扶桑略記

「扶桑略記」
平安時代の天台宗の僧皇円(生年不詳、没年1169年)によって書かれた歴史書。原文は漢文。
・欽明天皇13年(552)10月、百済聖明王が阿弥陀仏、観音、勢至を献じた。
・ある記録にいう。信濃の国善光寺阿弥陀仏がこの仏である。
・推古天皇10年(602)4月8日、秦巨勢大夫に命じて信濃の国にお送りした。
同時代の文献で、に善光寺の創建に言及したものに「伊呂波字類抄」があります。
「善光寺如来は、渡来してから216年たっている。そのうち、都付近におられたのが50年、信濃へお下りになってから166年だ。推古天皇10年4月8日に、信濃国若麻績東人が上洛し、下向の時、この仏にお会いして、みずから背負ってくだった。」

善徳が蝦夷の兄
 門脇禎二氏によれば、『扶桑略記』の所伝に従うと推古十八年の新羅使引見で初めて『日本書紀』に現れたときの蝦夷の年齢は25歳という。それが正しいとすると推古四年には蝦夷は11歳となり、善徳が蝦夷の兄と想定されるのである。

「扶桑略記」によれば
日本書紀に拠れば天智天皇は近江京で亡くなったとされていますが、、、、
「馬で山科に行ったが行方がしれない、履いていた沓(くつ)が落ちていた場所を陵としよう」とあります。

司馬達等
6世紀前半に仏教受容に活躍した帰化人。生没年不詳。達止とも書く。《扶桑略記》によれば,継体朝に渡来して,仏教公伝以前に大和国高市郡の坂田原に草堂を結んで,仏像を安置礼拝していたという。朝廷に仕えて鞍部村主(くらつくりのすくり)という小氏となり,東漢(やまとのあや)氏の統率の下に馬具・皮革製品等の生産に従うとともに,大臣(おおおみ)蘇我馬子を助けて大いに仏法の普及・興隆に努め,その女の嶋(しま)(善信尼)は日本最初の出家者となり,子の鞍部多須奈(徳斉法師,鞍作止利の父)は用明天皇のために出家して坂田寺を造った。

 蘇我馬子は飛鳥時代に絶対的な権勢を誇った蘇我本宗家の当主である。聖徳太子と共に推古朝の国政を主導した人物とされている。馬子が史書に初めて登場するのは、572年(敏達元)4月である。『日本書紀』は、敏達天皇の即位に際して、二年前に死亡した父・稲目(いなめ)の後を継いで大臣に任ぜられた、と伝えている。以来55年間、敏達、用明、崇峻、推古と四人の天皇の大臣として仕えた。

 『日本書紀』は馬子の死亡を626年(推古34)5月20日としているが、彼の死亡時期については異説がある。『法王帝説』は627年(推古35)6月に薨るとしている。また『扶桑略記』によれば、馬子の死亡年齢を76歳としている。

蘇我本宗家の系図は、建内宿禰-蘇我石川宿禰-満智-韓子-高麗-稲目-馬子-蝦夷-入鹿 であったとされている。
馬子は、推古天皇34年の条で、「大臣は蘇我稲目の子で、性格は武略備わり、政務にもすぐれ、仏法を敬った」と記し、尊敬の念を隠していない。さらに続けて「(大臣は)飛鳥川のほとりに家居した。その庭の中に小さな池を造り、池の中に小さな島を築いた。それで時の人は、嶋大臣といった」と記述している。