九夷、九韓
「三国遺事」によると 「論語正義」に云う九夷は、 玄菟 楽浪 高麗 満飾 鳬臾ふよ 素家 東屠
継体天皇と百済
継体2年 508年 ・武烈天皇を片岡磐杯丘陵に葬る。12月、耽羅人が初めて百済国に通交する
翰苑 倭國
『翰苑』 は唐の時代の 張楚金が撰し、雍公叡が注した「類書」。 「類書」とは、多く
上宮記 釋日本紀 男大迹天皇条 より
上宮記(じょうぐうき・かみつみやのふみ)は、7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史
山海經
海外東經 海外、東南陬(すみ)より東北陬(すみ)に至る者(ところ)。 丘(さきゅう
梁書 東夷条 倭
倭は自ら太伯の後と云う。 俗は皆文身。 帶方を去ること萬二千餘里、おおよそ會稽の東
資治通鑑 白村江
『資治通鑑』(しじつがん)とは、北宋の司馬光が編纂した編年体の歴史書で、1084年に成立
扶桑略記
「扶桑略記」 平安時代の天台宗の僧皇円(生年不詳、没年1169年)によって書かれた歴史書。原
三國志卷三十/魏書三十/烏丸鮮卑東夷傳
書載「蠻夷猾夏」詩稱「玁狁孔熾」久矣、其爲中國患也。秦漢以來、匈奴久爲邊害。孝武雖外