古墳の大きさ(長さ・広さ)の尺度、そして製鉄・精錬など [考古学の論争点]新井宏氏

古墳時代の長さ・広さの尺度
新井宏さんの「考古学の論争点」を読ませていただいた。
古代の謎に、理系の視点から科学的な分析を加えて、新しい発見が示されていて、とても興味深い。
ここでいう、測定や観測に基づく仮説検証のアプローチが、科学的である。
古墳の測定や魏鏡の銅の成分分析から、きわめて基本的な発見が紹介されている。以下の記載は新井さんの貴重な研究の紹介である。
謎のいろいろ:「考古学の論争点」
1.古墳や土地のはどのようなものさし(尺度)で測られ、造られたか?
2.卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡は魏鏡か国産か?
3.弥生時代に製鉄は本当に行われていなかったか?
などのついて、新井さんの新しい発見が紹介されている。
1.古墳や土地のものさし(尺度系)
昭和30年代から、古墳造成の尺度について百家争鳴の状況が続いてきた。
著者は、「まぼろしの古代尺」を発表された。
古代寺院や古墳の部位のいろいろな長さの計測値に、「簡単な整数比」が大部分の測定値に対して見つかれば、測定値/整数の集合の最小の基準単位が、「尺度の標準長、ものさし」である。

主な成果
・法隆寺、飛鳥寺、大津京、埼玉古墳群、西都原古墳群、そして大和の前方後円墳の標準ものさしは、ほぼ26.7cmであり、この単位で造成された。
・この単位となる単位長=26.7cmを著者は古韓尺と呼んだ。(1歩=3単位=80.1cmか?)
・中国吉林省の集安の高句麗将軍塚も、同様の単位の10尺の整数倍でほとんどの各壇の辺長が表される。
・三国史記による553年創建開始の新羅の皇龍寺も古韓尺で表される。
これまで、高麗尺の存在が定説としていわれてきたが、間違いらしい。また高麗尺の根拠とされてきた東魏尺も中国の研究でまったく別の尺度とのこと
また、慶州の南山新城(新羅を守る4城のひとつ)も古韓尺となった。これは隋かその前の北魏系の尺度らしい。
三国史記に記載された新羅王京の方格の尺度も同様とのこと。
さらに、出雲風土記に、数多くの里程の記載がある。これは、「東西39里190歩」など有効数字の長いものが多く、他の単位系から変換されて表示されているらしい。
出雲風土記の天平期は、唐大尺(29.8cm)であり、天平尺と呼ばれている。すなわち出雲風土記は天平尺で表されており、それに古韓尺の里長が変換されて表示されたために有効数字の長い記述となったらしい。
ちなみに、天平尺の「39里190歩」は古韓尺で45里となる。
出雲の意宇郡家。神戸の水門周など出雲の里長は古韓尺で表現される。
土地の面積単位の「頃」がある。頃は、方百歩でありすなわち1万歩。高句麗中期以前の「頃」が古韓尺で復元できるらしい。
すなわち、新羅の王城が古韓尺の方百歩を基準としていた。新羅王京40里360坊であるが、この1坊の広さが1頃であった!。
また、統一新羅以前には、方3歩を1束(稲の収量でもある)とする結負制が存在したとのこと。
300歩をもって里とし、1里四方の面積を井と呼ぶ。束=9歩(3歩四方)、負=10束、結=100負、、井=10
結 であったらしい。面積の歩は1歩四方であり、結負制の基本単位の束は方3歩四方とのこと。
束の面積は古韓尺の3歩四方で23平方mあたりとのこと。これは、古韓尺の歩を160cm(上記3単位の2倍長)として計算すれば、4.8m四方でありほぼ23平方mとなる。
大化の改新では代制と呼ばれる土地制度が行われたが、面積は1代が23平方mであった。そして、この代は束代との記述もあるが、まさに結負制の束の面積と一致する発見があったとのこと
日本の寺院の建物配置も、4.8mを基本単位としているらしいので、古墳時代から、26.7cmの3倍の80cmを単位とする造成がなされ、大化の改新後も束代として引き続いているようだ。
古墳の尺度は、古韓尺が基準であったとのこと。
仁徳稜の墳長は、古韓尺のちょうど1里=480mであった。
160mの3倍を1量田歩とよび、この単位で計る。すると、箸墓古墳は60量田歩288mであり、応神稜は90量田歩、ニサンザイ古墳60量田歩など 河内や大和の古墳の造成がこの単位で表されるという。
また、古墳の直径が100歩=160mを示すものに、箸墓、伝崇神稜、ニサンザイ、見瀬丸山古墳などがあるという。
これらは晋尺(24cm)では667尺となって不都合であり、晋尺説は成り立たないとのこと
高麗尺も晋尺も研究の進展によって、古墳の尺度としてはほとんど無意味となったようだ。26.7cmとその3倍数の80cmが重要らしい。
新井さんの科学的研究によって、「古代尺の単位」が発見された。これを単位に考えれば、弥生から奈良時代の間に、古墳造成、寺院建築、条里制、律令などが行われたがこれらについて、整合のとれた理解ができるようになった。
古代では、現代の1里=36 町、1町=60 間、1間(けん)=6 尺 とは違った単位が使われていた。
2.三角縁神獣鏡は魏鏡か国産か
鉛は精錬が容易であり、銅よりも古くから日本で自給されていた。
新井さんの研究によれば、
「これらの鉛が青銅鏡や青銅器を作成する際に添加された確実な2例が日本で発見された。そのひとつに平原弥生古墳の方規矩鏡があり、日本で複製されたようだ。」
また三角縁神獣鏡の鉛同位体比は中国の鏡とまったく異なる。そして古墳時代の銅器や朝鮮の銅器とよく一致するとの研究がなされた。
結論として、三角縁神獣鏡は、日本産か韓国産の鉛を添加しないと成立しないので、中国鏡ではないとの発見があった。魏鏡説は間違いであったとのことである。
また、新井さんの研究で 「岡山の鶴山丸山古墳の青銅鏡23点はすべて同じ時期に同じ場所で製作された国産鏡であること。さらに、宮崎県持田古墳の三角縁四神四獣鏡、大阪府紫禁山の三神三獣鏡の鉛同位体もまったく同一値であり、これらも同一原料で製作されたとのこと。」
地域間交流の観点からも興味深い事実である。
3.弥生時代に製鉄
日本で青銅器が現れるのは、弥生前期末から中期はじめである。
鉛同位体分析によって、春秋期以降に例のない周期をもつ鉛が500年以上を経て、日本や朝鮮半島に突如大量に現れているとのこと
おそらく、中国に伝世された宝器が再度溶解されて使われたのではないかとのこと
史記は、燕の昭王の時代に、斉を攻撃し宝物を戦利品として得ている。これは紀元前284年のことである。この前々年に斉は河南の宋を滅ぼしているので、多くの戦利品に銅器があったに違いない。
大量の伝世の銅器を得た時代が、この頃であれば、これを使った細型銅剣の製作はこれ以降であろうとのこと。
日本における製鉄開始時期についての定説は「5世紀の後半」らしい。
それ以前の製鉄遺跡が出てこないこと、それ以前に鉄滓が有力な金属学分野の研究者によって、精錬ではなく鍛冶滓だと認定されているためであるらしい。
ところが弥生早期の曲がり田遺跡から鉄が見つかっており、そうすると6から8百年にわたって鉄の精錬法が見つけられなかったことになるとのことである。
鍛冶滓か精錬滓の判定は正しいのでしょうか??
これについても、著者は判定法を検討し、微量のコバルトの分析を活用して精度を高めた。
重要な結論は、「古墳中期以前の鉄滓にのなかにも、製鉄滓と判定してもおかしくない物が数多く含まれている」との発見である。
著者は燐の成分が極めて少ないことなどから考察を進め鉄遺物中の低中炭素材は、「最初から直接製鉄的な鉄が存在していた」可能性が高いとのことである。
古代では鉄も銑鉄も一工程で作っていたとみるのが自然らしい。
古代では直接法と間接法の二つの製鉄法が併立していた。華北が間接製鉄法に移行していた頃、日本は弥生時代中期中葉だった。
我が国古墳などからの出土品に、鉄の地鉄、即ち長方形の鉄塊(インゴット)、鉄の棒、鉄鋌(てってい)=鉄板)等の鉄素材が多い。
製錬と鍛冶が早くに分離して、そのうち製鉄が可能になるようだ。
5世紀以前に遡れないとすれば、古い3から4世紀の古墳の鉄剣は交易で得たか、鉄を輸入して加工したことになるのでしょう。
謎:スサノオはヤマタノオロチが毒酒に苦しんでいるときに剣(布都御魂剣)で刺し殺したらしいが、これは鉄剣でしょうか、銅剣でしょうか?

10 thoughts on “古墳の大きさ(長さ・広さ)の尺度、そして製鉄・精錬など [考古学の論争点]新井宏氏

  1. 大和島根

    いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、 `それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興 `されたとの説になっています。 ` そうすると、がぜんあの有名な山陰の青銅器時代がおわり日本海沿岸で四隅突出墳丘墓 `が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と `安来-妻木晩田の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと `考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。 ` 西谷は出雲大社に近く、安来は古事記に記されたイザナミの神陵があるので神話との関係にも興味がわいてきます

  2. 鉄器

    鉄器の普及と後期古墳の関係については、関心があります。`吉備の国、丹波の国に鉄器が大量に発生するのは、いつ頃でしょうか``5・6 世紀に入って日本では初期大和政権の日本統一期 鉄の需要が爆発的に伸びる実用期になって、近江そして北九州・畿内などで大量安定生産ができるたたら精錬による鉄精錬・鉄の国内自給が始まったと考えられる。現在 6 世紀半ば吉備千引カナクロ谷の製鉄炉が出土最古というが・・・・・ ``5世紀の倭の五王の時代が、本格的な普及時期でしょうか?`3世紀後半には、鍛冶が輸入鉄で鉄器を生産していた(出雲・播磨・丹後・三輪・美濃・諏訪ほか)。`和歌山の大谷古墳自体は5世紀の終わりの築造とされている。 大谷古墳が有名になったのは何と言ってもその豪華な副葬品の数々だろう。我が国でもここからしか出土していない馬冑が有名。また 埼玉稲荷山で発見された馬具。`日本の馬具の年代 `古く見る学者は、4世紀後半。大多数の学者は5世紀前半と見ている`また、東国には4世紀後半に馬がいたらしい。魏志倭人伝に馬がいないことから、急速に東国に馬の飼育が伝わったのでしょうか

  3. 鉄器

    京都府岩滝町大風呂南古墳群から鉄剣が14本発見され話題を呼びました。竹野郡弥栄(やさか)町奈具岡遺跡からは数千点の鉄の破片が見つかり、この遺跡から2000年前の弥生中期には日本にも鉄製品を作る工房があったことがわかります。日の内古墳(岩滝町岩滝)で方製獣形鏡一面、硬玉製勾玉三個、碧玉製管玉十六個、算盤玉一個、鉄器類が出土しました。これらの出土遺物により、四世紀末頃(今から1600年ほど前)に築造されたもののと考えられている。 `平成10年9月、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査し出土品が多数見つかりました。`大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群。その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。 ``丹後は、弥加宜神社が鉄の神`開創は丹波道主命。祭神は、その母の息長水依比賈の先祖である天御影命。同神は”古代製鉄〟の神で、御上神社(滋賀県野洲町)の神と同じです。丹波道主命の母系の息長氏は、金属加工の技術を持った集団。天御影(あまのみかげ)神といい、天目一箇(あまのまひとつ)神と同体``勘注系図の三世孫「倭宿祢命」の書入りには次の通り式内社弥加宜神社の祭神にかかわる部分が見られる。`亦名天御蔭命亦名天御蔭志楽別命母伊加里姫命也`弥加宜社祭神天御影命 丹後道主王之祭給所也``「海部氏系図」では十三世孫(14代目)としての日子座王=シリツヒコミコトと十四世孫(15代目)丹波道主命=カワカミノマワカノ命``「日本書紀」垂仁天皇5年の条に、崇神天皇が派遣した四道将軍「丹波 道主命」ですが、この時代には鉄器が使われていた。5人の娘が垂仁天皇の后になる

  4. 鉄器

    最古の銘文鉄剣が出土した稲荷台1号墳跡 (千葉) `「王賜銘鉄剣」は5世紀後半に製作された稲荷山古墳出土の鉄剣や江田船山古墳出土の大刀よりも少し前の年代、5世紀半ばの製作と推測 ``大刀の切っ先でペガサス(天馬)が天空を駆け、海鳥が舞い、刀身から銀象嵌の金石文が発見された。被葬者は5世紀末から6世紀初頭に活躍した人物。`江田船山古墳の太刀銘は典曹人、百錬の利刀であるのに対し、稲荷山古墳の剣銘は杖刀人(天皇の親衛隊)。

  5. ホケノ山古墳

    箸墓古墳の東約200mに位置。全長約80m。`現在までに、画文帯同向式神獣鏡1面、内行花文鏡片・半肉彫表現の鏡片若干、素環頭大刀1口を含む鉄製刀剣類10口前後、銅鏃60本以上、鉄鏃60本以上、農工具などの鉄製品多数、二重口縁壺20体以上が出土している。` このうち、確実に棺内遺物と考えられるのは、棺中央南寄りに置かれていた画文帯同向式神獣鏡1面、鉄剣もしくは槍5口である`築造年代は、箸基古墳よりさらに古く、3世紀中葉と判断される。`中国鏡や素環頭大刀は大陸との交渉をうかがわせる。``3世紀中ごろにすでに、大陸との交易によって鉄製刀剣を入手していた。``ということは、ヤマトタケル命が、素環頭の鉄剣を持っていてもおかしくない事になる。箸墓は、ヤマトトモモソ姫であり、吉備津彦がタケルとともに東国に入った

  6. 淡墨桜

    淡墨桜の数百年前の記紀の世界に、三野前国の本巣国造に「神大根王(神骨)」有りと記述。根尾谷と外山の境の高坂峯に神大根王の子孫が祀ったという高坂神社(帳内社)がある。 ``日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖。`行永南奥のこの地がミカゲ神社の故地` 昭和八年に書かれた倉梯村史には、「人皇十代崇神天皇の十年、丹波道主命(みこと)によって与保呂川支流椿川の上に、弥加宜大神の奉祀あり「行永は道主命の御母息長水依(みずより)姫の御名息長(いきなが)より出づとの説あり」と記されています。 ``野洲国の国造(くにのみやつこ)だった近江安直(おうみのやすのあたい)`『古事記』などの伝承では、日子坐王が三上山に降臨した天之御影神(天照大神の孫)の娘・息長水依比売を娶って生んだのが、水穂真若王であり、その子孫が安直一族とされている。 ``大岩山古墳群:滋賀県野洲町小篠原`大岩山の中腹から、明治14年(1881)に14個の銅鐸が発見された。昭和37年(1962)には、東海道新幹線建設のための土取り工事現場から新たに10個の銅鐸が出土した。3個ずつ3組入れ子になっていたものが一括して出土し、さらに後日、少し離れた場所からもう一個出土した。こうして大岩山中腹は、細かく見れば3地点に合計24個の銅鐸が埋納されていたことが明らかになり、全国有数の銅鐸出土地となった。 ``伊勢忌部は天目一箇神の裔とされる。近江の御上神社の祭神を「天之御影命」と言うが、天目一箇神の別命とされる。この娘が息長水依比売、その子孫が息長帯比売命である。

  7. 淡墨桜

    黒田長山古墳群:余呉町坂口・琵琶湖の北`古墳は直径が17m、高さが3mの規模があり、葺石(ふきいし)を巡らしていました。主体部は組合せ式の木棺が2基並んで見つかりました。この内、南の棺には短甲1両、鉄剣3本、鉄鏃50本等が、北の棺には短甲(たんこう)1両(りょう)、鉄刀(てっとう)類5本、鉄鏃(てつぞく)50本等が副葬されていました。その他に、小円墳からも鉄刀類が出土しており、この古墳群には武器、武具類が副葬される傾向が見られます。おそらく、北陸と畿内の北端でもある、北近江とを結ぶ主要路を軍事的に掌握(しょうあく)する役割を担った人達の墓域か

  8. 鉄製かぶと

    大阪府柏原市の前方後円墳「玉手山3号墳」(4世紀初め、全長約100メートル)の竪穴式石室跡から中国製かぶとの部品「小札(こざね)」が50点以上出土` 中国製かぶとは国内で約15例しか見つかっていない` かぶとは、小札と呼ばれる数百枚の鉄製の板を革ひもでつなぎ合わせ、ヘルメットのような形にしたらしい。このほか青銅製の矢尻や鉄製の武器の破片も見つかった。 `` 初期の有力古墳が木製の棺を用いたのに対し、同古墳は竪穴式石室に畿内で最古のくりぬき式石棺を埋葬していたとみられる。付近の寺には同古墳から出土したという香川産の石材で造られた石棺のふたが残っている

  9. 鉄製かぶと

    松岳山古墳`古墳は長さ約130m、後円部の直径72m、高さ16m`発掘調査により、石室からは勾玉、管玉、ガラス小玉などの装身具や 銅製の鑵などの副葬品が多くみつかりました。中でも総重量50kgにも およぶ鉄製の武器や農工具類が注目されます。また、 古墳の周囲には円筒埴輪や巨大な楕円形の埴輪が立てられていた`4世紀頃の前方後円墳で「船氏王後首(ふなしおうごのおびと)」の墓誌がここで発見されたと伝えられている`船氏王後首の墓誌`船氏の故王後首は船氏の中祖、王智仁首の子、那沛故首の子である。他田宮に治天下天皇(敏達天皇)の世に生れ(572~585)、豊浦宮に治天下天皇(推古天皇)の朝に仕え奉り、飛鳥宮に治天下天皇(舒明天皇)の朝に至る。……大仁の官位を賜い、第三品と為す。舒明天皇の末年(641)に逝去した。戊辰年(668)十二月、その夫人の安理故能刀自と同墓にして松岡山の上に改葬し、大兄の刀羅古首の墓に並べて作った

  10. 尋と歩

    日本古来の尺度としてはヒロ(尋)があるが、大化二年(646)の薄墓令のなかでは、古墳石室の大きさは尺で規制しながら、塚の大きさは尋で規制しており、新井宏氏は大きな長さの単位としては歩よりも尋のほうが一般的だったのではないかとし、さらに白崎昭一郎『尋と歩―古代尺度雑考―』での、日本書紀でヒロは総て尋という漢字が使われており、日本のヒロと中国の尋とは概念的に非常に近いものとして奈良時代の知識人たちには認識されており、中国の尋は1.60m程度であったという説を引用し、古韓尺の6尺1歩が1.60mであり、古韓尺の6尺1歩の制度の流入があって、1歩がヒロ・尋となって残っていたのではないだろうかとする。|192.168.1.4|||0|

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