百済
東夷傳百済 「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。」 その地の者は新羅及び渤海
任那
任那は崇神天皇の時代に来倭した大加羅国王子の都怒我阿羅斯等、別名蘇那曷叱知が帰国した
倭国・俀国
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」 成王の時、越常雉を献じ、倭
三国遺事
朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に頼るしかない。 古代の
周と燕の時代の倭人
倭人について、 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八) 周の時、天下太平にして
渤海国
渤海国最大領域 渤海(ぼっかい、698年[1] – 926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシア
隋書 東夷伝 百濟
隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷伝 百濟 (原文) 百濟之先 出自高麗國 其國王
脱解王 昔氏始祖伝説
『阿珍浦伝説』民間伝承1 昔、倭国の東北千里に多婆那国があって、またの名前を龍城国
穢伝
『三国志魏書』 濊南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。戸二