伊迦賀色許男命、宇陀、水分神社

伊迦賀色許男命. いかがしこをのみこと

別名
伊香色雄命:いかがしこをのみこと. 饒速日命六世孫。

『先代旧事本紀』では大綜麻杵命の子。伊迦賀色許売命の弟。 穂積朝臣はじめ物部系の氏族の祖。

崇神天皇の時、意富多多泥古を神主として大物主神を祀るにあたり、天之八十毘羅訶(平瓮)を作り、天神地祇の社地を定めた。

天皇の夢のなかに神人が現われて、「赤盾八枚・赤矛八竿(さお)を以て、墨坂神(すみさかのかみ)を祠れ。亦(また)黒盾八枚・黒矛八竿を以て、大坂神(おおさかのかみ)を祠れ。」という

さらに崇神天皇の時、石上大神を氏神として祀った。

伊迦賀色許男命 を祀る神社

伊加加志神社 徳島県吉野川市川島町桑村1635
伊加奈志神社 愛媛県今治市五十嵐字上ノ山甲634
椋橋神社 兵庫県美方郡香美町香住区小原827-1

奈良と伊勢

  1. 大物主神:大神神社(奈良県桜井市三輪)
  2. 天照大神:皇大神宮(伊勢)
  3. 倭大国魂神:大和神社(奈良県天理市)

皇大神宮由来の伊勢久留麻神社と、大和神社由来の大和大国魂神社が、一見場違いとも見える淡路島にある。
■宇太水分神社

菟田野うたの区古市場ふるいちばは、かつては伊勢・熊野の海産物を大和に運ぶ交易の要地であり、その名のとおり市場町としても栄えた。その古市場の商店街の中程に宇太水分神社うだのみくまりじんじゃ(中社)が祀られている この神社は、大和朝廷の勢力範囲の東西南北に祀られた水分の神の東に当たり、崇神天皇の勅祭社とも言われる古社で、玉岡水分神社とも呼ばれている。

一方、社伝によると、当社の起こりは、垂仁天皇の時に神託によって社殿が建設されたことにはじまると「玉岡水分社縁起」には記されている。すなわち、垂仁天皇の時代に伊勢神宮の神職・玉造村尾が神託によって御裳濯みもすそ川の水を分けて水分神体とし、高見山に登って鎮座地を請い、大和の宇陀に東西二社の社殿を構えて当社を本社と定め、井谷(下井足)と中山(上芳野)の社を摂社としたと言う。太水分神社(中社)うだのみくまりじんじゃ(なかしゃ)の『玉岡水分縁起』では、当社すなわちこの惣社と下井足の水分神社(下社)が、共に古市場の水分神社の摂社とされている。しかしながら、当社所蔵の貞和2年(1346)の瓶子には”芳野本水分宮”と刻まれている。さらに、当社の社記には、神幸渡御の神事について、当社から古市場と下井足へ分霊鎮座式を行ったと書かれており、この惣社を本(もと)として芳野川中流の古市場、下流の下井足へ分霊を移したとも考えられる。

宇太水分神社(中社)

この神社は、大和朝廷の勢力範囲の東西南北に祀られた水分の神の東に当たり、崇神天皇の勅祭社とも言われる古社で、玉岡水分神社とも呼ばれている。左右の二棟に天水分神あめのみくまりのかみ、国水分神くにのみくまりのかみを祀り、中央の一棟にこれらの2神の父にあたる速秋津彦命はやあきつひこのみことを祀っている。境内には金毘羅社と恵比須社も祀られている

宇太水分神社(下社)

祭神として次の神々を祭祀している。 

天水分神あめのみくまりのかみ、国水分神くにのみくまりのかみ、天児屋根命あめのこやねのみこと、品陀別命ほんだわけのみこと なお、末社として石神神社、稲荷神社、金比羅神社も境内に祀っている。

孝霊天皇の第三皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)

通称吉備津彦命は桃太郎伝説のモデルと言われている。

崇神天皇が出雲大神の宮に収めてあるという武日照(たけひなてる)命が天から持って来たという神宝を見たいといって、武諸隅(たけもろすみ)なる人物を遣わした。

この武日照命とは建夷鳥(たけひなとり)、または天夷鳥(あめひなとり)ともいい、『古事記』によれば、天菩比(あめのほひ)命の子で出雲氏の始祖だという。つまりは、天孫降臨神話と同じように出雲氏の祖先も天から降臨したという始祖神話をもっていたのである。このときに持って来た神宝というから、大王家における三種の神器のように出雲の王家にとっての無二の宝物であって、それを献上するということは、ヤマト政権に服属することを意味するのである。

この時派遣された武諸隅は矢田部(やたべ)氏の祖先で、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という平安時代初めに成立した氏族の由緒を記した書物には、伊香我色乎(いかがしこお)命の子孫と記されているが、この伊香我色乎は『日本書紀』には伊香色雄とあって、同じ崇神天皇の時代に、三輪の大物主神を祭るときに祭器を作製したという人物で、『旧事本紀(くじほんぎ)』という書物ではその孫が武諸隅だという。伊香色雄は物部氏の祖先なので、崇神天皇は物部の一族を出雲に派遣したわけである。

日本書紀』孝霊天皇2年2月丙寅(11日)条

立細媛命為二皇后一。一云。春日千乳早山香媛。一云。十市県主等祖女真舌媛也。后生二大日本根子彦国牽天皇一。妃倭国香媛。亦名絙某姉。生二倭迹迹日百襲姫命。彦五十狭芹彦命。亦名吉備津彦命。倭迹迹稚屋姫命一。亦妃絙某弟生二彦狭島命。稚武彦命。弟稚武彦命一。是吉備臣之始祖也。

摂津の椋橋神社  椋橋部連の祖、伊香我色乎命

『新撰姓氏録』には、摂津国の未定雑姓に椋椅部連氏(物部氏の同族)、和泉国の未定雑姓に椋椅部首氏(皇別氏族とする)が現れ、その他無姓の「くらはしべ」は諸国に分布している。有姓の者として、『続日本後紀』に倉橋部直氏嗣の名が見え(承和15年4月壬寅条)、美濃国に倉橋部造氏の名が見える(「法華経玄賛巻第三奥書」の天平3年5月23日「倉橋部造麻呂書写法華経玄賛願文」)。 無姓の者としては、武蔵国に『万葉集』巻20に武蔵国の椋椅部の者が、『続日本後紀』にも椋橋部の者が見え(承和5年12月辛亥条)、信濃国に倉橋部広人(『続日本紀』神護景雲2年5月辛未条)が、また越前国に椋橋部(天平神護2年10月21日付「越前国司解」)が見える。また丹後国に椋橋部(天平勝宝元年12月19日付「丹後国司解」)の者が見え、加佐郡には椋橋郷があった。

『姓氏録』には椋橋部首の祖、吉備津彦五十狭芹彦とある。

椋橋総社略記  (神社で頂いた略記です)

御祭神 素盞鳴之尊・神功皇后(邪悪と災厄を除く神)
御社紋 祇園木瓜
当杜は古来より東西椋橋荘の中央である荘本(庄本)に鎮座し、同荘の総産土神で・椋橋総杜又は椋橋荘神崎松原の社とも称する。遠き神代の御時、素盞鳴之尊が高天が原より鯉に乗り、神前(神崎)の水門(ミナト)を経て当荘に御降臨なされたことにより、崇神七年椋橋部連の祖、伊香我色乎命(イカガシコヲノミコト)が斎い定め祀ったと伝えられている。椋橘荘は正史にも明らかな地で、椋橋部連とその曲民の住む土地であった。(東寺古文 新撰姓氏録)この荘の区域は猪名川を境にして東西に別れ、東椋橘荘が石連寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津島、嶋田、今在家、州到止、荘本(庄本)、島江、以上十四カ村と西椋橋荘が高田、神崎、戸の内、推堂、穴田、富田,額田、高畑、善法寺、法界寺、以上十ヵ村と東西合わせて二十四力村からなっていた。(地理志料)また、当杜は昔、神功皇后が新羅へご出発の時、神々をこの神庭に集め、幸をお祈りになったという霊験著しい古杜である。
(摂津風土記・南郷春日旧記、豊島郡史、神杜明細帳)

古事記

ここに兄宇迦斯、鳴鏑をもちてその使を待ち射返しき。故、その鳴鏑の落ちし地を、訶夫羅前と謂ふ。待ち撃たむと云ひて軍を聚めき。然れども軍を得聚めざりしかば、仕へ奉らむと欺陽りて、大殿を作り、その殿の内に押機(おし)を作りて待ちし時に、弟宇迦斯、まづ参向へて、拝みて曰しけらく、「僕が兄、兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、得聚めざりしかば、殿を作り、その内に押機(おし)を張りて待ち取らむとす。故、参向へて顕はし白しつ。」とまをしき。ここに大伴連等の祖、道臣命、久米直等の祖、大久米命の二人、兄宇迦斯を召びて、罵詈りて云ひけらく、「汝が作り仕へ奉れる大殿の内には、おれまづ入りて、その仕へ奉らむとする状を明し白せ。」といひて、すなはち横刀の手上を握り、矛ゆけ矢刺して、追ひ入るる時、すなはち己が作りし押に打たえて死にき。ここにすなはち控き出して斬り散りき。故、其地を宇陀の血原と謂ふ。然してその弟宇迦斯が獻りし大饗をば、悉にその御軍に賜ひき。(途中、歌略す)故、その弟宇迦斯、(こは宇陀の水取等の祖なり。)

崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる」とあるがこれは正確でなく、伊香色雄はこの時の神祭りにあたって「幣帛を分かつ者」に任じられ、配下の物部氏族に命じて神々を祭る祭具を造らせるなど、祭りの用意万端整える役だったのであって、神祭りを主導したわけではない。

これは『日本書紀』『先代旧事本紀』とも同じ記述。

『先代旧事本紀』では、この時に布都大神の社を大倭国山辺郡石上邑に遷して建て、また饒速日尊より伝わる神宝を納めて石上大神と申し上げ、伊香色雄命は姉の伊香色謎命(開化天皇皇后)とともに石上神宮を斎き祀った、とする。

墨坂神社

崇神天皇の時、神々が荒れたので、大和への東の入り口にあたる当地の墨坂の神に赤色の楯矛を祭り、西の大坂の神に墨色の楯矛を祭ったと言う。西は大坂山口神社に比定されている。 疫病退散と祈雨の祈りであった。東の墨坂神社が延喜式に記載のないのが不思議である。