渤海国

渤海国最大領域
渤海(ぼっかい、698年[1] – 926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。

『新唐書』に、渤海は本来粟末靺鞨であり高句麗に従属していた、姓は大氏である(渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏」)と記す。

『旧唐書』と『新唐書』では渤海靺鞨の指導者大祚栄に関する記述は異なる。『旧唐書』では渤海靺鞨の大祚栄は出自は高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也「渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり」)としているが、『新唐書』では粟末靺鞨の出としている。

『大金国史』には、女直(女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。

渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。

渤海の名は本来、遼東半島と山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである(→「渤海 (海域)」)。初代国王大祚栄が、渤海沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

 『晋書』粛慎伝
粛慎(シュクシン)氏、一名に挹婁(ユウロウ)。不咸山(ふかんざん=長白山・朝鮮の白頭山)の北にあり、扶余(ふよ)から六十日の行程。東は大海(日本海)に沿い、西は寇漫汗国と接し、北は弱水(アムール川)に極まる。(中略)
  気が向いたときに船に乗り、巧みに略奪を働くので、隣国は畏れて患うが、兵を派遣しても(兵士が彼らの毒矢を恐れるので)服させることはできない。東夷の扶余は飲食には皆、俎豆(お膳)を用いるが、挹婁だけは使用しない。その法俗は、最も綱紀が無い者(最悪の無法者)たちである。

『三国志魏書』挹婁伝
挹婁は扶余の東北千余里、大海に沿い、南に北沃沮と接し、いまだにその北の極まる所を知らない。多くの険山がある。その姿形は扶余に似ているが、言葉は扶余や句麗(高句麗)と同じではない。五穀、牛、馬、麻布がある。人の多くは勇猛で力がある。大君長はいない。各々の部落に大人がいる

粛慎は挹婁・勿吉(モツキツ)と国号を改め、7世紀初期には靺鞨(マツカツ)と名を変え、高句麗や突厥に服属し、後に渤海を建国した南の粟末靺鞨と、後の女真となる北の黒水靺鞨に二分されている。
724年頃に建立された奥州多賀城の石碑に「西に靺鞨国」との文字がみえるが、『日本書紀』編纂時には粛慎の改号を知らなかったようだ。
612年、隋の煬帝は高句麗に遠征し、高句麗に服従していた靺鞨粟末部の大部分を帰順させ、現在の朝陽市に移住させた。隋に帰順しなかった靺鞨粟末部の残余は、高句麗側で抵抗を続け、668年に唐が高句麗を滅ぼした後、朝陽市に強制移住させられている。
従って、日本書紀に登場する粛慎とは、高句麗と共闘していた粟末靺鞨ではなく、アムール川中流域の黒水靺鞨のことになるが、中国の史籍には、黒水靺鞨は「東夷最強」とある。

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扶余王・依羅(イリ)

『渤海国・国書』
渤海の前身である高句麗の旧領土を回復し、扶余の伝統を継承した。わが渤海国と日本国は昔から本枝(兄弟)の関係である。

神亀四年(727年)、平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。そこには、日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。
  285年、前燕の慕容廆に侵攻された扶余は、国王の依慮が海に投身自殺したほどの潰滅的な打撃を受け、王族は沃沮に避難するが、翌年、再び慕容廆の侵略を受け、王子の依羅(イリ)が晋王朝(西晋)の援助で扶余国を再建する

『桓壇古記』 偽書1911年印刷
依慮王、鮮卑(センピ)の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて、北沃沮を保つ。明年、子の依羅立つ。自後、慕容廆、また復(フタタ)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る。
偽書ゆえ、真偽不明。