江川家と徳川家の縁起
江川さんは、代々の代官だそうで、徳川家康の側室は、お万といい、その養父は、江川さん(江川英吉の子)だったようです。お万は、家康の子を産みそれぞれ、紀州と水戸の徳川家の始祖です。
幕末の江川英龍氏
長崎へと赴き、高島秋帆の高島流砲術を学んで、更に独学で「耐火煉瓦」を開発すると、改良した大砲を韮山の反射炉で製造する準備も進めました。
1842年に「江川塾」を開くと、佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(木戸孝允)・大山巌・榎本武揚などが門下生となり、これらの最新技術を習得していますが、門弟は4千名以上だったとされます。
1853年にペリー提督が来航すると、老中・阿部正弘から命を受けて、江戸湾に「台場」の造営を築造したり、銃砲製造も行いました。
江川家
源頼親を祖先に持つ、この江川家は1160年代に、伊豆・韮山を知行したのが始まりで、当主は代々「江川太郎左衛門」を名乗りました。
江戸時代には旗本として徳川家に仕えると、韮山代官となり世襲し、徳川家の天領の管理・民政を行いました。
韮山代官は、通常は江戸役所にて勤務し、冬だけは韮山代官所に入ったとされます。
江戸役所の担当は、武蔵・相模・甲斐の天領で、韮山役所の担当は伊豆・駿河の天領で、合計5万石~10万石を管理していました。
また、出先機関としては三島陣屋(伊豆国田方郡)、谷村陣屋(甲斐国都留郡)、松岡陣屋(駿河国富士郡)が置かれていました。
江川家は、江川英吉さんが有名で、北条家の家臣です。韮山城主であります。家康と一緒に朝鮮にまで行って、戦をしたイクサ仲間のようです。
紀州と水戸の母、お万の養父
江川英吉は、北条氏の家臣にて氏康から氏直まで仕えた。1590年(天正18)の小田原合戦のときは韮山城を守り、攻め手の小笠原安次父子を討ち取る。北条氏滅亡後は家康に仕えた。秀吉の朝鮮出兵のさいに肥前名護屋(佐賀県)まで家康に従った。1625年(寛永2)7月17日没。80才。法名「玉流院前肥前大守善祐日運居士」。下の墓石には、代々江川家の法名が刻まれている。墓所は、静岡県伊豆の国市韮山金谷の本立寺
お万と家康の出会いは、江川太郎左衛門との説がある。
小田原合戦で父江川英吉は北條氏に、子英長は徳川に通じて親子で争ったと伝えられる。後に英長が沼津で家康を接 した際、河津にいたお万を接待役に使ったことから家康の目に留まったという。
その後、英長はお万の方(養珠院)の養父として知られ、家康に仕えたという。(下山)
お万は、家康の死去した後の元和5年(1619)8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向ったという。承応2年(1653)死去、法名は養珠院。
実父が房総の里見家家臣の上総勝浦城主正木頼忠で、母は、『寛政重修諸家譜』に北條氏隆(氏堯の誤りか)の娘とある。
正木時忠は、永禄7年(1564)の第二次国府台合戦に里見家が北條氏に敗れると、次子・頼忠を人質として小田原に預けた。その人質中に頼忠は氏堯息女と結婚し、1男1女を授かっている。
天正3年(1575)実兄時通が急死し、翌年には実父も死去した。頼忠は勝浦城に帰ったが、妻子は人質の意味もあるのだろう小田原城に残された。
その後、頼忠は里見義堯の娘を後室に迎え、お万の母も蔭山氏広と再婚し、お万は兄為春と共に義父の元、伊豆で育てられたという。
河津で成長したお万は16・7歳の頃、家康に見初められ側室になったという。
慶長7年(1602)3月に長福丸(紀州・徳川頼宣)、翌年8月には鶴千代(水戸・徳川頼房)を生んでいる。
実兄は紀州徳川家の家老となり、三浦為春を称している。
正木家は三浦義意が新井城で北條氏に敗れた際、船で逃がした義意の一子が安房正木郷で成長し、正木氏を称したという。三浦為春は歌人・文化人としても知られ、仮名草子「あだ物語」・紀行「大笑記」や句集などを残している