古代史の旅2:神功皇后と日本武尊の子供、稚武王、十城別王、建貝児王

景行天皇の時代に、その子の日本武尊の東征によって、東国の支配が進んだ。景行天皇は、皇太子の時代に播磨へ出向かれ、播磨太郎姫と出会い、子の日本武尊、政務天皇をもうけられることで、播磨や吉備と連携して、王権の拡大に努めた。この時代こそが、東西に古墳が広がり、鉄の利用が広がった開拓の時代であった。
播磨風土記においては、景行が天皇となってから、「加古川流域の高宮というところを新居に選び、酒蔵や倉庫を築いて暮らしますが、しばらくして城宮(きのみや)というところに移り無事正式な婚儀を結ぶ。」ともある。景行天皇は、皇太子時代から西方に関心をもっておられた。播磨、吉備に安定的な関係を築かねば、熊襲征伐はおぼつかない。播磨太郎姫との結婚がこれを可能にし、東国遠征に、日本武尊と吉備武彦を行かせた。日本武尊は吉備穴戸武姫(書紀では吉備武彦の子、古事記では妹)と結婚し、十城別王(兄)建貝児王(弟)を生む。そして、この子供たちは、日本武尊の夢を引き継いで、仲哀天皇の九州遠征や神功皇后の新羅遠征に参加したようです。
神功皇后と仲哀天皇
気長宿禰王には日本武尊の亡くなった前年に生まれた気長足姫(おきながたらしひめ)という才色兼備の娘があった。この娘を気長宿禰王は、尊崇してやまない日本武尊の第二子の足仲彦(たらしなかつひこ。仲哀天皇)に妻合わせたいと考えていた。 しかし、気長足姫にも足仲彦にも、その気は共に薄く、むしろ気長足姫は成務天皇に好意を抱いているようであった。父親の気長宿禰王は、 日本武尊の果たせなかった天皇になる夢を、その第二子の足仲彦に託し、支援していた。
日本武尊と吉備武彦の一族
景行天皇—-日本武尊
        +—-十城別王(兄)建貝児王(弟)
吉備武彦—-吉備穴戸武姫(古事記では妹)
建貝児王は讃岐の綾の君・伊勢の別・登袁別(とおのわけ)・麻佐首(あささのおびと)・宮道別(みやじのわけ)らの祖先です。伝承地は、三河の宮道天神社、壱岐、平戸の志々岐神社など広域にわたる。
吉備武彦(孝霊天皇の孫)は、景行天皇即位の四十年、従兄弟である日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征に従って副官となり、蝦夷平定の後、尊を奉じて北越に行き、その後、日本武尊の死後、遺命を奉じて京師にこれを復命したといいます。
吉備武彦の子供たちは、その功によって、吉備や東国の国造となっている。政務天皇の時代に東国に多数の国造が置かれた。
吉備武彦—-吉備穴戸武姫(日本武尊の妃)
吉備武彦—-意加部彦命(廬原国造)
吉備武彦—-建功狭日命(角鹿国造)
吉備武彦—-御友別命—-稲速別(下道国造)、仲彦(賀陽氏国造)、弟彦(三野国造)–仲彦の子の多佐臣(上道国造)
吉備武彦—-鴨別命—-笠三枚臣(笠臣国造)
日本武尊と弟橘媛の子の稚武彦王
景行天皇——日本武尊
          +—-稚武彦王
穂積忍山宿禰—-弟橘媛
また、弟橘媛の父の穂積忍山宿禰は、相模国の西側の磯長の国の領主となる。一方、穂積忍山宿禰の子の穂積忍山彦根(弟橘媛の兄)は、神櫛王とともの讃岐を治め、金比羅山の大麻神社の祭主となって代々続いている。
神功皇后の新羅遠征と日本武尊の子供(讃岐と伊予の王)
日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦を同行させることが、その女(むすめ)吉備穴戸武媛と尊の間の子が讃岐(建貝児王)、伊予(十城別王)へと展開することになるが、不思議なことに、この二人は、神功皇后の新羅遠征に参加している。書紀では、神功皇后と竹内宿禰ばかりの記載が目立つが、神社伝承をたどるとそこには、さまざまな悲劇があったようだ。日本武尊の子供たちの事績は、歴史の闇に消えようとしているので、ここに記しておきたい。また、神功皇后の新羅遠征を夢物語のように説くものも多いが、それにリアリティがあることを記すためにも伝承をまとめておきたい。
壱岐、平戸の伝承
志々岐神社:壱岐市石田町南触には、十城別王・武加比古王・日本武尊が祀られている。神功皇后が三韓に出兵したときに十城別王、稚武王も従軍したと伝える。また武加比古王は、讃岐の建貝児王のことであると伝わる。
霊峰志々伎山(平戸市野子町;平戸の南端、標高347m)と 十城別王に因む志々伎山神社
長崎県内でも最古の神社の1つで上宮(志々伎山山頂)・中宮・邊都宮(里宮・伝景行天皇行宮跡)・沖津宮(十城別王武器庫跡・十城別王御陵墓)で構成されてる。「凱旋後に十城別王は平戸に残り、配下の武将の七郎氏広と共に朝鮮半島への警備に当たりこの地で没した。そして十城別王は平戸島南端の宮ノ浦・志々伎神社に、七郎氏広は平戸島北側にある田ノ浦・七郎宮(田ノ浦は弘法大師が遣唐使で出発した所として有名、平戸松浦氏が尊祟の神社はこの七郎宮・現在平戸城内亀岡神社と合祀)にそれぞれまつられた」という。
『平戸藩史考』によると、志自岐七郎左衛門は志自岐左衛門氏廣といい、十城別王(平戸志々伎神社の祭神)とともに三韓征伐に従軍した武将で、帰国後は平戸に駐留して平戸海峡を守る役を任じられ、中央との連絡をとりながら西海の防禦役も果たしたとのことである。
志々伎神社の邊都宮跡からは環頭の太刀・神鏡・朝鮮古代焼の瓶・三刀鉾などの朝鮮とのル-トを伺わせるものが多数発見されている。瓶のうちの一つは朝鮮の古都楽浪で大正14年に発見されたものと同一形式でまた別の一つも出雲大社に残る宝物と同一形式のものとの事。
唐津市の松浦明神
田島神社:佐賀県唐津市呼子町加部島には、松浦明神がある。
御祭神は田心姫尊、湍津姫尊、市杵島姫尊である。相には大山祇神とともに。稚武王が祀られている。
旧国幣中社であり、延喜式内社であり、肥前の国最古の神社である事は延喜式に見える。稚武王(仲哀天皇の弟)の弟十城別王を祀る志志岐神社(長崎県平戸市)を下松浦明神と称するのに対し、当神社を上松浦明神という。このことは、王族の稚武王と十城別王の軍が新羅遠征の主力であったことが伺える。
環頭の太刀:平戸市平戸城に保管・展示
亀岡神社の社伝によると、亀岡神社合祀前の七郎宮の社宝として伝わっていたもので、神功皇后の朝鮮出兵に従軍した武将七郎氏広の佩刀と伝えられ、同類が辺境の警備にあたった十城別王が祭られている志々伎神社と、七郎氏広の弟鴨一隼が祭られている小値賀島神島神社に伝わっていたといわれる。
神島宮(長崎県北松浦郡小値賀):一速王(日本武尊)を祀り十城別王氏広王を合祀する
創建:大宝四(704)年、神託によって上宮を野崎島に設け辺津宮・沖津宮と併せて一社となし神島宮と称したと伝えられる.
壱岐直真根子と謎の雷大臣
神功皇后が、三韓征伐をするときに、壱岐からは、雷大臣(いかつちのおうおみ)と壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)の親子が一緒に行きました。雷大臣(いかつちのおうおみ)は、出兵から帰国後、再び百済に行ってこの国を治めました。その後、対馬に行ってそこにとどまり、その子孫は壱岐や対馬で、占部(うらべ)になりました。霹靂(いかづち)神社(長崎県対馬市上対馬町大字浜久須)には、神社明細帳に「神功皇后の時、雷大臣・安曇磯武良を新羅に遣わし、雷大臣彼地で女を娶り一男を産む。名を日本大臣と云う。新羅より帰り給う時、浜久須へ上り給う古跡なり。」 という。雷大臣命とは、神功皇后の審神者(サニワ)を勤めた中臣烏賊使主のことであり、 『新撰姓氏録』に天児屋根命十四世孫とある。 当地が、雷大臣命の住居跡であり、亀卜発祥の地。 社殿や社殿内の幕に橘の紋が付けられているよいう。定かではないが、神功皇后に新羅遠征を占った中臣烏賊使主は、重要な役割を果たしており、後の藤原氏の発生につながるのかもしれない。
志式神社(福岡県東区大字奈多字宮山):志志岐の三神を祀る
志志岐の三神とは十域別の神(弟)稚武王(兄)と葉山姫神である。
筑前風土記拾遺によると、「志志岐神社の二人とも、仲哀天皇の弟であり、応神天皇の叔父にあたる。神功皇后の三韓征伐の時に、武将としてお供した。」という。葉山大明神は日本紀に言う、摂津の国武庫郡西宮郷、広田大明神である。山背国造は、神功皇后の命で広田神社を祭った葉山媛と長田神社を祭った長媛の父である。長田神社は、新羅より御帰還の途中、武庫の水門に於て「吾を御心長田の国に祠れ」とのお告げを受けて、山背根子の女・長媛を奉仕者として創祀されたという。これは、明神大社の広田神社、長田神社の始まりである。対馬には烏賊津(雷大臣)の住居跡とされる雷命神社があり、彼の息子が壱岐真根子(いきのまねこ)である 。高良大社の旧記に「真根子は朝のためには忠にして、友に交わり信あ
り、賢きを招き智あり、命を捨てて勇あり」と大いに賞賛されている。
吉備武彦一族の隆盛
吉備武彦の子の鴨別(かもわけ)は、仲哀天皇の熊襲征討に功績があった。
鴨別命は御友別の弟である。皇后は身重であったが、亡き仲哀天皇の遺志を継ぎ、熊襲征伐の軍を進めた。熊襲の本拠地である南部九州には武将・鴨別を遣わし、自らは北部九州の反乱勢力である羽白熊鷲(ハバクノウタカ)の掃討に赴いた。鴨別はほどなく熊襲征伐を終えている。
吉備御友別の子の兄媛は、その後、応神天皇の妃となり、黒媛は仁徳天皇の妃となった。応神天皇妃,兄媛の兄。応神天皇が兄媛を伴って難波に行幸し,高台に登ったとき,兄媛は西を眺めて父母をしのんで嘆き,帰郷を願う。吉備の父母を恋しがったので、応神が淡路の三原の海人八十人を水手として、吉備に里帰りさせた。因みに淡路は阿曇氏の本拠の一つである。兄の功績に肖って織部を賜っている。応神天皇の時代に、その功績で吉備武彦の子孫は国造として繁栄している。
上道国造15応神:中彦命:吉備武彦の兒 御友別の中子
三野国造15応神:中彦命の弟・・岡山県岡山市、加賀郡の一部(備前国御野郡御野郷)
下道国造15応神:元封・中彦命
笠臣国造15応神:元封・鴨別命の八世孫 笠三枚臣・岡山県笠岡市?
賀陽氏はこの賀陽采女(若媛)の祖父、賀陽高室に始まる備中吉備津神社の社家である。その五代前の御友別の子、仲彦が既に賀陽国造になっている。「賀陽」は岡山県上房郡賀陽町にその名を残すが、古くは「加陽」「加夜」などとも表記するが、加羅(伽耶)つまり任那のことになる。吉備にカヤとつく郡があり地名も多い。
海部、山部、山守部、伊勢部の始まりは応神の時代
古事記応神記(第十五代)には「此之御世定賜海部・山部・山守部・伊勢部也」とあり海部と伊勢部の始まりか。
高良山の麓にある高樹神社の祭神は、高木神=高牟礼神という。昔、高良大社のある高良山は高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれており、高木神がその地主神であられたという 。玉垂命は「神功皇后と結婚された」と、高良大社の伝承にはある。籐大臣連保と名付けて京(みやこ)へ連れて行ったとのことである。
宮地嶽神社の勝村大神と勝頼大神の謎
「新羅征伐の御船出を此の地よりなされた処から「宮地」と呼ばれ。背後の山を「宮地嶽」と称しこれが社名となった。そして神功皇后が信仰されていた天津神の遥拝祠を建て二柱の御従神、勝頼・勝村の二柱の御従神に此の祠掌を命ぜられ、後皇后の御神魂を合祭され、此処に初めて宮地嶽神社が設立された。」という。二柱の御従神は、一説には、勝村大神(藤之高麿)と勝頼大神(藤之助麿)となっている。何故、藤原氏なのであろうか?。雷大臣の子供かもしれない。
あるいは・・。忌宮神社(長府宮の内町)の伝承は、宮内を守護する阿部高麿、助麿の名を伝えているので、これが勝村大神(藤之高麿)と勝頼大神(藤之助麿)かもしれない。
仲哀天皇は、穴門(長門)豊浦(長府)に、仮の皇居を興されたが仲哀七年旧暦の七月に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。
また、二柱の御従神というからには、勝村大神と勝頼大神は、王族の十城別王、稚武王のご兄弟かもしれない。残念ながら、確認できる伝承がない。
伊予西条市の伝承
伊予は、御村別王と十城別王の地である。
伊曽乃神社( 愛媛県西条市中野甲):天照大神、武国凝別命を祭神とし、成務天皇時代の創建という古い歴史をもつ。西条の地は成務天皇の時代に武国凝別命が皇威を弘めたと伝えられる「御村(みむら)」の地なのである。「先代旧事本紀』には景行天皇の皇子のひとりに武國皇別命がいて、「伊予御城別・添御杖君の祖」としている。飯積神社(西条市下島山)の標柱に「武国凝別命の孫、十城別命」との説明がある。武国凝別皇子。景行天皇の第12皇子。母は阿倍氏木事の女・高田媛。伊予国平定のために派遣され、神野郡(後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市他)に拠点を置いたと伝える。昔、第14代仲哀天皇がそこに舟を着け、櫟を折って笏にしたという伝承から、櫟津(いちいづ)と名付けられたとのことである。
『伊豫温故録では仲哀天皇行宮跡 が玉津村字帝(ミカド)に在ったという。此地往古は一の岡陵にして櫟津岡と稱し仲哀天皇南國御巡幸のとき行宮を作り御駐輦あらせられたり因て帝と稱す帝は御門なり行宮の立ちしより人民群集して住居し上永易といふ寛永四丁亥年10月4日大地震に岡陵陥没して水湛へ沼となりけり故に里民四方に散居す其の後沼を埋めて水田となせり……中略…… 又此里人の云ふ下島山村に一小丘ありて飯積神社を祭る今彼村にて櫟津岡と稱せり飯積の名たる其の丘形を以て名付けたるものなり其の古名も飯積岡なるを後人櫟津岡に附會して名付けたるものなんと云えり。
また、阿沼美神社(松山市平田町)社伝によると12代景行天皇の皇子武国凝別(御村別の祖)日本武尊の御子十城別王(別王の祖)の宮居された所であったという。別氏の末裔が阿沼美の神を奉斎したが、別氏没落後、河野氏が三島の神を合祀し、「阿沼美三島明神」と称したという。
播磨に来た新羅の王子の未斯欣(微叱己知)
『神功紀』九年冬十月三日の条に「新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は、微叱己知珍干岐(みしこちとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・かとり絹を沢山船にのせて軍船に従わせた。」とある。一方、『三国史記』には、実聖王元年(402)3月に倭国と通好して、奈勿王の子・未斯欣を人質としたが、納祗王(ヌルジワン)二年(西暦418年)の秋に王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ったと記している。
新羅本紀第三 実聖王 尼師今の七年(西暦408年)条には、実聖王は倭人(日本人)が対馬に基地を設置して、武器と資材・食糧を貯えて、新羅を襲おうと準備しているという情報を手に入れた。王は、倭(日本)が動き出す前に精鋭の兵を選び、敵の兵站基地を撃破しようと思ったが、部下の未斯品が諌めて言った。「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません。」これに従って王は思いとどまった。
高句麗好太王碑文の記録
「百済や新羅は元々高句麗の臣属していて、朝貢していた。ところが三九一年辛卯年、倭は海を渡り百済□□新羅を打ち破って臣下とした。 」辛卯年つまり391年の神功皇后新羅侵攻の年であろう。新羅侵攻は、神功皇后紀に何回かある。
要すれば
1.神功皇后の新羅遠征には、多くの王族が参加している。特に、伊予と讃岐の日本武尊の子、すなわち仲哀天皇の兄弟たちが参戦した。その代表は、十城別王、稚武王、建貝児王、鴨別命である。
2.神社伝承から見て、新羅遠征はリアリティがあり、史実であろう。
3.新羅の王子の未斯欣が人質となった記録から、これらは4世紀末の時代であり、壱岐や対馬の神社伝承から、これらの島々の人々、安曇の連らとともに、遠征を実行した。また、高句麗好太王碑文からも伺える。

9 thoughts on “古代史の旅2:神功皇后と日本武尊の子供、稚武王、十城別王、建貝児王

  1. 讃岐の古墳

    讃岐では100基余りの前方後円墳が造られます。これらは,主に4世紀~5世紀の間に造られたものです。さらに,4世紀半ばから5世紀にかけての有力な古墳には,刳抜式石棺と呼ばれる石で造った棺が使われています。

  2. 塵輪鬼

    牛窓町(現・瀬戸内市)に伝わる話では、神功皇后が三韓征伐の途中、同地にて塵輪鬼(じんりんき)という頭が八つの大牛姿の怪物に襲われて弓で射殺し、塵輪鬼は頭、胴、尾に分かれてそれぞれ牛窓の黄島、前島、青島となった。皇后の新羅からの帰途、成仏できなかった塵輪鬼が牛鬼に化けて再度襲い掛かり、住吉明神が角をつかんで投げ飛ばし、牛鬼が滅んだ後、体の部分がバラバラになって黒島、中ノ小島、端ノ小島に変化したという。牛窓の地名は、この伝説の地を牛転(うしまろび)と呼んだものが訛ったことが由来とされる

  3. 塵輪鬼

    山口県下関市 忌宮神社に伝わる「鬼石]伝承
    この伝承が牛窓伝承のルーツ??
    「朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し」と新羅国と明記しています。
    牛転伝説・713年の記録は牛を殺さずに転がしただけです。捩じ伏せただけです。
    しかし、1389年になると創作が追加され、牛は転がされ死んでしまい、かつ島となってしまいます。

  4. 五十瓊敷入彦

    五十瓊敷入彦は景行天皇の兄に当たる。
    丹波道主の娘である日葉酢姫は11代垂仁天皇(三輪王朝)に嫁ぎ五十瓊敷入彦と景行天皇を産む。
    その父である丹波道主は彦坐王(日子坐王・ひこいますおうきみ、アメノヒボコや息長氏)系譜で、垂仁の前の妃も同じく丹波道主の娘である狭穂媛であるから、垂仁の後ろ盾はまず丹波氏族であり、それは限りなくアメノヒボコや息長氏といった渡来系氏族である。

  5. 五十瓊敷入彦

    近江の播磨別
    稲背入彦命(イナセイリヒコ)という「皇子」が景行の「息子」だという記述は「古事記」にありません。彼だと思われる「稲瀬毘古王」の名前が出てくるのは垂仁帝の后妃皇子女段のみで、皇后・氷羽州比売命(ヒバスヒメ、丹波道主王の娘、日葉酢媛のこと。景行の母親)の妹で、阿邪美能伊理毘売命との間に産まれた阿邪美都比売命が稲瀬毘古王に「嫁いたまいき」とあります。また、日本書紀は薊瓊入媛が「池速別命と稚浅津姫命」の二人を産んだと記すだけで嫁ぎ先などについては沈黙を守っています。更に、景行紀四年条には、
      次の妃、五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は、これ讃岐国造の始め祖なり。弟稲背入彦皇子は、これ播磨別の始祖なり。
    とあって記紀で系譜・伝承の混乱?が著しいのですが、ともかく皇子と「播磨」の縁は確かなようです。
    近江の播磨別:兵主大社縁起
    皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、
      部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、
      稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。

  6. 播磨、近江、讃岐

    景行が皇后に選んだのは播磨稲日大郎姫(吉備氏の娘でヤマトタケルの母親、和邇氏の彦汝命が父親)という女性でしたし、彼が都を築いた場所も桜井市穴師という土地でした。その大王を滋賀の「穴太」の地に誘ったのは稲背入彦その人ではなかったのか?(「播磨国風土記」飾磨郡には穴師の里・右、穴師というは、倭の穴无の神の神戸に託きて仕え奉る、故、穴師と号す、とあります)
    播磨国の総社が姫路市にある射楯兵主神社(祭神は射楯大神と兵主大神)だと分かります
    五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)は「弓矢」を欲したため帝位にはつかず、河内国で土木事業に精を出し茅渟の菟砥川上宮を住居として「剣一千口」を作り忍坂邑に納めた後に石上神宮に蔵め『神宝を主った』と伝えられています

  7. 播磨、近江、讃岐

    「新撰姓氏録」山城国皇別には「茨田勝(すぐり)、景行皇子、息長彦人大兄瑞城の後なり」
    旧事本紀の「天皇本紀」
      (前略)またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。
      またの妃、襲武媛は、国乳別皇子、次に国凝別皇子、次に国背別皇子、またの名は宮道別皇子、次に豊戸別皇子を生んだ。
      またの妃、美人を御刀媛という。豊国別皇子を生んだ。(中略)
      稲背入彦命[播磨別の祖]。豊国別命[喜備(吉備)別の祖]。武国皇別命[伊与(伊予)御城別、添御杖君の祖]。大稲背別命[御杖君の祖]。
      豊門別命[三嶋水間君、奄智首、壮子首、粟首、筑紫火別君の祖]。息前彦人大兄水城命[奄智白幣造の祖]。櫛角別命[茨田連)の祖]。

  8. 庵治 小千 安致

    珍しい「奄智(あんち)」という名前も筑紫に関連があるとも考えられます。それは、日本書紀雄略二十三年是年条に、  
    百済の調賦、常の例よりまされり。筑紫の安致(あち、あんち)臣・馬飼臣ら、船師を率いて高麗をうつ。
    天孫本紀が『ニギハヤヒ九世孫、物部竺志連公、奄智蘰連らの祖』と伝え、この物部十市根命の孫に位置付けられている竺志連の異母妹・五十琴姫が景行帝の妃となって輿入れしている

  9. 庵治 小千 安致

    恩智神社
    御祭神
    大御食津彦命 大御食津姫命 天児屋根命
    由緒
    当神社の創建は白鳳年間と伝えられ凡そ1300年の歴史を有する古社で延喜式内名神大社(全国285社の内当神社2座)である。
    古くから朝廷の崇敬厚く持統天皇の元年10月に御幸されて以来、称徳天皇天平神護景雲2年には河内、丹後、播磨、美作、若狭の地37戸を神封に充てられ文徳天皇嘉祥3年10月に正三位、清和天皇貞観元年正月に従二位、更に正一位に叙せられ恩地大明神の称号を賜う名神大社として延喜式神名帳に登載される。
    以後後醍醐天皇・村上天皇の御宇の大旱魃に勅使参向して祈雨をされその霊験がありそれぞれ蘇生したと伝わる。
    また一条天皇正暦5年4月に中臣氏を宣命使として奉幣を奉り疫病等災難除けを祈った。これが当社の御飯祭(夏祭)の始まりとされている。