伊豆のテングサは、日本一の産地であり、良質なのか価格も高い。良質なテングサは何度も天日乾燥して色も白く粘りのある透明なトコロテンになる。
伊豆天草の価格は一般的な天草の2倍
トコロテンの作り方
天草を洗い、トロ火でじっくりと約6時間かけて川の名水で煮とかします。熱さと蒸気の充満した中での作業は、根気と体力を必要とします。じっくりと時間をかけて煮溶かした液体を、布で3回濾して滑らかにします。形に流し込み、常温でゆっくりと自然冷却して仕上げます。急激な冷却と違い、むら・にごりの無いところてんが完成します。
市場価格は100gが千円程度
原材料:天草(静岡県西伊豆産)
内容量:50g 540円
500円程度で2リットルのトコロテンが出来そうです。
- 天草1袋をよく水洗いし、一晩水につけておく。
- 水からあげた天草を水2~3Lで沸騰するまで煮る。
- 沸騰したらよくかき混ぜ、とろ火にし、小さじ1杯の酢を加え、1時間程度 とろみがでて水分が2/3位になるまで煮込む。
- 煮汁を添付のこし袋などで固く絞り、こし汁を容器に入れて粗熱がとれたら冷蔵庫で冷やす。
*濃度が濃いので常温でも固まります。
*固まる前にお好みのフルーツやジュースを入れるなど、アレンジをお楽しみ下さい。
安い市販の寒天は、純粋な天草でなく混じり物がある。寒天でなく、テングサからトコロテンを作るのが良い。
天草漁
海女さんが海に潜り、質の良い天草だけを選んで収穫します
海女と共に消える天草、伊豆稲取
稲取のテングサを支えてきた海女漁。今夏でその歴史が途絶え、伊豆漁協は新たな漁法を検討する=1966年ごろ、東伊豆町(同町の水産会社「徳造丸」提供)
江戸時代から続く東伊豆町稲取の伝統産業のテングサ漁が、岐路に立たされている。「最後の海女」として長年、採取を一人で担ってきた山本都志子さん(79)が今夏亡くなり、稲取での海女漁の歴史が途絶えた。高品質で知られる稲取のテングサを守るため、地元の伊豆漁協稲取支所は新たな漁法と藻場保全策を検討している。
町の郷土史には「1955年ごろにはタル海女70人、干潮時に岩のテングサを取るおかむしりが真夏に40人いた」との記録が残る。その後、高齢化と後継者不足に直面。山本さんが一人で伝統の漁をつないでいた。
いろんな食べ方
関西地方では古くから、ところてんは黒蜜とともに食べることが主流。一般的に関西人は、甘いおやつ感覚で食べてきた人が多いという。
関東は、ところてんに酢醤油や三倍酢をかける食べ方が主流。そして、昔馴染みの「黒蜜とともに食べるほうがよい派」と、新しい味として「酢醤油で食べるほうがよい派」に分かれるようです。
関西で黒蜜をかける理由は、くずきりと同じ食べ方をするようになった、という説が有力なようです。食感が似ていることから、ところてんもくずきりの様に黒蜜とともに食べるようになったと言われています。
江戸時代のトコロテン売り
何故、心天や心太と書くか?
歴史をたどって推定できる。
藤原京出土の木簡に心太の文字があった。
大嶋穂積〈〉心太廿斤
心とは凝るが転じたものであるという。
倭名紗の「大凝菜」の項に「凝海藻」とあり,「俗用心太 (古々呂布止)とある。煮ると抽出物が凝結して煮こごりができる海藻を 総称して凝海藻と呼んだ可能性がある。「心太」は延喜式及び伊呂波字類抄にも俗称とある。
現存最古の漢和辞典「新民字鋭J (892)に凝海菜の読みに「伊支須」とある(京都大学文学部国語学国文学研究室1979)。現行の漢名は粘性物質を抽出することができるエゴノリ族Campylaephorα に「凝菜属」をあてている。凝海菜は藻を煮溶かして トコロテン状に固まるテングサ属とイギス属などの海藻類と推定できる。
室町時代の職業を紹介した「七十一 番職人歌合絵巻J(16世紀初頭)に「心太うり」があり,「心ぶと 心 てい」と表記がある(千葉県立中央博物館 197)。
テングサは真藻マクサが本物
テングサ科の海藻。
広義には、寒天製造の主原料となるテングサ属数種の総称であるが、狭義にはそれらの代表種であるマクサG. amansii Lamourouxをさす。
マクサは暗紅色で、針金を柔らかくしたような細い体枝が密に分岐し、ふさふさとした形状となる。体高10~30センチメートル、茎枝の太さ1ミリメートル内外、小枝の太さ0.2~0.3ミリメートル。干潮線下から深さ20メートルまでの海底に叢生(そうせい)する。周年生育の多年生海藻であるが、とくに5~10メートルの深さに多産し、5月から7月にかけて繁茂する。温海性海藻のため、太平洋岸では房総半島、伊豆七島、伊豆半島、紀伊半島東半部、室戸岬などの周辺が主産地となる。日本海では能登(のと)半島、隠岐(おき)諸島や佐渡島周辺に多産する。
なお、形態がテングサ属によく似て寒天原料とされるものにオバクサPterocladia capillacea Bornet et Thuretがある(品質はやや劣るといわれる)。オバクサの生育域がほぼオニクサと同じで、体形はマクサに似る。
寒天の発見は偶然1658年
テングサの古名である凝海藻(コルモハ)は、すでに701年(大宝1)制定の大宝律令(りつりょう)の賦役にかかわる部分にその名が出ている。ちなみに、属の学名であるGelidiumもラテン語のgelidus=凝固に由来する。また、凝固したものを心太(こころふと。現在のところてんにあたる)とよぶが、この名も927年(延長5)に撰進(せんしん)された『延喜式(えんぎしき)』のなかで、「京都の市場で売る」という表現で記載されている。このように、日本でのテングサ利用は長い歴史をもっているが、心太のままでは原藻体中のタンパク質や臭気成分が含まれるため、腐りやすく、運搬にも不便であっおた。やがて、偶然の機会から、今日につながる寒天の精製法が発見された。1658年(万治1)の冬、参勤交代の途上にあった島津藩主が京都市外伏見(ふしみ)の旅宿に泊まったおり、心太の食べ残りを旅宿の者が戸外に捨てたところ、後日それが干物のような凝質になったという。その干物は、煮ると元のように糊状液となり、やがて凝固するが、味は元のとは違って無色・無臭の美味なものであった。のちに、これに工夫・改良を加えた品を帰化僧の隠元禅師(いんげんぜんじ)が寒天と名づけたとされる(1660年前後)。心太から寒天ができた過程を今日的に解釈すると、「冬季夜間の低温で心太が凍結し、その際に寒天質と他の雑物とが分離する。翌日の昼間、解凍して水溶性の雑物が除去される。このような凍結と解凍とを繰り返して寒天質だけになる」ということになる。こうしたことから、長いこと、寒天製造に適した土地は、雪が少なく、夜間の気温が零下10℃内外の気象条件の山間地とされてきた。つまり、原料は海岸で夏季に採取され、これを遠く離れた山間地に送って冬季に製造するという状態が続いたわけである。
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