宗像氏

丹後は丹波国から分かれてできた国ですが、丹波国造家は三輪氏です。
そして、三輪氏の祖の阿田賀田須命が和邇氏・宗像氏の始祖です。
したがって、海部氏とは和邇氏と同族か?
賀茂氏は矢から産まれた子を、祖の賀茂別雷命だとしています。 秦氏はその矢を松尾 大明神として祀り、宗像の神と同神だとしています。 宗像氏は出雲氏族三輪氏の同族の 和邇(わに)氏です。

宗像氏は筑紫の海人(あま)族を統べる氏族でした。宗像三女神(沖ノ島沖津宮の田心姫(たぎりひめ)神・大島中津宮の湍津姫(たぎつひめ)神)・辺津(へつ)宮の市杵島姫(いちきしまひめ)神)を祭祀して、朝鮮半島との海路の支配と文化の移入において、新羅と密接な関係を持っていました。

 天武天皇は皇子時代に、胸形(宗像)君から娘の尼子娘(あまこのいらつめ)を妻に差し出されました。額田姫王を娶ったあとの早い時期だったと思われます。そこに生まれたのが長子の高市皇子です。

「海北」は朝鮮半 島を指す語として用いられている。また、『宋書』倭国 伝に載せられる倭王武の上表文には、「東征二毛人一五 十五国、西服二衆夷一六十六国、渡平二海北一九十五国」 とみえ、ここにいう「海北」も、朝鮮半島を指している。
そして、先に述べたとおり、三女神が王権にとって の重要な守護神と考えられることからすれば、その神 格は、「はじめに」にも述べたように、「北部九州を経 由する王権の対外交渉にかかわる海上交通の守護神」 ということができよう。『紀』の雄略天皇9年3月条の 伝承も、新羅を討つために自ら渡海しようとした天皇 を三女神が諌めたというのであるから、まさにそのよ うな神格を示す伝承ということになる。

『紀』の伝承には、宗像三女神の祭祀を王権が主催し たことをうかがわせる伝承も存在する。まず、応神天 皇41年2月是月条には、次のような記事がみえる。
是月、阿知使主等、自レ呉至二筑紫一。時胸形大 神、有レ乞二工女等一。故以二兄媛一奉二於胸形大神一。 是則今在二筑紫国一、御使君之祖也。(後略)
ここにいう兄媛は、縫工女を求めるために「呉」(中 国南朝)に派遣された阿知使主らが、「呉王」から与え られたとされる4人の工女(兄媛・弟媛・呉織・穴織) の一人であり(応神天皇37年2月朔条)、その兄媛が、
「胸形大神」の求めにより大神に奉られ、それが筑紫国 の御使君の祖であるというのである。これとよく似た 内容の記事は、雄略天皇14年正月戊寅条・同3月条に もみえており、そこでは、身狭村主青らが「呉」から将 来した手末才伎(漢織・呉織・衣縫の兄媛・弟媛)のう ちの兄媛が、大三輪神に奉られたとされている。

御使部を統括する中央の 伴造氏族は御使連氏であり、この御使連氏は、神護景 雲2(768)年に御使連清足らが朝臣の姓を賜り(『続日 本紀』神護景雲2年9月乙未条)、『新撰姓氏録』左京皇 別上に「御使朝臣。出レ自二諡景行皇子気入彦命之後一也。
(後略)」とみえる氏(ウヂ)である。筑紫の御使君氏は、 これとは別のウヂであり、君の姓(カバネ)を称するこ とからすると、宗像氏と同系のウヂである可能性が高 い。

履中天皇5年3月朔条から10月甲子条にかけ ては、次のような記事がみえる。
五年春三月戊午朔、於二筑紫一所居三神、見二于 宮中一、言、何奪二我民一矣。吾今慚レ汝。於是、禱 而不レ祠。(中略)冬十月甲寅朔甲子、葬二 皇妃一。 既而天皇、悔下之不レ治二神祟一、而亡中皇妃上、更求二 其咎一。或者曰、車持君行二於筑紫国一、而悉校二車 持部一、兼取二充神者一。必是罪矣。天皇則喚二車持 君一、以推問之。事既得実焉。因以、数之曰、爾 雖二車持君一、縦検二校天子之百姓一。罪一也。既分二 寄于神一車持部、兼奪取之。罪二也。則負二悪解除・ 善解除一、而出二於長渚崎一、令二祓禊一。既而詔之 曰、自レ今以後、不レ得レ掌二筑紫之車持部一。乃悉 収以更分之、奉二於三神一。

雄略天皇9年2月朔条には、次のような記事がある。
遣三凡河内直香賜与二采女一、祠二胸方神一。香賜
既 至二 壇 所一、(割 注 略)及レ 将レ 行レ 事、姧二 其 采 女一。 天皇聞之曰、祠レ神祈レ福、可レ不レ慎歟。乃遣二難 波日鷹吉士一将誅之。(後略)

天皇が凡河内直香賜と采女を派遣して「胸方神」の祭祀 を行わせたというのであるから、これは、宗像神の祭 祀が王権の主催する祭祀であったことを直接に示す記 事ということができる

 こうして大和王朝と宗像海人族は、密接に結びついていたが、倭国筑紫王朝の朝鮮半島政策は、親「百済」を基本とし新羅とは敵対し続けたため、「海北道中」の沖ノ島ルートは、宗像海人族を介した大和王朝と新羅の、いわば密貿易ルートであった。

 527年(継体天皇21年)に倭国筑紫王朝内に王位継承争いが起き、「葛子」を擁立して肥国の王(肥君)が蜂起し、これに胸形(宗像)と大和が呼応した。

古墳群

津屋崎古墳群は辺津宮に近接して営まれており、そ の造営集団については、古代宗像氏(およびその前身 集団)と結びつけて考えるのがふつうである。宮地嶽 古墳を、天武天皇との間に高市皇子を生んだ尼子娘の 父である胸形君徳善の墓とする指摘もなされている

宗像氏のカバネは初め君であったが、その本宗 は、天武天皇13年(684)に朝臣を賜った。系譜につい ては、『新撰姓氏録』右京神別下の宗形朝臣条に「大神 朝臣同祖。吾田片隅命之後也」、同河内国神別の宗形 君条に「大国主命六世孫吾田片隅命之後也」とみえる。

吾田片隅命は、『記『』紀』 にはみえない神名であるが、同じ『新撰姓氏録』の大和 国神別和仁古条に「大国主六世孫阿太賀田須命之後也」 とある「阿太賀田須命」と同神であり、阿太賀田須命は、『先代旧事本紀』地祇本紀に「阿田賀田須命。和邇君等 祖」とみえる。このように、吾田片隅命は、『新撰姓氏 録』や『先代旧事本紀』の段階(平安前期)においては、 複数のウヂの祖とされている

「磐井の乱」は、新羅に破られた南加 羅と 己呑を復興するために「任那」に派遣された近江 毛野の軍を、磐井がさえぎったことによって始まった とされる。南加羅は、南部伽耶地域の中心国の一つで ある金官国のことであり、 己呑も、南部伽耶地域に あった一国とみてよい。乱勃発についてのこの年次の 信憑性については、継体天皇23年条にも新羅の南加羅侵攻の記事があるため、疑問であるとの説もある16)。 ただ、新羅の南加羅への侵攻は何回にもわたって行わ れたとする説17)に従うならば、とくにその信憑性を疑 う必要はないであろう。
また、新羅が磐井に賄賂をおくって、近江毛野の軍 を妨害するように勧めたということも、当時の朝鮮半 島では、百済と新羅がともに伽耶地域への勢力拡大を 図って対立していたのであり、一定の事実を反映した 記述である可能性が高い。「国造本紀」の伊吉嶋造条に も、磐井の従者であった新羅の「海辺人」を斬った人物 が、伊吉嶋造の祖であると伝えている。

元 慶 5 年 ( 8 8 1 )1 0 月 1 6 日 の 太 政官符(『類聚三代格』巻1)にも、大和国の宗像社につ いて、「自二従清御原天皇御世一至二于当今一、氏人等所レ 奉神宝并園地色数稍多。高階真人累代鱗次執二当社事一」 とあり、天武朝以来、高階真人の一族が大和国の宗像 社の管理・経営に当たっていたとされる。
高階真人は、高市の後裔氏族であり、『新撰姓氏録』 左京皇別「高階真人」に、「出レ 自二 諡天武皇子浄広壱太 政 大 臣 高 市 王一 也」と み え、『続 日 本 紀』宝 亀4年(773)
10月戊申条に「安宿王賜二姓高階真人一」とあるように、 この時に高市の孫(長屋王の子)の安宿王が高階真人の 姓を賜与されたのである。

新羅の馬と鐘崎

昔は韓国や中国から優秀な馬を輸入して飼育していたと考えられています。それ故、鐘崎 貝塚には馬渡、番場という地名が残されています。三方を海岸に囲まれている湯川山は、その西側がなだらかに海岸周辺まで傾斜して山裾を作り、そこに鐘崎の 集落が広がっています

 海人文化の背景には、古代の玄界灘にて海を生活の舞台とする海人族の存在があり、胸肩(宗像)の海人、志賀の海人、那珂の海人の三つの存在が有名です。 中でも胸肩の海人族は、元来、潜水による漁労を営む一族であったことから鐘崎海人の起源とされています。それ故、筑前海域でも、特に玄海町沿岸の漁民は 「宗像海人」と呼ばれていたのです。宗像海人は、その優れた航海技術を駆使して、北九州の海上一帯を船で行き来したのです。
 また、鐘崎から発掘された釣針などの釣用具や魚骨、滑石性有孔円盤らは、沖ノ島の出土物と酷似することから、沖ノ島を統括する宗像一族と海人族は同祖で あると考えられます。宗像大社の神宝館には、「宗像一族は、古代より玄界灘沿岸にて勢力を持っていたが、航海術に長け、玄界灘を海の道として朝鮮半島や中 国大陸との交渉を持ち続けたことにこそ、海人族と呼ぶにふさわしい特異性があった。」という記述が見られます。また、海人族の背景には綿津見三神を祖とす る安曇族の存在が知られています。その宗像海人、安曇族の本拠が鐘 崎・宗像だったのです。

宮地嶽神社と古墳

津屋﨑には宗像氏の奥津城と考えられている古墳群がある。これらの古墳の一番南にある古墳が、宮地嶽古墳である。西の石舞台といわれるほどの巨石で築かれた横穴石室をもつ古墳、径が34mの円墳である。副葬品などから、ヤマト大権と関係を有する宗像氏の有力者の墓と考えられていて、宗像君徳善の墓とも言われる。

宮地嶽神社は1882年に宗像神社境外五摂社の一つに加えられているが、鎌倉時代の記録では宗像三所大菩薩と勝村大菩薩を祀っていたという。また、その記録から宮地嶽の山霊が勝村大明神だったことがわかるという。山頂には古宮跡がある。なお、勝村氏は磐井の乱の磐井の君の末裔であった。磐井の乱の後、磐井の息子は、屯倉をヤマト朝廷に寄進している。それが福津の近くにあったと言われている。

『海部氏系図』は、18世の孫の建振熊宿祢(たけふるくまのすくね)が丹波・但馬・若狭の海人を率い、神功皇后の新羅征伐に奉仕したと記していますが、『古事記』は難波根子建振熊命、『日本書紀』は武振熊を同時代の人物として挙げ、和邇氏の祖であると書いています。
建振熊宿祢が但馬の海人を率いて新羅征伐に奉仕したとありますが、『粟鹿大明神元記』は神部直(三輪氏)が率いたと書いています。

武振熊/建振熊(たけふるくま)、難波根子建振熊/難波根子建振熊命(なにわねこ-たけふるくま)
古墳時代の人物で、孝昭天皇の6世孫にあたる。神功皇后に仕えた将軍で、三韓征伐の後に忍熊王を破ったとされる。和珥氏の祖。

富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)の系図によると、孝昭天皇の6世孫であり、曾祖父には彦国葺を持つ。祖父に大口納、父に大難波宿禰を持ち、子に米餅搗大臣、日触使主、大矢田宿禰、石持宿禰を持つ。ただし、大難波宿禰と難波根子建振熊の2代に相当する箇所は、新撰姓氏録の右京皇別・真野臣の項によれば難波宿禰1人となっている。
子の大矢田宿禰は帰還せず、新羅に鎮守将軍として留まり、王の娘を娶って二児をもうけた。(『新撰姓氏録』右京皇別真野臣)

また、籠神社に伝わる国宝海部氏系図において、天火明命を祖として海部氏へと続く系譜の19代目に同名の人物が見える。

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