継体天皇

継体帝の「系譜」を整理してみると、二つの「血筋」が浮かび上がります。先ず一つ目が応神帝の母・息長足姫尊(神功皇后)から息長宿禰王、山代之大筒木真若王、日子坐王、開化帝へと繋がる『神功ライン』であり、もう一つが伝説上の人物だとされる日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王を「祖」とする『河内ライン』です。そして応神の妻の一人が田別王の子・杭俣長日子王(くまたナガひこ)の娘・息長真若中比売なのですから、ホムタワケ応神を核として、また仲哀帝をジョイント役にして二つの「聖なる」息長の血筋が何代かぶりに収斂していることになります。

倭建命の系譜では11代垂仁天皇(伊久米伊理毗古伊左知/いくめいりびこいさち)の女、布多遅伊理毗売(ふたぢのいりひめ)娶いて帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと/14仲哀天皇)を生んでいます。この天皇の記述も后妃と皇子の記事が数行のみで沙庭(さにわ/占い)で神の託宣を疑い天皇が死に至るところ等は神功皇后の項に記述されており、また天皇の出生についても疑義があり仲哀と息長帯比売(神功皇后)については、矛盾に満ちた記述で構成されており、とても歴史的事実とは信じ難い内容になっています。また、倭建命は他五人の妃にも娶いて各一人の子をもうけています。弟橘比売(おとたちばなひめ)に娶いて若建(わかたけ)王、布多遅比売(ふたぢひめ)に娶いて稲依別(いなよりわけ)王、大吉備建比売(おおきびのたけひめ)に娶いて建貝児(たけかいこ)王、山代玖玖麻毛理比売(やましろのくくもりひめ)に娶いて足鏡別(あしかがみわけ)王、一妻(あるみめ)に娶いて息長田別(おきながたわけ)王の五人で、いずれも仲哀天皇の異母兄弟になり、稲依別王は犬上の君、建部の君が祖なり。建貝児王は讃岐の綾の君、伊勢の別、麻佐の首、宮首の別の祖なり。足鏡別王は鎌倉の別、小津の石代の別、漁田の別が祖なり。と「記」は記していますがこの三王については子孫の記述もなく天皇の異母兄弟としては異例のあつかいです。また、息長田別王を生んだ妃のみが珍しく妃の名前を伝えず一妻(あるみめ)と記されており、この王の名も「記」にのみ記されて「書紀」や「上宮記」には見えない名です。この一妻については息長氏系の女性とする説もありますが関連史料がなく不明です。
倭建命を祖とする、この息長系譜が息長氏の本流系譜になるのですが、この系譜でも息長姓の人は息長田別王と息長真若中つ比売の二人のみです。しかも別王の母の名は不詳、別王の姓のみ何故、息長ではなく息長田なのか? そして別王の婚姻者も不詳で生まれた子が杙俣長日子(くひまたながひこ)王、この王の婚姻者も不詳だが飯野真黒比売
(いいのまぐろひめ)、息長真若中津比売、弟比売(おとひめ/亦の名百師木伊呂弁)の三人の子をもうけています。長女の飯野真黒比売は若建王と異世代婚して須売伊呂大中津日子(すめいろおおなかつひこ)王を生み、この王淡海(おうみ)の柴野入杵(しばのいりき)が女、柴野比売
(しばのひめ)を娶いて迦具漏比売(かぐろひめ)を生み、この比売が曽祖父の景行天皇の妃になり大江王を生む、という実に複雑で矛盾に満ちた系譜になっています。

「忍坂大中姫」こそ、継体の祖父・大郎子の妹[大叔母]であり、木梨軽皇子の母親なのです。ただ、記紀が編集された時期、権力の中枢にあったのは、「軽」の地で栄えた蘇我氏を亡ぼし台頭した藤原氏であった

垂仁39年の条に、皇子の五十瓊敷入彦命が「大刀一千口」を造り、忍坂邑に蔵め、後に石上神宮に移した、という記述があるので、有力者たちが多くの武器を収蔵し、それが祭祀の対象にまで昇華したことは確かです。更に、武器庫が在ったとされる地名を冠した「忍坂大中姫」。

西暦925年に完成を見た「延喜式」諸陵寮に、

宇度墓  五十瓊敷入彦命、在和泉国日根郡、兆域東西三町、南北三町、守戸二烟

「日本書紀」の安康天皇元年十月条によれば、太子であった木梨軽皇子が非行により臣下たちの信任を失い、皆が穴穂皇子の側に着いたため、

ここに太子、穴穂皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。穴穂皇子、また兵を興して戦わむとす。
  故、穴穂括箭(あなほや)、軽括箭(かるや)、始めてこの時に起こりぬ。

東国の諸国造家の物と伝えられた系譜に、天津彦根命の子孫が「櫛努古理命」の世代で幾つもの家に分岐、そのうちの一家が「加志岐弥命」を祖とする白根造であり、彼の本業が「鍛冶」だったと記されています。
鳥取之河上宮(古事記)で剱を作るため皇子は『河上という名の鍛(かぬち)』を呼び寄せたと垂仁三十九年冬十月条にありますが、この「河上」がこの系図に見える白根造でした。そして大王は、剱を一旦忍坂邑(おしさかのへき)に収めた皇子に「楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部」の拾箇の品部を下賜したとも紀は「一書」の形で伝えているのです。凡そ、古代王権の成立に軍事力が不可欠なものであったとするなら、この時、皇子は全ての兵器(剣、弓、矢、楯)を与えられ、加えて「神器」製造の一部(玉作)も行い、行政面では人々の懲罰権も掌握(刑部)していたと見做せます

継体二十三年の条に、夫智奈麻礼、奚奈麻礼という二人の新羅使の名前がある。奈麻(奈末)は新羅の官職十七等の第十一である。

(継体天皇)二十五年春二月、天皇は病が重くなった。七日、天皇は磐余の玉穂宮で崩御された。時に八十二歳(稗田阿礼の年は二十八)であった。
冬十二月五日、藍野陵あいののみささぎ(摂津国三島郡藍野)に葬った。
――ある本によると、天皇は二十八年に崩御している。
百済本記では
「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城こつとくのさしを造った。この月高麗はその王、安を弑しいした。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。

これによって言うと辛亥の年は、二十五年に当る。
後世、調べ考える人が明らかにするだろう。

倭比売命(やまとひめのみこと)
11代垂仁天皇と日葉酢媛命の皇女。
天皇の命によって、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に代わって天照大神を奉じて大和の笠縫から宇陀・近江・美濃を巡行した末に伊勢に入り、神託によって天照大神の祠を伊勢に建て、五十鈴川のほとりに斎宮を建てて、伊勢皇太神宮の斎主(いわいぬし)となられた。この時、倭大国魂神を大市の長岡に祀って、倭氏の市磯長尾市宿禰に託したのは、崇神天皇と尾張大海姫命の皇女、渟名城稚(入)姫命である。
倭建命が熊襲征伐に赴かれる際には衣装を、東国征伐の際には天叢雲剣(草薙剣・熱田神宮蔵)と袋に入った火打石を与え、倭建命の窮地を救っている。

日本武尊
父の景行天皇が美濃国造の大根王(おおねのみこ)の娘、兄比売・弟比売の姉妹を召されようとしたところ、兄の大碓命が横取りした上、天皇との朝夕の会食にも顔を出さなくなった。天皇は小碓命を使いに出して詰問させることにしたが、小碓命は兄を捕えて手足をもいで殺した上に薦に包んで投げ捨ててしまった。天皇は小碓命の乱暴を恐れ、またその力を生かすために熊襲征伐を申し付けた。叔母の倭比売命(母方が息長氏)に衣装をもらった命は、女装して熊襲の宴席に潜り込み、熊襲兄弟を首尾よく刺し殺した。この時瀕死の弟建は命に敬服して、「倭建」の名を献じたという。命はさらに「山神、河神、穴戸神を言向け和し」、最後に出雲建を打ち倒して都へ凱旋する。
ところが天皇は矢継ぎ早に東国への遠征を命じたので、命はまたもや叔母の倭比売命を訪ねて、天叢雲剣(草薙剣)と火打石の入った袋を貰って、気を取り直して出発。相模国造に騙された時には、この剣と火打石が命の窮地を救う。また、走水(はしりみず)の海では暴風雨に巻き込まれが、妃の弟橘比売(穂積氏の忍山宿禰の娘)が入水して嵐の神を鎮め、命の危難を救った。