大庭城、相模の城

藤沢駅、辻堂駅から北場所で10分ぐらい。

相模川の東の要衝です

3 thoughts on “大庭城、相模の城

  1. tokyoblog Post author

    散歩に行きたいところ
    鎌倉権五郎景正とその一族
    村岡忠通の子、章名は景通、景村、景成の3人の子を儲けたが、この内、景成の息子の権五郎景正の代に鎌倉氏は大きく発展を遂げることとなる。 すなわち、景正は源義家に従軍して後三年の役において勇名をとどろかせ、戦後には多数の浮浪人を集めて相模国高座郡南部の一帯を開墾して大庭御厨を成立させたのである。

    石橋山の戦いで源頼朝を破った大庭景親は、鎌倉権五郎景政を祖とし、景政が開発した「大庭御厨」の経営を行っていた豪族です。

    1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると平氏方につき、石橋山の戦いで頼朝を撃破したが、頼朝が安房(源頼朝上陸地)に渡り、東国武士団を従えて鎌倉入りを果たすと、平氏軍に合流しようとするが、頼朝軍に阻まれ河村山に逃れた。

    富士川の戦いで平維盛が敗走すると降伏し、上総介広常に預けられ、片瀬で処刑された。 

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    村岡御霊神社(藤沢市宮前)
    板東八平氏の祖平良文が勧請したと伝えられる神社です。
    良文の館がこの辺りにあったとされ、子孫の鎌倉権五郎景政も住んでいたといわれています。
    のちに、景政の父景成が鎌倉に館を構えたことにより、「鎌倉氏」を名乗るようになったといわれています。

    鎌倉権五郎景政が、源義家に従った後三年の役で、右目を矢に討たれながらも奮戦したという伝説は知られているところです

    大庭城址は長らく大庭氏の居城とされてきたが、発掘調査の結果、室町、戦国時代の城郭跡と判明したという。

    景親の兄・景義は、頼朝に従い、鎌倉御家人として仕えている。
    「鎌倉氏」の一族である大庭氏も源義朝に仕え、保元の乱で活躍しています。特に、大庭景義(景親の兄)は、源為朝の矢を足に受け重傷を負っています。必中必殺の為朝の矢を受けて生き残ったのは景義一人ともいわれています。
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    景義は、大庭御厨の懐島郷(茅ヶ崎市)に館を構えました。
    1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵します。

    大庭兄弟にとって、頼朝につくのか、清盛(平家)につくのかは重要な問題となりました。
    しかし、兄弟の意見は分かれます。

    「代々、源氏に仕えてきたからには、頼朝に味方する」
    というのが兄景義でした。

    一方の弟景親は、
    「平家の厚恩に報いるため、やはり平家につく」

    というものだったといいます。

    こうして、石橋山の戦いは、兄弟が敵味方となって戦うことになります。

    ただ景親の運が悪かったところ・・・
    それは、頼朝追討の総大将となってしまったところかもしれません。

    石橋山の戦いで、景親は頼朝に大勝しますが、その後、頼朝が東国武士団を率いて鎌倉に入ると形勢は逆転してしまいます。

    『吾妻鏡』によれば・・・
    1180年(治承4年)10月18日、景親は、平家に味方するため1000騎を率いて上洛しようとしますが、頼朝軍20万騎が足柄峠を越えて行ったため、景親は前方を塞がれてしまいます。仕方なく河村山に逃げ込んだということです。
    そして、10月20日、頼朝追討のため東下してきた平維盛率いる平家軍は、富士川の戦いで敗走してしまいます。

    10月23日、景親は、ついに頼朝に投降します。そして、上総介広常に預けられました後、10月26日、片瀬で処刑されました。

    さて、兄の景義はというと、景親が投降した23日に所領が安堵され、さらに河村義秀の所領を賜っています。
    景義は、頼朝の新亭造営の奉行にも任じられています。

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    景親が投降したとき、長尾定景や河村義秀といった武将も出頭しています。長尾定景は、岡崎義実に預けられた後、許されています。
    長尾定景は、石橋山の戦いで義実の子佐奈田与一義忠を討った武将です。

    しかし、毎日法華経を読経していた定景をみていた義実は、定景の首を斬ることはできず、頼朝に赦免を願ったといいます。

    長尾定景は、のちに源実朝を暗殺した公暁を討ち取ることになります。戦国武将上杉謙信の祖ともいわれています

    河村秀義は、景義に預けられた後、許されています。
    頼朝は、景義に秀義を処刑するよう命じたといいますが、のちに行われた流鏑馬で頼朝に弓馬の技を披露したことで許されたといいます。

    しかし・・・景親は、2日後には処刑されました。

  2. tokyoblog Post author

     渋谷氏は、桓武平氏秩父氏の一族で、重国は渋谷荘を与えられ、渋谷庄司と称し、綾瀬から大和、藤沢一体を統治した(参考:鶴舞伝説と公所浅間神社)。

     『吾妻鏡』には、1159年(平治元年)、平治の乱で源義朝に味方して敗れた近江源氏の佐々木秀義が、奥州平泉の藤原秀衡を頼るため渋谷荘を通りかかったときに、それを引き止め、以後、約20年間にわたり面倒をみたという話が残されている。

     1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、父秀義と共に渋谷荘で暮らしていた定綱、経高、盛綱、高綱の兄弟(佐々木四兄弟)は、頼朝のもとに馳せ参じ、鎌倉幕府成立に大きな貢献をした。

     このとき重国は大庭景親方に付いていたが、のちに頼朝につき御家人に列せられている。 

  3. tokyoblog Post author

    鎌倉の古都をつくったのは頼朝だけではない

    さて、早雲の後を継いだ六代の城主がまた名君揃いです。
    玉縄城の初代城主になったのは早雲の次男の北条氏時。二代城主は早雲の孫にあたる北条為昌、 そして三代城主が地黄八幡の幟で名高い戦国の英雄、北条綱成です。
    さらに氏繁、氏舜、氏勝と六代の玉縄城主は、いずれも文武両道に秀でた名君でした。 それぞれに早雲の誓いを受け継ぎ、鶴岡八幡宮の改修を進め、鎌倉のまちを整備し「民のための国造り」 の理想のもとに「四公六民」の善政を敷いて民の繁栄を図ったのです

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