倭国・俀国

蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す。 「山海経」
成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す。 「論衡」
海中、倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見す、という。「漢書」

『山海経』に「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」とある。そこから大凌河の上流の「倭城」に移る。『水経注』に「蓋し、倭地人が之に徙るか」とある。
北魏、酈道元の水経注には、遼西を流れる白狼水の支流に髙平川水というのがあり、「水は西北平川を出て東に流れ、倭城北を経る。蓋し倭地。人これに移る。」とされ、こんなところに倭城がある。

倭人がなぜ遼西周辺にいたのか? 三国史記、高句麗本紀には倭山という地名が現れます。どうも朝鮮半島北部にまで広く展開していたらしい。呉王夫差は越王勾踐に破れ、前473年に呉は滅亡しました。勾踐は北上し、山東半島の琅邪に都を置いたと言いますから、海に逃げたのでしょう。

山海経、海内北経には「葢国は巨燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」と記されています。燕の南に葢国があり、さらにその南方は倭だった。葢は、日本人は「ガイ」と読んでしまいますが、漢音、呉音とも「カイ」です。漢の玄菟郡、後の高句麗領域に葢馬県というのがあり、そのあたりだろうという。これは魏志の濊(カイ)国に重なります。漢書では穢(ワイ、アイ)と記されています。

夫餘は祖先が授けられたという「濊王之印」を持つ(魏志夫餘伝)。天帝の子と名乗る夫餘王、解慕漱が熊心山(鴨緑江付近、楚山か?)に結び付けられ (三国史記、高句麗本紀)、熊、夫餘、カイが一つになります。

魏志韓伝(馬韓)
韓在帯方之南東西以海為限南與倭接方可四千里有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓辰韓者古之辰國也
「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

桓霊之末韓濊彊盛郡縣不能制民多流入韓國建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帯方郡遣公孫模張敞等収集遺民興兵伐韓濊舊民稍出是後倭韓遂属帯方
「桓帝の末と霊帝の末には韓、濊が強勢になり、郡や県は制御することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の帝、愍帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫模や張敞等を派遣して遺民を集めて兵を興し、韓を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。」

漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されている。
倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。

『後漢書』「卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人」
「倭在韓東南大 海中依山島為居 凡百餘國」

三国志『魏書』巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」

『晋書』四夷傳(東夷条)
「倭人在帶方東南大海中 依山島爲國」

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」
「倭國在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居」

『後漢書』に記載されているのは「倭奴國」と「倭國王」だけである。3世紀の『魏志倭人伝』でも王が居る国は「女王国(邪馬壹国,伊都国)」」および敵国の「狗奴国」だけである。

『魏志韓伝』に、帯方郡と倭の関係について次のような記述がある。
建安中、公孫康、屯有県以南の荒地を分かちて帯方郡と為し、公孫模・張敞等を遣わして(漢の)遺民を収集せしめ、兵を興して韓・(わい)を伐つ。旧民(韓より)稍出ず。是の後、倭・韓は遂に帯方に属す。

倭が帯方郡に属していたとすると、卑弥呼は?

漢の武帝は、燕国からの亡命者の衛満(えいまん)が朝鮮北部に建国した衛氏朝鮮を滅ぼし、前108年に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四つの郡を設置して郡県統治を行った。

前82年には真番、臨屯が廃止され、その一部が、玄菟、楽浪の二 郡に吸収された。

前75年には玄菟郡が、中国側の遼東郡に吸収された。前1世紀の中ごろには高句麗が 建国された。

190年に公孫度(こうそんたく)が南満州に独立し、その子の公孫康は、205年 ごろ、楽浪郡を分けて、北を楽浪郡、南を帯方郡とした。

238年、司馬仲達は公孫度の子、公孫淵を滅ぼし、魏は楽浪、帯方の二郡を接収し た。

さて、239年ごろの遼東半島については「魏志」及び後漢書の韓史を見なければならない。
「魏志の韓伝」をみよう。
「 韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、地積は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国なり。馬韓は西に在る。・・略・・景初年間(237年-239年)、魏の明帝は密かに帯方郡太守の劉昕、楽浪郡太守の鮮于嗣を派遣して、海を越えて二郡を定め、諸々の韓国の臣智らに邑君の印綬を加賜し、その次には邑長に与えた。その風俗は衣幘を好み、下戸(賤民)は郡に詣でて朝謁するときは、皆か衣幘を借り、印綬と衣幘に服する者は千余人。
 部従事(官職名)呉林は楽浪を以て元の韓国を統治し、辰韓を八国に分割して楽浪に与えたが、約定が異なり、臣智は激昂、韓は憤怒し、帯方郡の崎離営を攻撃した。その時の太守弓遵、楽浪太守の劉茂は兵を挙げて討伐したが弓遵は戦死、二郡は遂に韓を滅ぼした。」
つまり、楽浪郡の南方に帯方郡があり、その南には韓がいたことになる。そして、韓が激怒して帯方郡を襲ったのは公孫氏が滅びた後の話になる。
そして、その帯方郡はその当時激戦の真っ只中にあった。そんな時に、帯方から魏の使者がわざわざ船で対馬を渡り九州まで行く必要があったのかどうか。

「後漢書の韓伝」をみると、「韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。」とあるが、注目すべきは両書とも南に倭と接すると書いてある。最低限、倭が日本ではないことの証明ではないか。
楽浪郡は少なくとも鴨緑江より南に来る事はなく、帯方郡は楽浪郡を出ることはないことを確認していただきたい。
それから、上の文書で倭は七十八国と非常に規模が大きいことがわかる。そして、後の百済となる伯済がわざわざ倭の一部であると書いてある。
そして,梁書には、
「魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。
 正始中(240-249年)、卑彌呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑彌呼の宗女「臺與」を王として立てた。 その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。」

後漢書の記事で倭の国の中に百済の元があることになっている

公孫氏は遼東地域が本拠であって、幽州の中の楽浪郡の南部、そこに新たに帯方郡を設置したのであれば、その範囲は現在の韓半島または北朝鮮地域に入る事はない。
漢書地理誌に楽浪郡は二十五県があると書かれている。その中の7県に公孫氏が帯方郡をおいたわけだ。
三国志に「建安中、公孫康分屯有県以南荒地為帯方郡」(屯有県を分かち、南の荒地をもって帯方郡となす。)
晋書には「帯方郡、公孫度置。・・・帯方・列口・南新・長岑(ちょうしん)・提奚(ていけい)・含資・
海冥・平州初置・・・・・」
この地名の特定が出来ればもうこれで帯方郡がどこなのかは完璧だ。
山形明郷先生がその地域を特定している、
帯方・・・・漢書地理誌の一文「含資、帯水西至帯方入海」、から見て現在の蓋県の、南を「帯水」とみなせば、帯方は「蓋県」の古名ではないか。

古田武彦氏の分析によれば、「蓋国」の南(南方ではない)に当る「倭」は、現在の朝鮮半島の南半部(韓国)の称とみられる。
魏志韓伝に「東西、海を以て限りと為し、」とあり、南は倭地であるため南岸部を限りと述べていない。
高句麗好太王婢に「倭人その国境に満ち」と述べている国境は新羅と倭の「国境」であると述べ、3~5世紀の間に朝鮮半島南半部の中に「倭地」の存在したことは明らかであるとの意見を開陳している。

そこに住む住民は「倭人」であり、北部九州の倭人と同種。すなわち、海洋民族としての「倭人」は、朝鮮海峡の両岸に分布していたのであるとしている。

隋書俀伝等によると邪馬台国は邪靡堆と標記してあり、国ではなく地域である。また邪馬壹国と投馬国の人口は国邑(都市国家)としては多過ぎる。邪馬壹国の人口は7万戸、1戸5人としても35万人にもなる。
『三国志魏書』によると辰韓 ・弁辰は4-5万戸、馬韓は10万戸である。

『隋書』に「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」「邪靡堆(ヤマたゐ)に首都をおく、(この邪靡堆は)すなわち『魏志』の言う所の邪馬臺である。」とあり、7世紀までは邪馬壹国の流れを汲む王朝が続いていたと考えられるが、8世紀初めに編纂された「日本書紀」や「古事記」には邪馬壹国や卑弥呼について記述が無い。

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀国王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、俀国には阿蘇山があると明記されているので、俀国は九州のことである。
開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思北孤」「倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤。」は男王であり「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」「王の妻は雞彌(キミ)と号す。後宮に女が6-700人いる。太子の名を利歌彌多弗利となす。」とあるので、俀国王自身は太子でも女帝(推古天皇)でもない。

広開土王碑、『三国史記』等の倭・倭人関連の朝鮮文献、『日本書紀』によれば、倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している。

倭は朝鮮半島で数世紀に渡って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられる。

『日本書紀』継体記末尾に『百済本記』(百済三書の一つ、三国史記の『百済本紀』とは異なる逸失書)から531年に「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕」という記述が引用されている。しかし、継体の子の安閑・宣化は、継体の死後も生きていたので、この記述は継体のことではない。

継体21年(547年)、天皇は「社稷の存亡ここにあり」という詔を発している。継体が物部麁鹿火に磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言っている。

福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは九州に律令があったことを示している。

福岡県久留米市の高良山にある高良大社は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせる。
高良大社が三種の神器、「干珠・満珠」の宝珠や七支刀を所蔵している。
高良神社の神職は丹波・物部・安曇部・草壁・百済の五姓である。
中世末期に成立した高良大社に伝わる高良記によると高良大神の孫の子孫に「皇」(すめろぎ)や「連」(つら)などと言った称号を持った者がいる。

「筑紫の君・葛子は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったとある。

『日本書紀』は「大化の改新」の時に「郡」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定(701年)以降であり、それ以前は「評」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。
九州倭国の都だったとされる太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり都督府跡のことで都督-評督制の名残と考えられる。

『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」
『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国とヤマト日本とは別の国であり、倭がヤマトにより征服され、ヤマトが日本の名前を使い始めたからである。

天皇家の最も重要な祭祀である大嘗祭は、673年まで行われていない。
天武2年(673年)8月条に、「詔耽羅使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。

「壬申の乱」の前年の671年に筑紫君薩夜麻が、唐の郭務悰と2千余人の兵に送られ捕虜から解放されて倭(九州)に帰国している。

天武の倭風諡号は天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)であり八色の姓「真人」を持っていた。
天皇家の菩提寺である泉涌寺に天武系天皇の位牌が無い。
天武が天皇であればその息子が天皇を継ぐのは当然である。ところが天武は吉野の盟約において皇族達に、自分と鸕野讚良皇女(持統天皇)の間の息子「草壁王子」を天皇にすることを誓わせている

天皇が交代すれば元号は必ず改元されるが、九州年号の白鳳は661年から684年まで続いているので、少なくともこの間は天皇は交代しておらず、同じ天皇の在位が続いていたと考えられる

旧唐書には麟徳2年(665年)高宗が泰山で封禅を行った際に劉仁軌が、新羅・百済・耽羅・倭4国の酋長を率いて参加したと記録されている。このとき唐にいたのは筑紫君薩夜麻であるので、薩夜麻が倭の長である。

高市皇子の長男・長屋王の邸宅跡から「長屋親王」「長屋皇宮」「長屋皇子」と記した木簡が多数発見されている上に、『日本霊異記』で「長屋親王」と称されていることなどから、長屋王は王ではなく親王であったと考えられる。律令制では天皇の子及び兄弟姉妹が親王であるから、親王の父である高市皇子は天皇であったか?。

一般に倭が日本と名乗ったとされており、そのことは三国史記の新羅本紀に初めて登場する。
(670年)文武王上 十年二月 土星入月 京都地震 中侍智鏡退 倭國更號日本 自言近日所出以爲名

『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。(禁書を隠し持って山野に逃亡している者は、100日以内に自首しなければ恩赦を与えない。)」とありこの時期にはヤマト王権と相反する書物が残っていたことを示している。
持統天皇5年(691年)8月13日条に、「十八氏に詔して其の祖等の墓記を上進らしむ」とある(「墓記」とは氏族の発祥・由来・顕彰事項を記した氏族の史書)。日本書紀の記述に合わせて各墓記を改竄したと考えられる

朝鮮
朝鮮民族はどこかで南方系民族と交錯していると考えられるが、朝鮮人研究者は北方系のツング-ス族あるいはモンゴル族が中心となって、そこに南方系が混合したと考えている(『韓国上古史の争点』千 寛宇編 学生社 1977年11月10日 36頁)。ところが、南部に南方系の風俗(「文身」(刺青)、「草葬」(死体を野外で自然に自然腐敗させる葬法)があって、南部は北部と異なり稲作、漁業など独自の南方文化圏が存在したと考えられるが、これを頑強に否定し、南部の民族(「新羅」、「百済」、「伽耶」も北方から来た民族で構成され、「高句麗」も含めて<単一民族>であるとの見解が支配的となっている(同 42頁)。そして、日本はあの「騎馬民族渡来説」により「天皇種族」が日本で支配民族となったという(同 37頁)。しかし、日本でも南方系の民族が渡来しており朝鮮半島に彼らが渡来して独自の文化圏を構成しなかったはずはなかろう。朝鮮人は自分たちが<単一民族>であることを強調し、さらに、その朝鮮人の一種である「天皇種族」が日本に渡来して支配民族となったとしたいのである。これは、そうでありたいという<朝鮮民族優位願望>に呪縛されてしまっていると考えざるを得ない。
日本の研究では、海洋民族、交易と稲作の民としての民族が基本となっている。