの丘陵上に築かれ、前方部を北に向ける。

墳長47メートル、前方部長25メートル、後円部径25メートルで、後円部三段、前方部二段の築成。墳丘には葺石を施す。埋葬主体部は長さ2.75メートル、幅1.2メートルの刳貫の舟形木棺(材質はスギ)で、後円部中心に掘られた径13メートル前後の円形墓壙の中に古墳長軸と直交して埋置する。

頭部にあたる木棺西側に集中して三角縁二神二獣鏡、鉄製環頭太刀・剣・刀子・斧・鏃および銅製有孔円盤・玉類など多くの副葬品が納められていた。特に三葉環の鉄刀は、後漢「中平」(180年代)紀年銘の鉄刀が検出した東大寺山古墳(奈良県・天理市)と同様で、その関係が指摘されている。

4世紀後半の築造と考えられる。今宿平野には12基の前方後円墳を主墳とする多くの古墳群が分布しているが、本古墳はその中で最古の位置を占める。

今宿古墳群は高祖山の麓に広がる。国史跡外にも約350基もの古墳が存在しており、研究者はこの山を「墳墓の山」とも呼んでいる。これほどの規模の古墳群を残しながら、被葬者が何者かは謎らしい。今宿古墳群は東西3km、南北1.5kmの範囲に分布し、11基の前方後円墳と350基以上の円墳が良好に残っていること、古墳時代全時期を通じて同じ場所にずっと前方後円墳を造り続けるという全国的に見ても珍しい古墳群である。

若八幡宮(わかはちまんぐう)古墳からも方形板革綴短甲(ほうけいいたかわとじたんこう)が出土しています。若八幡宮古墳出土の短甲は全国的に見ても古い形の甲冑です。また兜塚(かぶとづか)古墳もその名が示す通り、江戸時代に発見されたときに甲冑が出土したとの伝承があり、現代の発掘調査でも甲冑とみられる破片が出土しています。甲冑が4~5世紀にかけて連続して出土する古墳群は全国的に見ても数例しかありません。また、丸隈山古墳の2面の鏡はどちらも日本で作られたとみられるほう製鏡ですが、大型のほう製鏡は沖ノ島祭祀遺跡を除くと北部九州ではほとんど出土していません。鋤崎古墳からも多量の鏡が出土していますが、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が含まれない鏡の組み合わせになっています。また鋤崎古墳の円筒埴輪や形象埴輪(家や武器の埴輪)は福岡県内では最も古い段階のもので、畿内の埴輪工人の間接的な関与がうかがえます。また鋤崎古墳の石室は、追葬が可能である横穴式石室としては全国でも最古の段階のもので、その祖型は百済(くだら)地域の漢江流域(現在の大韓民国ソウル市近辺)の石室と考えられています。 

このように今宿古墳群でも若八幡宮古墳・鋤崎古墳・丸隈山古墳といった4世紀~5世紀前半までの前方後円墳は、日本で最も「古い」「珍しい」遺物や遺構という事例が多くみられます

刀工の遺跡

今宿周辺(現在は九大学研都市駅の周辺)5世紀頃、刀工が住んでいて刀をうっていたという。出土品の中でも貴重なのがこの鉄鉗(かなはし)は主として鍛冶具として使用される、熱した鉄をはさむための道具です。別名・火バサミ、やっとことも言われ、円墳から出土した鉄鉗(かなはし)は長さ約50cmと5世紀前半としては大きなものです。

魏志倭人伝には、伊都国には「世々王あり」と書かれている。三雲、井原から3世紀の平原まで続いたことを言っている。

石上神宮伝世の七支刀

七支刀は、神功皇后の時代に百済の国から奉られたと伝えられ、奈良県天理市石上神宮に保存されていた。七支刀の名は、鉾に似た主身の左右から三本ずつの枝刃を出して計て七本の刃を持つ形に由来すると考えられる。主身に金象嵌の文字が表裏計61字記されている

銘文

泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供(異体字、尸二大)王■■■■作
また

泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作


先世(異体字、ロ人)来未有此刀百済■世■奇生聖(異体字、音又は晋の上に点)故為(異体字、尸二大)王旨造■■■世
また

先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

表面にある年紀の解釈に関しては未だ定説はないが、「泰和四年」として369年とする説、泰■四年を「泰始四年」として468年を当てる説がある。

千葉県市原:稲荷台1号墳出土の王賜銘鉄剣

鉄剣には、銀象嵌で、表面に「王賜□□敬□(安)」、裏面に「此廷□□□□」と記されている。鉄剣に紀年が記されていないが、木棺に収められていた鋲留短甲と鉄鏃の形式から5世紀中葉と見られている。

銘文を読み下すと、「王、□□を賜う。敬(つつし)んで安ぜよ。此の廷(刀)は、□□□」となる。内容は、王への奉仕に対して下賜するという類型的な文章で、「王から賜った剣をつつしんで取るように」ということである。被葬者は2人の武人であり、房総半島の一角に本拠をもつ武人が畿内の「王」のもとに出仕して奉仕し、その功績によって銀象嵌の銘文を持つ鉄剣を下賜されたものと考え、銘文中の「王」を倭の五王のうちの「済」(允恭天皇)とする説が有力である。しかし和歌山県の隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡の銘に「大王」の記述が見られ、この鏡の銘の癸未年を443年とすると允恭天皇は「大王」を名乗っていたと推測されることから、「王」を上海上の首長である対岸の姉崎二子塚古墳の被葬者とみる説もある。

埼玉県行田市稲荷山古墳

全文115字からなる金象嵌の銘文が記されている。全長73.5センチメートル、中央の身幅3.15センチメートル、鉄剣の表裏に金象嵌の115字の銘文、表に57字、裏に58字が記されている。タガネで鉄剣の表裏に文字を刻み、そこに金線を埋め込んでいる。優れた技術者がいたと推測される。
辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。通説通り辛亥年が471年とするとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王とは、大長谷若建(おおはつせわかたける)命・大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)・雄略天皇であり、あるいは『宋書』倭国伝にみえる倭王武であると比定される。大王という称号が5世紀から使われたことの確実な証拠となる。ヲワケが地方豪族であるか中央豪族であるかの判断など研究者で意見が分かれる。加多支鹵大王とはヤマトと異なる関東の大王だとの説も有り、それによるとヤマトの支配権は関東に及んでいなかったことになる(古田武彦説)。

銘文「意冨比垝」の「意」・「比垝」は百済の用字法にもある。 『三国史記』百済本紀 513 年の条に、日本人 穂積臣押山おしやま(穂積押山)の名が「意斯移麻岐彌(おしやまきみ)」と記されている。また、『日本書紀』神功皇后 47 年 4 月の条に「百濟記に職麻那那加比跪(ちくまなながひこ)と云へるは、蓋し是か」、同 62 年の条に「百濟記に云はく……貴國沙至比跪(さちひこ)を遣はして之を討たしむ」とある。「垝」と「跪」とは同音である。

また「辛亥年七月中記」の「中」は、朝鮮古漢文でも758年頃に用法としてある 。

「多沙鬼獲居」の「多沙鬼」は、『日本書紀』神功皇后 50 年 5 月の条に見える「多沙城」に由来する名と推定される。「多沙」は任那の地名である。

ほか、「百練」以外の常套句・吉祥句がない。「辛亥年七月中記」中国的要素が強い。ヲワケの祖先八代の系譜を記している。ヲワケ一族の伝統とこの鉄剣を作った理由を記している。ヲワケの臣の父(カサハヨ)と祖父(ハテヒ)には、ヒコ・スクネ・ワケなどのカバネ的尊称がつかない。部民制の用例がみられない。ヲワケの臣。すでにウジ(氏)とトモ(伴・部)の成立がみられる。当時の倭国の人名・地名を漢字音で表記している。獲加多支鹵大王のもとに中国語に精通した記録者の存在を示している。

表の銘文
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
<訓読>

辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。
裏の銘文
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
<訓読>

其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

江田船山古墳の鉄剣:熊本県玉名郡和水町

全長61メートルの前方後円墳で、横口式家型石棺が検出され、内部から多数の豪華な副葬品が検出された。この中に全長90.6センチメートルで、茎(なかご)の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3センチメートルの大刀(直刀)があり、その峰に銀象嵌の銘文があった。字数は約75字で、剥落した部分が相当ある。

ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。 大刀を作ったのは伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である。

かつては「治天下犭复□□□歯大王」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説が有力であったが、1978年に埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)とする説が有力となった。

この説によれば、金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる。

この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。年号はない。『宋書』倭国伝に引く倭王武の上表文にみえる「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國」(東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国)の表現に対応するかのごとくである。

銘文
治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
<訓読>

天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。

ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。 大刀を作ったのは伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である。

かつては「治天下犭复□□□歯大王」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説が有力であったが、1978年に埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)とする説が有力となった。

この説によれば、金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる。

この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。年号はない。『宋書』倭国伝に引く倭王武の上表文にみえる「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國」(東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国)の表現に対応するかのごとくである。