天武天皇:壬申の乱と高市皇子

天武天皇
名の大海人は、幼少期に養育を受けた凡海氏にちなむ。『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌が壬生(養育)のことを誄したことからこのように推測されている。

和風(国風)諡号
天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。
瀛は道教における東方三神山の一つ瀛州(残る2つは蓬莱、方丈)のことである。真人(しんじん)は優れた道士をいい、瀛とともに道教的な言葉である。

漢風諡号である「天武天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。近代に森鴎外は『国語』楚語下にある「天事は武、地事は文、民事は忠信」を出典の候補として挙げた。別に、前漢の武帝になぞらえたものとする説、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から名付けられたとする説もある。

高市皇子
(654年(白雉5年)?[1] – 696年8月13日(持統天皇10年7月10日))は、日本の飛鳥時代の皇族。天武天皇の皇子(長男)。しかし母親の身分が低かった事から、皇子の中の扱いでは低い位置に置かれた。

672年の壬申の乱勃発時、近江大津京にあったが父の挙兵に合流し、若年ながら美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。686年に持統天皇が即位すると、太政大臣になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。
天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘(宗形徳善の娘)を母とする。正妃は天智天皇皇女・御名部皇女(元明天皇の同母姉)。子に長屋王、鈴鹿王、河内女王、山形女王。また『万葉集』によれば、異母妹・但馬皇女が邸内にいたことから、高市皇子の妻または養女とも考えられている。また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、十市皇女に対して好意を抱いていた(または、恋人、夫婦であった)とする説もある。

持統天皇
鸕野皇女は六八六年の天武天皇の没後、皇太子草壁皇子が既に二十四歳であったのに、病弱だったためか皇位を継がせず、称制を行い、自ら天皇の職務を代行した。すると翌年大津皇子の謀反が発覚した。大津皇子は自害に追い詰められたのである。そして六八九年には草壁皇子は病没してしまった。そこで皇位が天武天皇の他の遺児たちに継がれてしまうのを嫌がり、自ら天皇に即位している。
草壁皇子の息子の軽皇子に皇位を継がせる為の中継ぎの天皇になったのだ。
当時高市皇子が草壁皇子亡き後、最有力の皇子なのである。それで後皇子尊と呼ばれていた。もし高市皇子が皇位を継承していれば、その次は高市皇子の子である長屋王に移っていくことになっただろう。

壬申の乱

天武天皇元年(672年)6月22日に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑があって湯沐令の多品治がまず挙兵した。皇子に仕える舎人には村国氏ら美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使者を東山(信濃など)と東海尾張国など)に遣わした。

大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥の倭京を急襲、占領した。近江朝廷側では、河内国守来目塩籠が大海人皇子に味方しようとして殺され、近江方面の将山部王もまた殺され、近江の豪族羽田矢国が大海人皇子側に寝返るなど、動揺が広がった。大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、近江と倭の二方面に送り出した。近江方面の軍が琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。

672年 天武1年6月24日吉野脱出~7月23日大友皇子自殺

日本書紀 天武天皇紀(上)
其近江朝、左右大臣、  それ近江朝には、左右大臣、
及智謀群臣、共定議。  及び智謀き群臣、共に議を定む。
今朕無與計事者。    今、朕、共に事を計る者なし。
唯有幼少孺子耳。    唯、幼少き子供有るのみなり。

大海人は、十九歳の高市がいながら、どうして自分には幼い子供しかいないと嘆いたのだろうか?

母方でも天智と全く血縁関係がない成人した高市が、どうして(殺されもせず)大津京に残っていられたのだろうか?

大伴吹負が、高市を騙って高市が来たと言わせたところ、近江軍が戦わないで引き上げたのは何故か?

これらの謎について
小林恵子氏は大海人皇子を高句麗の大臣盖蘇文とし、高市皇子を天智天皇の子と位置づけ説明を試みているわけです。

それに対し、高市皇子は、

皇子攘臂按劔奏言、       皇子、臂を攘りて劔を案りて奏言さく、
近江羣臣雖多、         近江の群臣、多なりといえども、
何敢逆天皇之靈哉。       何ぞ敢へて天皇の靈に逆はむや。
天皇雖獨、           天皇、獨りのみましますといえども、
則臣高市、頼神祇之靈、     臣高市、神祇の靈に頼り、
請天皇之命、引率諸將而征討。  天皇の命を請けて、諸將を引率て征討たむ。
豈有距乎。           豈、ふせぐこと有らむや。

爰天皇譽之、携手撫背曰、    ここに天皇、譽めて、手を取りて背を撫でて曰く、
愼不可怠。           ゆめ不可怠(なおこたりそ)とのたまふ。

「皇子、攘臀、案劔、奏言。」

「私、高市が神々の霊に頼り、大海皇子の勅命を受け、諸将を率いて戦えば、負けることはありません。」と腕まくりして剣を握り締め言った。

どのような神々の霊にたよったのか?自信の根拠は

1.高市皇子の側近として、最前線で活躍する三輪高市麿はこのとき16歳。
後に大神氏を名乗ることとなる彼らが九州出身の氏族か
2.大伴連吹負は計略をめぐらし、自ら高市皇子になりすまし数十騎で敵軍をよこぎり、高市軍の大軍がきたぞと叫ばします。その言葉に敵軍はちりぢりに逃げ去ったとあります。
8月25日、壬申の乱も終結し、天武天皇は高市皇子に命じて、近江方の群臣の罪状と処分を発表させます。こうして、天武天皇らは9月12日に大和に無事に戻ることができたのです。

大海人皇子は、自身が行動をおこす2日前の6月22日に、村国男依、和珥部君手、身毛広は3人で美濃国に先行するよう命じた。
彼らの任務は多品治に連絡し、まず安八磨郡を挙兵させることであった。

彼らと多品治は無事にその任を果たし、美濃の兵3千が大海人皇子のために不破道を塞いだ。このおかげで大海人皇子は東国の兵力を集めることができた。
美濃国に入った大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万の二手に分けて、一軍を伊勢国の大山越えで倭(大和国)へ、もう一軍を直接近江国に入らせることを命じた。

多品治は、紀阿閉麻呂、三輪子首、置始菟とともに大和に向かう軍を率いた。
この後で品治は別に命令を受け取り、3千の兵とともに刺萩野(たらの)に駐屯することになった。(刺 正しくは草冠がある)
刺萩野の位置については、伊賀(当時は伊勢国に属す)の北部との説が有力であるが、いずれにせよ大和 – 伊賀 – 伊勢 -美濃と続く連絡線のうち伊賀を守る位置である。

これと別に、田中足麻呂が近江と伊賀を結ぶ倉歴道を守る位置についた。
これに対して大友皇子側の将、田辺小隅は、5日に倉歴に夜襲をかけた。守備兵は敗走し、足麻呂は一人逃れた。

天武天皇12年(683年)12月13日に、多品治は伊勢王、羽田八国(羽田矢国)、中臣大島とともに、判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。
この事業は年内には終わらなかった。品治の位はこのとき小錦下であった。

天武天皇13年(684年)11月1日に、多臣など52氏は新たに朝臣の姓を授かった。
天武天皇14年(685年)9月18日に、天武天皇は皇族・臣下と大安殿で博打(博戯)をして遊んだ。このとき天皇は大安殿の中に、皇族と臣下は殿の前に位置した。多品治はこの日に天皇の衣と袴を与えられた10人の中の一人であった。
持統天皇10年(696)8月25日に、多品治は直広壱と物を与えられた。壬申の乱の際にはじめから従ったこと、堅く関を守ったことが褒められたのである。他の例からすると、この贈位記事が品治の死を意味している可能性がある。

壬申の乱の後、天武天皇は684天武13年の八色の姓(やくさのかばね)を定めます。その最高位としての「真人」に13氏が姓を賜った。
八色の姓(やくさのかばね)とは、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度のこと。

八色の姓の最高位「真人」姓を得た、13氏のうち不破の地で活躍したと思われる5氏

1.息長公・おきながのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣親王の後
2.坂田公・さかたのきみ 継体の皇子、仲王の後
3.羽田公・はたのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣王より出づ
4.山道公、やまじのきみ 応神天皇の皇子、稚渟毛二俣親王の後
5.猪名公・いなのきみ 宣化天皇の皇子、火焔王の後(為奈、為名、韋那とも)
息長系の人々が真人となっている。
壬申の乱では猪名公は近江軍側の人間だったはずですが、後年、天武天皇は壬申の功労者の一人として猪名公に真人姓を与えている。
日本書紀は、天武元年12月「是月、大紫韋那公高見薨」と伊奈鏡公高見が亡くなる記事を「壬申の乱」を締め括る最後に記載。猪名鏡公と呼ばれた高見なる人物のことです。

柿本人麻呂による挽歌 萬葉集巻第二

高市皇子の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

かけまくも ゆゆしきかも言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任したまへば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 木綿花の 栄ゆるときに 我が大君 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども

短歌二首

ひさかたの 天知らしぬる 君ゆゑに 日月も知らず 恋ひわたるかも
埴安の 池の堤の 隠沼の 行方を知らに 舎人は惑ふ
或書の反歌一首

泣沢の 神社に神酒すゑ 祷祈れども わが大王は 高日知らしぬ
右の一首は、類聚歌林に曰く、檜隈女王、泣澤の神社を怨める歌なり。 日本紀に案るに曰く、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後皇子尊薨せり。

大王と行宮。
 この挽歌の標には「高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并せて短歌」と記していますから、改めて紹介するまでもなくこの長歌と短歌は高市皇子尊への挽歌です。では、原文の「挂文 忌之伎鴨・・・和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 食國乎 定賜等」が示す相手とは誰でしょうか。正統な解釈では「大王」と「天下 治賜」の言葉から、天武天皇のこととされています。ところが、日本書紀によると壬申の乱における天武天皇の行宮は「野上の行宮」で、高市皇子の陣屋は「不破の和暫」です。また、壬申の乱での軍事権は日本書紀の「因賜鞍馬、悉授軍事」の記事にあるように天武天皇から高市皇子へ移行されていますから、日本書紀の巻二十八の記事を根拠にするならば原文の「挂文 忌之伎鴨・・・和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 食國乎 定賜等」の示す人物は高市皇子になるのではないでしょうか。

(応神天皇)の御世に、海部・山部・山守部・伊勢部をお定めになりました。剣の池を作りました。また新羅人とが渡って来ましたので、建内の宿禰がこれを率いて帰化人たちのための池として百済くだらの池を作りました。
また百済の国王照古王しょうこおうが牡馬一疋・牝馬一疋を阿知吉師あちきしに付けてたてまつりました。この阿知吉師は阿直史等の祖先です。

また大刀と大鏡とをたてまつりました。また百済の国に、もし賢人があればたてまつれと仰せられましたから、命を受けてたてまつった人は和邇吉師わにきしといい、論語十巻・千字文一巻、合わせて十一巻をこの人に付けてたてまつりました。

また工人の鍛冶屋卓素かじやたくそという者、また機はたを織る西素さいその二人をたてまつりました。