上宮記 釋日本紀 男大迹天皇条 より

上宮記(じょうぐうき・かみつみやのふみ)は、7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書。『日本書紀』や『古事記』よりも成立が古い。鎌倉時代後期まで伝存していたが、その後は散逸し、『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に逸文を残すのみである(『天寿国曼荼羅繍帳縁起勘点文』所引の「或書」も上宮記と見なす説がある)。特に『釈日本紀』巻十三に引用された継体天皇の出自系譜は、『古事記』・『日本書紀』の欠を補う史料として研究上の価値が高い

『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。

これによると、男子の直系は

「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」

とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの原帝紀の編纂(欽明朝か)と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。

(上宮記に曰く、) 一(ある)に云う。 凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ)俣那加都比古(くいまたなかつひこ)が女子(むすめ)、名は弟比彌麻和加(おとひめまわか)を娶りて生める兒は若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)。 母母恩已麻和加中比彌(ももしきまわかなかひめ)を娶りて生める兒は大郎子(おおいらつこ)、一の名は意富富等王(おほほとのみこ)・妹(いも)踐坂大中比彌王(おしさかのおおなかのひめみこ)・弟(おと)田宮中比彌(たみやのなかひめ)・弟(おと)布遲波良己等布斯郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)四人(よたり)。

 この意富富等王、中斯和命(なかつしわのみこと)を娶りて生める兒は乎非王(おひのみこ)。 牟義都國造(むげつのくにのみやつこ)、名は伊自牟良君(いじむらのきみ)が女子(むすめ)、名は久留比彌命(くるひめのみこと)を娶りて生みし兒は汗斯王(うしのみこ)。 伊久牟尼利比古大王(いくむねりひこのおおきみ)が兒の伊波都久和希(いはつくわけ)‐兒の伊波智和希(いはちわけ)‐兒の伊波己里和氣(いはころわけ)‐兒の麻和加介(まわかけ)‐兒の阿加波智君(あかはちのきみ)‐兒の乎波智君(おはちのきみ)、余奴臣(よぬのおみ)の祖(みおや)名は阿那爾比彌(あなにひめ)を娶りて生みし兒の都奴牟斯君(つぬむしのきみ)が妹(いも)布利比彌命(ふりひめのみこと)を娶りき。

 汗斯王(うしのみこ)彌乎國(みおのくに)高嶋宮(たかしまのみや)に坐しし時に、この布利比彌命(ふりひめのみこと)甚(いと)美(うるわし)き女(みめ)と聞き人を遣わして三國坂井縣(みくにのさかないのあがた)より召し上げ、娶りて生める所は、伊波礼宮(いはれのみや)に天の下治しめしし乎富等大公王(おほとのおおきみ)なり。 父の汗斯王(うしのみこ)崩去(かむさ)りまして後に、王(みこ)が母の布利比彌命(ふりひめのみこと)言いて曰く、「我獨り王子(みこ)を親族部(うがら)无き國に持ち抱きて、唯獨り養育(ひだしたてまつる)(これを比(ひ)陁(だ)斯(し)奉(たてまつる)と云う)こと難し」と。 爾して将に下り去りまして祖(みおや)三國命(みくにのみこと)の坐(いま)す多加牟久(たかむく)の村に在(ま)しましき。

 (上宮記曰) 一云 凡牟都和希王娶俣那加都比古女子 名弟比彌[賣]麻和加 生兒若野毛二俣王 娶母母思已麻和加中比彌[賣] 生兒大郎子 一名意富富等王 妹踐坂大中比彌王 弟田宮中比彌 弟布遲波良已等布斯郎女四人也

 此意富富等王 娶中斯和命 生兒乎非王 娶牟義都國造 名伊自牟良君女子 名久留比彌[賣]命 生兒汗斯王 娶伊久牟尼利比古大王 生兒伊波都久和希 兒伊波智和希 兒伊波己里和氣 兒麻和加介 兒阿加波智君 兒乎波智君 娶余奴臣祖 名阿那爾比彌 生兒都奴牟斯君 妹布利比彌命也

 汗斯王坐彌乎國高嶋宮時 聞此布利比彌[賣]命甚美女 遣人召上自三國坂井縣 而娶所生 伊波礼宮治天下乎富等大公王也 父汗斯王崩去而後 王母布利比彌命言曰 我獨持抱王子 无親族部之國 唯獨難養育 比陁斯奉之云 爾将下去於在祖三國命坐多加牟久之村也

播磨國風土記に一カ所だけ上宮法皇 に関する記録がある。
印南の郡
原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、 廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名号を大 石といふ。伝えていへらく、聖徳王の御世、 弓削の大連の造れる石なり