袈裟襷文銅鐸
銅鐸 兵庫県神戸市生駒出土(複製)
銅鐸 徳島県阿南町市畑田出土
銅鐸 福井県三方町向笠出土
銅鐸 滋賀県大津市石山寺出土(複製)
銅鐸 兵庫県川西市栄根(複製)
銅鐸 滋賀県野洲町大岩山出土(複製)
矢野遺跡は、徳島市国府町矢野にあり、吉野川の支流、鮎喰川左岸の標高10m前後の微高地に位置しています。
南北約2km、東西約1kmの範囲に拡がり、縄文時代から中世にかけての、非常に大きな遺跡です。特に徳島県内の弥生時代の中心的な役割を果たした集落であることが分かりました。
竪穴住居群跡
調査の結果、弥生時代の中ごろから終わりごろにかけての竪穴住居跡が100軒ちかく検出され、徳島県内で最大級の集落遺跡であることが確認できました。そして、5~10軒が一つの群をなし、住居と住居は数mの間隔で存在していたことも分かりました。
弥生時代の一集落の規模が確認されたのは、県内で初めてのことです。
竪穴住居と銅鐸埋納坑
竪穴住居跡に隣接して、銅鐸埋納坑が検出されました。集落内での銅鐸の出土は、全国的にも類例が少なく、銅鐸出土数の多い徳島県においても貴重な例です。そのうえ、銅鐸が集落の中心から出土したことにも重要な問題が含まれています。
矢野銅鐸は、高さが97.8cm、ひれを含めた最大幅が44.8cm、厚さが約2.9mm、重さが約17.5kg、底の口径が37.4cmです。この大きさの銅鐸は最新式のものといえます。
古いタイプの銅鐸は小さくて、音を鳴らし「聞く」銅鐸、それがだんだん大きくなり、置いて「見る」銅鐸に変わってきたと考えられています。
銅鐸がどのように使われたのか、なぜ埋められたのか、謎に包まれています。
野洲銅鐸
明治14年(1881)滋賀県野洲町大岩山に遊びに来ていた14歳と16歳の少年が大中小3個の銅鐸を発見した。翌日、その話を聞
いて駆けつけた大人達によりさらに11個が見つかり、計14個の銅鐸が発見される。この銅鐸の中には総長 134.7cmという、
我が国で最大長の「袈裟襷紋銅鐸」が含まれていた。
レプリカは下記
国宝 指定名称:袈裟襷文銅鐸
伝香川県出土
弥生時代・前2~前1世紀
東京国立博物館 J-37433
江戸時代に讃岐国(現在の香川県)で発見されたと伝える銅鐸。吊り下げるための鈕(ちゅう)と身からなり、身は上から下へしだいにひろがる扁平な円筒状である。浮き上がった線(突線)で鋸歯(きょし)文、連続渦巻文、綾杉文が表されているほか、身の表裏は斜格子文の帯でそれぞれ6区に分けられ、僧侶の袈裟襷の模様に似ていることから、この名がある。
きわめて似た銅鐸として、神戸市桜ヶ丘遺跡出土の4号、5号銅鐸、江戸時代の画家、谷文晁(たにぶんちょう)所蔵と伝える銅鐸(拓本と模写だけが残る)があり、いずれにも区切られた中に同様な絵画が描かれている。これらはともに同じ製作集団によって、桜ヶ丘5号、4号銅鐸、谷文晁所蔵銅鐸、本銅鐸の順で鋳造されたと考えられ、数ミリの厚さ、鋳あがりのよさなどに、優れた鋳造技術を見ることができる。
前の二つは、どちらも大型で似ているか?
川西市加茂遺跡の銅鐸
遺跡東斜面地では明治44年に銅鐸が出土しており(栄根銅鐸)、現在、複製品が川西市文化財資料館に展示されています。
日本最大の大岩山銅鐸(135cm) には及びませんが、高さ114cmの栄 根銅鐸は全国10位以内の大型銅鐸 で、形の美しさは随一です。明治44 年、加茂遺跡の東側崖下で出土しま した。
栄根銅鐸は2世紀頃、かの有名な卑弥呼が女王となった頃のものとの事で、以後銅鐸はなくなりましたと言うことです。