聖徳太子

馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子[4]となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。[5]

推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。

推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある

生母
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、生年不詳 – 推古天皇29年12月21日(622年2月6日))は、飛鳥時代の皇族。欽明天皇の第三皇女。母は蘇我稲目の娘・小姉君。同母弟に穴穂部皇子・崇峻天皇がいる。穴太部間人王、孔部間人公王、間人穴太部王、鬼前太后とも称す。

聖徳太子の生母として知られる。
「穴穂部」の名は、石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)で養育されたことに由来すると考えられている[2]。

用明天皇の皇后。
厩戸皇子(聖徳太子)・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子を産む。

用明天皇崩御後は、用明天皇の第一皇子・田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し佐富女王(長谷王妃、葛城王・多智奴女王の母)を産んだ(『聖徳太子平氏伝雑勘文』 上ノ三 上宮太子御子孫竝后等事条 所引にある『上宮記』逸文に「多米王 父ハ用明 母ハ蘇我女也 父天皇崩後 娶庶母間人孔部王生兒 佐富女王 一也」とある)。

また、穴穂部間人皇女にとっての長子である聖徳太子は敏達天皇3年1月1日(574年2月7日?)の出生で、末子である佐富女王は用明天皇3年(588年?)以降の出生であることから、女性の出産年齢を考えると、550年代の生まれであると推定できる。

奈良時代に原形が作られ平安時代の中期に現在の形に仕上げられた『上宮聖徳法王帝説』や、747年(天平19)に法隆寺が作成した『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によれば、聖徳太子は在世中に7つの寺を建立したとされている。

実際の聖徳太子が造営したのは斑鳩寺(=法隆寺)だけであり、後は聖徳太子にゆかりがあった人々によって建てられたものである。7つの寺とは、1.法隆寺(法隆学問寺)、2.四天王寺、3.中宮寺(中宮尼寺)、4.橘寺、5.蜂岡寺(広隆寺)、6.池後寺(池後尼寺、法起寺)および7.葛木寺(葛城尼寺)である

■葛木尼寺は葛城臣烏那羅が建立した氏寺?
 『上宮聖徳法王帝説』は「葛木寺、葛木臣に賜う」と記している。『聖徳太子伝暦』には、同じ内容で蘇我葛木臣に賜ったと記す。しかし、実際は蘇我葛木臣が氏寺として建立したものであろう。葛木寺は尼寺だったようだ。聖徳太子に関連づけた創建説話を持つ寺院は、なぜか尼寺が多い。7寺のうち4つが尼寺である。
 『伊予湯岡碑文』と呼ばれている碑文には、596年(推古4)聖徳太子が今の道後温泉に遊んだことを記しているが、そのとき供として同行した人物に、恵慈と葛城臣の名がある。
彼の本名は葛城臣烏那羅(おなら)ではなかろうか?
その名はたびたび『日本書紀』にも登場する。587年、蘇我の馬子が廃仏派の物部の守屋を討ったとき、討伐軍の中に彼の名がある。また、591年(崇峻4)新羅討伐軍が組織されたときは、大将軍の一人として二万余の軍勢を率いて築紫に出兵している。おそらく、蘇我の一氏族である蘇我葛城家の族長として、また聖徳太子の股肱の臣として推古朝を生きた武人であっただろう。

6世紀のヤマト王権(大和朝廷)の大連(おおむらじ)の地位は大伴氏と物部氏に与えられてきましたが、欽明天皇の時の540年に大伴金村が上述した『任那四県の割譲問題』で失脚すると、『物部麁鹿火(あらかい)‐物部尾輿(おこし)‐物部守屋(もりや)』が大連を担いました。物部氏は欽明と敏達に続く用明天皇の時代まで物部守屋が大連を務めます
物部氏の略系譜では『饒速日命‐大連目‐荒山‐尾輿‐守屋』というように血統が続いていましたが、穴穂部皇子(あなほべのみこ)を擁立した物部守屋は蘇我氏の軍勢(聖徳太子も参加していた)によって滅亡させられました。物部氏の略系譜には、途中で巨勢氏の系譜が紛れ込んでいるという不思議な面もあります。

敏達天皇(在位572-585)は任那(加羅)の復興を懸命に目指した天皇ですが、蘇我氏(崇仏派)と物部氏・中臣氏(排仏派)の仏教論争でははじめ排仏派の立場に立っていました。敏達天皇から仏教排除の認可を得た物部氏と中臣氏は、仏塔を破壊して仏像を焼き捨てましたが、その後に天然痘(疫病)が流行して敏達天皇がその疫病で死去します。その為、疫病の流行は、崇高な教えである仏教を不当に迫害した罰であるという世論が高まりました。敏達天皇の後を聖徳太子の父である用明天皇(在位585-587)が継ぎますが、高齢で病弱だった用明天皇は政治的指導力を発揮できず蘇我氏と物部氏の政治対立はいっそう深まりました。

欽明天皇と小姉君(蘇我稲目の娘)の間に生まれた穴穂部皇子(あなほべのみこ)は『天皇として即位したい』という野心を持ち、用明天皇の時代に敏達の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのこうじょ, 推古天皇)と強引に結婚しようとしましたが、三輪君逆(みわのきみさかう)の反対によってできませんでした。その三輪君逆を物部守屋が殺害したことで穴穂部皇子と物部守屋との協力関係ができあがり、蘇我馬子は額田部皇女(推古天皇)と結びつきました。

587年に、蘇我馬子は物部氏が担いだ穴穂部皇子と宅部皇子(やかべのみこ)を殺害して、蘇我氏と物部氏は直接対決することになり最終的に蘇我氏の連合軍が勝利しました。この戦いによって物部守屋を当主とする物部一族(宗家)は滅亡し、蘇我氏に味方した額田部皇女・聖徳太子・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)・竹田皇子(敏達天皇と額田部皇女の子)などが次期天皇の有力候補となりました。用明天皇の後を継いだのは用明の異母弟(蘇我氏の女系)である泊瀬部皇子で崇峻天皇(在位587-592)として即位しましたが、上記したように蘇我馬子と対立して暗殺されることになります。崇峻天皇の後に即位したのは、4世紀以降の大和朝廷において初の女帝となる第33代の推古天皇(在位592-628)でした。

「間人」地名
京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名
穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せ、宮に戻る際に自分の名を贈ったが、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは畏れ多い」として、皇后が(その地を)退座したことに因み「たいざ」と読むことにしたという。ただし、『日本書紀』『古事記』などの文献資料には穴穂部間人皇女が丹後国に避難したとの記述はない。

豊橋市 多米郷
多米連(むらじ) 多米という地名は、この地を支配した族長の名前と関連があるのかもしれない。
 9世紀初めの「新撰姓氏録」に、成務天皇の代に、小長内命という者が大炊(おおい)寮に仕えて多米連の姓(かばね)を賜った、とある。大炊というのは食糧管理が仕事なので、多米となったのかもしれない。これは350年頃と推定される。
 『日本書紀』『続日本紀』にも田目皇子・田目皇女や田目宿祢(すくね)、多米王・多米連福雄の記述があり、東三河が穂の国といわれた頃、この地は多米部と呼ばれる部族の支配を受けていたものと思われる。
徳合長者 もう一つ多米の地名については徳合長者の伝説も切り離すことはできない。
 崇峻天皇(587~592)の頃、滝ノ蔵人正時清という者が多米村の東に住んで、滝山長者と名乗っていた。時清は、河内国で聖徳太子の説法を聞き、太子から「徳合長者」という名を賜り、大日如来像をもらい受けて帰ってきた。
 2代目の長者兼成は、行基の作った千手観音などを滝山に祀った。その後、この土地がますます開けてコメが多くとれたので、村の名前を「多米」と変えたという。

法王帝説に、戌午の年(598、推古6年)小治田天皇、上宮王に請はせて、勝鬘経を講かしむ、とある。 三河多米郷の徳合長者が、聖徳太子の説教を聴きに行ったという伝承があることから、598年の勝鬘経は多米王・聖徳太子が東三河で講じたものであろう

多米連”(タメ ムラジ)とは、新撰姓氏禄に「摂津国神別(天神)  神魂命(カミムスヒ)五世孫天比和志命(アメノヒワシ・天日鷲命)の後也」

多米神社
 当社は、古く摂津国住吉郡寺岡村の西にあったとされ、旧鎮座地に立つ石碑・『延喜式内 多米神社之趾』の裏面碑文(平田盛胤1863–1946-撰文)によれば、
 「この地一帯を領していた多米連は神魂命五世の孫天日鷲命の後裔である。世々、宇迦御魂神を祀って大炊寮に仕えて供御等を献じていたが、成務天皇の御世に良い御供米であることが賞されて多米連の姓を賜った。

『上宮記』と『上宮聖徳法王帝説』には、聖徳太子の父の用明天皇が亡くなった後、聖徳太子の母の、皇后であった穴穂部間人皇女が、用明天皇の腹違いの子の多米王に嫁いで、佐富女王という子供を作ったということなのです。

多米王の母は、日本書紀では石寸名(イシキナ)、伊志支那郎女(イシキナイラツメ)となっている。

蘇我 石寸名(そが の いしきな、生没年不詳)は、飛鳥時代の豪族。蘇我稲目の娘、用明天皇の妻。伊志支那郎女とも表される。
用明天皇元年1月1日(586年1月26日?)、甥である用明天皇の嬪となり、田目皇子(別名・豊浦皇子)を生んだといわれる。兄弟姉妹に蘇我馬子・堅塩媛(用明天皇の父欽明天皇の妃、用明天皇・推古天皇の母)・小姉君(欽明天皇の妃、崇峻天皇の母)がいる

春日神社とこの上之宮遺跡の位置関係を地図で確認すると、上之宮遺跡は春日神社の東南にあり、南に位置するとはちょっと言い難い。このため、磐余池は桜井市谷あたりにあったとし、双槻宮の所在を石寸 山口神社あたりに求める説もある。この神社は桜井市の市街地の南に位置する阿倍山丘陵の北の端に立っている。山口神社の前には菰池(こもいけ)があり、その池を見下ろす台地で、最近双築(なみつき)古墳が発見された。双築古墳からは、桜井市の市街地を一望することができる。

 『記・紀』で異っているのは2名の皇子の母の名前です。
 第一皇子とみなされる田目(ため)皇子(生没年不詳)については、母が『紀』の石寸名(いしきな)に対して、『記』では意富芸多志比売(おほぎたしひめ)で、『上宮聖徳法王帝説』(平安初期。以下『法王帝説』)の伊志支那になります。
 また当麻氏の祖になった麻呂子皇子(当麻皇子。『記』の当麻王)の母が、『紀』では葛城磐村の娘の広子(ひろこ)であるのに対して、『記』が飯女之子(いいめのこ)という実名を伏せたと思われる名前にしています。『法王帝説』では麻呂古王です。
 石寸名とされる意富芸多志比売の「意富」は、同じく『記』に記される意富富杼王(おおほどのおおきみ)につながるよう思われます。この人物は「おおど」(男大迹、袁本杼)と呼ばれた第26代継体大王(在位:507年~531年)の兄あるいは祖父と考えられますので、石寸名の母は父の稲目が大王家と姻戚を結ぶために結婚した、継体系の娘だった可能性が十分に考えられます。
 意富に続く「芸多志比売」は義理の姉の堅塩媛(『記』の岐多斯比売)とほとんど同じであるため、そこに名前の混同があったとする見方もあります。しかし、混同があったとしたら『記』には石寸名が抜けていることになりますので、これは「意富」を付けられた芸多志比売がいたとみなすのが妥当だと思います。
 『紀』はまた石寸名の妹に小姉君(おあねのきみ)がいたとしますが、『記』の小兄比売は意富芸多志比売の姨(おば。伯母)になっています。
 尚、この姉妹の中で君がつくのは小姉君だけで、倭で「君」を称された氏族は三輪君と鴨君だけです。

穴穂部間人皇女が再婚した田目皇子の別名が、「豊浦(とゆら)皇子」だったことです。
 のちに豊浦(現在の明日香村豊浦。甘樫丘の西部から北部に隣接する地区)に居を構えた蘇我蝦夷が「豊浦大臣」と呼ばれたことから、田目皇子も豊浦の地で養育された可能性が高いと考えられます。

 子については、『法王帝説』は、「聖王庶兄多米王 其父池邊天皇崩後 娶聖王母穴太部間人王生児佐富女王也」つまり、聖王(聖徳太子)の庶兄(同父の異母兄)多米王は聖王の母の穴太部(穴穂部)間人王を娶って「佐富女王」(佐富皇女。さほのひめみこ)を生んだ、と記しています。これと同内容の記述が、「多米王 父用明母蘇我女也 父天皇崩後 娶庶母間人孔部王 生児 佐富女王一也」という、『上宮記』逸文に残されています。
 またその別の逸文は、佐富女王は長谷(はつせ)王に嫁いで葛城王と多智奴(たちぬ)女王を生んだ、と記しています。長谷王は『紀』に記される泊瀬王(泊瀬仲王)で、厩戸皇子と膳部菩岐々美郎女との間の子で山背大兄皇子の異母弟です。

古事記に
橘豊日命は、池邊宮に住んで、三年間天下を治めた。この天皇が稻目宿禰大臣の娘、意富藝多志比賣を娶って生んだ子は多米王。<一人である。>また庶妹の間人穴太部王を娶って生んだ子が、上宮之厩戸豊聰耳命、次に久米王、次に植栗王、次に茨田王。<四人である。>また當麻之倉首比呂の娘、飯女之子を娶って生んだ子が當麻王、次に妹の須賀志呂古郎女