不動明王とは
密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。(ウィキペディアより)
能曲「泣不動」と三井寺
能曲の「泣不動(『鳴不動』と表記することも多い)」は、三井寺を訪ねた熊野の山伏が、不動明王の眷属だという童子より泣不動の縁起を聞く、というものです。
熊野から松島平泉を訪ねるという山伏。大峰奥駆け道の雲上の峰道、葛城山、大和路、雪まだ残る山城国、近江路を過ぎて、三井寺に差し掛かる。
三井寺は不動尊で有名。気持ちよい春の宵に不動尊を拝もうと護摩壇に座り一心に念誦していると「辺りに住む者」と名乗る人物が、声に引かれて訪ねてくる。山伏はその者に泣不動の謂れを聞かせてくれるように頼む。
語られる泣不動の物語。昔々、三井寺の高僧・智興内供が病気にかかった。智興は弟子達に自分には未だ叶っていない五つの大願があり、それだけが心残りだと語る。弟子の証空はそれを聞き、不動明王に身代わりの誓いを立てる。
たちまち願いは成就して、智興の病は証空に移る。死を覚悟した証空は最期に不動尊にお暇を、と持仏堂に参る。すると苦しみの夢うつつに、不動明王が現れる。
不動明王は涙を流しながら証空の志を誉め、さらに証空を助けるため、自分が身代わりになると申し出る。そして証空はすぐさま蘇生したのであった。
「辺りに住む者」ここまで語り、実は不動尊の眷属の童子であったと正体を明かし、不動像の陰に隠れてゆく。そして山伏にその後の顛末を夢中に再現してみせる。
死の定めだけは不動明王でも覆せない。身代わりとなった不動明王は証空の姿となって、閻魔王の居る地獄へ行く。
何も知らない地獄の鬼神達は、閻魔王の前に証空の姿をした不動明王を引き立てる。そして生前の罪を映し出す浄玻璃の鏡に翳すが、初めは何も映らない。次第に見えてきたのは不動明王の姿。鬼神達も閻魔王も驚き慌て、地に伏して不動明王に非礼をわびる。
最後に不動明王の利益を称え、物語は終る。
「泣不動縁起」絵巻
絵巻では不動明王は変装などせず、明王そのままの姿で獄卒達に鎖で繋がれて閻魔庁へ赴きます。獄卒達の当惑した様子や、門番や冥官たちの驚愕の様が描かれ、閻魔庁では閻魔王が連れてこられた不動明王に気づき、慌てて壇を下り、礼拝するという形になっています。獄卒達は表情豊かに動き絵巻の画面におもしろみを加えています。
そこを能では、不動明王が証空に化けて獄卒達をだまし、それが浄玻璃の鏡によって暴かれるという流れになっています。ただの人間だと思って連れてきた坊主が実は不動明王だった――
絵巻の展開より劇的な展開になっていると言えます。
清浄華院本『泣不動縁起』絵巻が成立した室町時代の中頃、能の演目として「泣不動」というものが登場してきます。
史料上の初出は享徳元年(1452)春日大社での奉納能で舞われた時の記録(『春日拝殿方諸日記』)で、観世太夫音阿弥が製作したものと言われています。
足利義教は将軍就任以前、義円と名乗り天台座主・青蓮院門跡として活躍していました。
五代将軍足利義量が急逝、将軍後継者選出で紛糾した幕府は、結局くじ引きで当たりを引いた義円を還俗させ、六代将軍に着けさせたのです。
還俗に辺り天台座主を退任しますが、留任するよう比叡山から嘆願が出る程、有能な僧侶であったようです。
修験道と比叡山
修験道は平安時代に霊山で修行した法華持経者などを淵源としたことから
(1)法華経を依経とす る天台宗と密接に関わって成立展開した。そして彼らが修行した熊野,金峰,大峰などを修行道 場とし,役小角(行者)を始祖として崇めている。天台宗との結びつきの端緒は,寛治 4 年 (1090)に白河上皇が熊野,同 6 年に金峰山に御幸され,熊野御幸の先達を務めた天台宗寺門派 園城寺の増誉を熊野三山検校に叙されたことにある。爾来園城寺の門跡がこの職を襲い,15 世紀 後半からは同寺末の聖護院門跡が重代職として,熊野先達を掌握して,修験道界を支配した。
一方天台宗の山門派では円仁(794-864)の弟子相応(831-918)が,比叡山の堂社を巡拝し, 無動寺を開き,中世後期には回峰行の祖とされた。この比叡山の修験道は熊野,大峰を中心とす る南山系の修験に対して北嶺修験と呼ばれている(。
こうした背景があったことから近世期には 山門の幸運の『北嶺行門記』や寺門の志晃の『寺門伝記補録』では,ともにその立義は顕,密, 修験の三道を中核にするとしている。
円珍と不動明王
寺伝によると、平安時代の貞観元年(859年)に三井寺(園城寺)を造るために山に登ってこられた智証大師円珍が、峰に紫雲がたなびき、夜ごと金色の光を表し、三井寺を照らしているのを田上山頂まで登って霊木で彫った不動明王の像を岩窟に安置して寺を建立したのが、太神不動寺の始まりと云われています。
高野山 赤不動明王院
赤不動明王は、いわゆる感得像で、赤い身色の不動明王を二童子と共に描いた画幅です。弘法大師の甥に当たられる方で、後に天台の座主にもなられる智証大師円珍和尚が、修行中に感得した不動明王の姿を、その余りの有り難さに自分の頭を岩に打ち付け、岩絵の具に頭血を混ぜて写しとられたと言われています。
後醍醐帝は、密教への崇信深く、灌頂を授かり加持祈祷を能くしたみかどとしても高名ですが、特に赤不動さまを守り本尊として厚く信仰され、吉野へも御籠の道中を共にされたと伝えられています。その後南朝の終わり頃、戦火に喪われることがあってはいけないと後醍醐帝によって高野山に移されました。
本山修験宗 茅原山金剛寿院 吉祥草寺
修験道の開祖役行者の誕生地で、寺も役行者によって開創されたと伝えられています。本堂は応永3年(1396)の再建によるもので、本尊は不動明王を中心とする五大力尊。毎年1月14日には高さが5mある雌雄2本の松明に火をつけ、その年の豊凶を占うことで知られる「茅原の大とんど」が行われます。
御所市茅原279
修験者、山伏と不動明王
鎌倉幕府の打倒を目指す後醍醐天皇を支えたのは山伏の勢力でした。
忠臣といわれた大楠公や名和長年や児島高徳もみな山伏のネットワークに組み込まれていたという。
山伏は大峯修行の際に12の道具を身に付けることになっています。
それは不動明王の姿を表すものとされて来ました。
胸の前に垂れ下げている左右2つずつの丸いボンボンです。ボンボンは背中にも2つ垂れ下がっており、合わせて6つを身に付けているのです。
このボンボンは「梵天」という名前で、ブッダになるために必要な6つの実践「六波羅蜜」を表します。
役行者
仏舎利宝殿の裏手に役行者の像。役(えん)とは公の事業に従事する人々を管轄する役職のことで、役行者は代々役を務めてきた賀茂役氏として生まれました。
賀茂氏とは、神武天皇を橿原に導いた八咫烏の子孫を名乗る一族で、初期の何代かの天皇は賀茂氏の女を妃に迎えています。役行者の母が賀茂役氏の娘で、父は出雲出身の高賀茂氏であると伝えられます。頭脳明晰であった役小角(役行者の本名)は、仏教の経典を学ぶだけでは飽き足らず、実際に山中に入って自然の中で心身を鍛える修行を実践したのでした。
像の左右を守るのは、修行中の役小角の前に現れた鬼の夫婦の前鬼・後鬼で、手力男命の末裔を名乗ったと言われています。
空海(弘法大師)が唐より密教を伝えた際に、日本に不動明王の図像が持ち込まれたと言われる。「不動」の尊名は、8世紀前半、菩提流志(ぼだいるし)が漢訳した「不空羂索神変真言経」に「不動使者」として現れるのが最初である。「使者」とは、大日如来の使者という意味である。大日如来の脇侍として置かれる事も多い
密教、空海と大日如来
密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとする。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。
蔵王権現
小角は、この乱れた世のなかで衆生を済度するには厳しい形相をした本尊を感得したいと、金峯山の山上で千日間念じ続けた。ある日、目の前に釈迦のお姿があらわれた。しかし小角は「この御像では、民衆を感化することは困難であるに違いない。」と言う。さらに念じ続けると弥勒菩薩があらわれた。小角は「なお、この御像でも民衆を感化することはとても叶いますまい。」と言う。すると突然、天地が大振動し稲妻とともに、右手右足を上げ憤怒の形相をした蔵王権現が地からあらわれたのである。この憤怒の形相こそ、小角が求めていた本尊のお姿だった。小角は喜び「これこそ、わが国の民衆を感化することができる。」と深い祈りを捧げ、感得した蔵王権現のお姿を桜の木に刻み、お堂を建てお祀りしたのである。(以来、桜の木は御神木とされ手厚く守られ、山岳信仰のある霊山では伐採を禁じるようになる。)
役行者(えんノぎょうじゃ)は、続日本紀によると、姓が役公(えだちノきみ)で、名を小角(おづぬ)と云い、634年(舒明天皇6年)8月10日大和国葛木上郡茅原(ちはら)の里、奈良県御所市茅原の本山修験宗大本山・茅原山・金剛寿院「吉祥草寺」で生まれ、父は高鴨神に奉仕する高加茂朝臣(たかかもノあそん)で、加茂役君(かもノえだちノきみ)、加茂間賀介麻(まかげまろ)と云い、又の名を大角(おおづぬ)。母は渡都岐比売(とときひめ)、又の名を白専女(しらとうめ)、刀自女(とらめ)と云って、第25代武烈天皇の御代(6世紀初期)大伴金村に攻め滅ぼされた大臣物部真鳥の娘です。