沖ノ島祭祀は、王権主催の祭祀であり、4世紀後半に開始され、5世紀後半には、現地においてそれに中心的に関わる集団が、津屋崎古墳群の造営集団に固定化していったと推定されている。
宗像氏は この頃からあらわれる。
「ムナカタ」のウヂ名と「君」のカバネが賜与されたのは、「磐井の乱」後のことと考え られる。孝徳朝の立評に際しては、初代宗像評の官人に任じられ、尼子娘と大海人皇子との婚姻を契機に中央に も勢力を拡大させた。8世紀には、宗像郡大領と宗像神主とを兼帯し、強固な地域支配を行った。
記紀によれば
アマテラスは、スサノヲに、「五男神 は私の物(珠)を物実にして生まれたから私の子で あり、三女神は汝の物(十拳剣)を物実としてとし て生まれたから汝の子である」と告げた。多紀理 毗売命は胸形の奥津宮に、市寸嶋比売命は胸形の 中津宮に、田寸津比売命(多岐都比売命)は胸形の 辺津宮に鎮座する。この三柱の神は、胸形君らが 奉斎する神である
三女神と氏族
『記』によれば、三女神の一人である多紀理毗 売命は、のちにオホクニヌシの妻となり阿遅鉏高日子 根神(迦毛大御神)と高比売命(下光比売命・下照比売) を生み、その高比売命(下照比売)は、天若日子の妻に なったとされている。
いずれの伝承も、アマテラスとスサノヲのウ ケヒによって三女神が生まれたということでは一致し ている
アマテラスとスサノヲとのウケヒによっ て生まれたとされるのは、三女神のほかに五男神があ るが、五男神の筆頭であるアメノオシホミミは、天孫 降臨神話の主人公であるホノニニギの父とされる神で ある。また五男神の一人のアメノホヒは、出雲臣・土 師連ら多くの氏(ウヂ)の祖とされ、アマツヒコネも、 凡川内国造・額田部湯坐連・山代国造ら多くのウヂの 祖とされる。
三女神を奉斎する氏族が、宗像氏・水沼氏ら 筑紫の豪族とされている。
『紀』の伝承には、宗像三女神の祭祀を王権が主催し たことをうかがわせる伝承も存在する。まず、応神天 皇41年2月是月条には、次のような記事がみえる。
是月、阿知使主等、自レ呉至二筑紫一。時胸形大 神、有レ乞二工女等一。故以二兄媛一奉二於胸形大神一。 是則今在二筑紫国一、御使君之祖也。(後略)
ここにいう兄媛は、縫工女を求めるために「呉」(中 国南朝)に派遣された阿知使主らが、「呉王」から与え られたとされる4人の工女(兄媛・弟媛・呉織・穴織) の一人であり(応神天皇37年2月朔条)、その兄媛が、「胸形大神」の求めにより大神に奉られ、それが筑紫国 の御使君の祖であるというのである。これとよく似た 内容の記事は、雄略天皇14年正月戊寅条・同3月条に もみえており、そこでは、身狭村主青らが「呉」から将 来した手末才伎(漢織・呉織・衣縫の兄媛・弟媛)のう ちの兄媛が、大三輪神に奉られたとされている。
御使君氏はほかにはみえないが、全国的に設置され た御使部(三使部)の筑紫における伴造氏族(地方伴造) とみて間違いないであろう。御使部を統括する中央の 伴造氏族は御使連氏であり、この御使連氏は、神護景 雲2(768)年に御使連清足らが朝臣の姓を賜り(『続日 本紀』神護景雲2年9月乙未条)、『新撰姓氏録』左京皇 別上に「御使朝臣。出レ自二諡景行皇子気入彦命之後一也。
(後略)」とみえる氏(ウヂ)である。筑紫の御使君氏は、 これとは別のウヂであり、君の姓(カバネ)を称するこ とからすると、宗像氏と同系のウヂである可能性が高 い。
大神 朝臣同祖。吾田片隅命之後
宗像氏のカバネは初め君であったが、その本宗 は、天武天皇13年(684)に朝臣を賜った。系譜につい ては、『新撰姓氏録』右京神別下の宗形朝臣条に「大神 朝臣同祖。吾田片隅命之後也」、同河内国神別の宗形 君条に「大国主命六世孫吾田片隅命之後也」とみえる。
527年(継体天皇21年)に倭国筑紫王朝内に王位継承争いが起き、「葛子」を擁立して肥国の王(肥君)が蜂起し、これに胸形(宗像)と大和が呼応した。
大和王朝は筑紫王家の王位継承争いに乗じて、その壊滅を目指すが、結局は糟屋(粕屋)の地を得るに止まった。
「磐井の乱」以降は、肥(火)国王の傀儡政権となった筑紫王朝であったが、朝鮮半島政策は、以前と同様に親「百済」であり、新羅とは敵対し続けた。大和王朝の新羅との交易は、やはり沖ノ島ルートを使うしかなく、特に新羅船が交易品を携えて、九州北岸に近づくことは、大和王朝としても充分に警戒したに違いない。
一方、胸形(宗像)王は、「磐井の乱」以降は倭国筑紫王朝内で、その地位は格段に向上し、やがて筑紫王家とも姻戚関係を結び、640年頃には、胸形(宗像)系の筑紫王を輩出するに至った。これが「大海人(おおあまと)」で、後に「白村江の戦い」で中国唐軍と戦った「薩野馬(さつやま・さちあま)」であり、672年の壬申の乱を経て「天武天皇」となる。
日本書紀は「大海人皇子」は、「中大兄皇子(天智天皇)」の弟だと記しているが、これは天武天皇の皇位継承を正当化する意図によるものである。
宗像の名の起こりを記した風土記逸文があって、そこに「大海命(おおあまのみこと)の子孫は、今の宗像朝臣(むなかたのあそみ)らがこれである。云々」というのがある。この「大海命(おおあまのみこと)」が日本書紀にいう「大海人皇子(おおあまとみこ)」のことであり、つまり「天武天皇」である。
天武天皇の第一皇子で、「壬申の乱」の将軍となって戦う高市皇子(たけちのみこ)の母が、「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」であると日本書紀が記している。この「胸形君徳善」が、宮地嶽(みやじだけ)古墳の主であろうと推測されているが、古墳の規模と副葬品の豪華さは、明らかに天皇陵を示唆している。
海北道中の神
今日においては、沖津宮(沖ノ島)に田心姫神、中津 宮(大 島)に 湍 津 姫 神、辺 津 宮(田 島)に 市 杵 嶋 姫 神 を 祭っているが、これは、『紀』本文の出生順(田心姫→ 湍 津 姫→市 杵 嶋 姫)と、『記』お よ び『紀』の 第 二 の 一 書 に鎮座地を掲げる順(奥津宮・遠瀛→中津宮・中瀛→ 辺津宮・海浜)とを対応させたものと考えられる。
欽明天皇15年12月 条の百済の聖明王の上表文中に、「以斯羅無道、不レ畏二 天皇一、与レ狛同レ心、欲レ残二滅海北彌移居一。臣等共議、 遣二有至臣等一、仰乞二軍士一、征二伐斯羅一」とみえる。 ここにいう「海北彌移居」は朝鮮半島におかれたミヤケ、 いわゆる「任那日本府」を指しており、「海北」は朝鮮半 島を指す語として用いられている。また、『宋書』倭国 伝に載せられる倭王武の上表文には、「東征二毛人一五 十五国、西服二衆夷一六十六国、渡平二海北一九十五国」 とみえ、ここにいう「海北」も、朝鮮半島を指している。
奇妙な話
応神天皇41 年2月是月条において、兄媛が宗像神に奉られた。
履中天皇5年3月朔条から10月甲子条にかけ ては、次のような記事がみえる。
五年春三月戊午朔、於二筑紫一所居三神、見二于 宮中一、言、何奪二我民一矣。吾今慚レ汝。於是、禱 而不レ祠。(中略)冬十月甲寅朔甲子、葬二 皇妃一。 既而天皇、悔下之不レ治二神祟一、而亡中皇妃上、更求二 其咎一。或者曰、車持君行二於筑紫国一、而悉校二車 持部一、兼取二充神者一。必是罪矣。天皇則喚二車持 君一、以推問之。事既得実焉。因以、数之曰、爾 雖二車持君一、縦検二校天子之百姓一。罪一也。既分二 寄于神一車持部、兼奪取之。罪二也。則負二悪解除・ 善解除一、而出二於長渚崎一、令二祓禊一。既而詔之 曰、自レ今以後、不レ得レ掌二筑紫之車持部一。乃悉 収以更分之、奉二於三神一。
筑紫に派遣した車持君が、三女神の「充神者」(神戸)となっていた車持部を我がものにしたため、神の怒りをかったようです。天皇は車持君の咎を責め、以後は筑紫の車持部を管掌してはならないとし、三女神に賜った。
宗像大社
辺津宮・中津宮・沖津宮の、この3宮を総称して 「宗像大社」 と呼ばれています。
縫殿(ぬいどの)神社
鎮座地 福岡県福津市奴山(ぬやま)
応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から兄媛、弟媛、呉織、穴織の4名の媛が織物、縫物の進んだ技術日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
祭神は、この4名の媛と応神天皇、神功皇后、大歳神でこの神社は日本最初の裁縫の神様であり、この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます。
『福岡県神社誌』によると「宗像末社百八神の内にて此兄媛此地に於て専縫をし給ひしに依て、此兄媛を産土大神に祭り、又同時に乞渡し給へるに依て弟媛呉織穴織を合せ祭り且神功皇后の御徳に依て加羅に通ふ事初まり、応神天皇の求め渡し給へる御功を崇め尊みて共に斎祭りたり」とあり。
穴織宮伊居太神社(いけだじんじゃ)
大阪府池田市綾羽にある神社である。 呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる、織姫・穴織媛(あやはとりのひめ)と、応神天皇、仁徳天皇を祀っている。正式名称は穴織宮伊居太神社。
祭 神:穴織大明神 応神天皇 仁徳天皇
説 明:栞によれば
当時筑紫の領主、胸形大神(宗像神社の祭神)のねんごろなる乞い により断るを得ず兄媛を置き(筑紫御使君の祖先)三媛を伴い同年二月摂津国武 庫浦に着船。
境内の中にお祀りしてある猪名津彦神社の祭神 について述べる必要がある。
猪名津彦神社の祭神は、阿知使主(あちのおみ・下坂神)及びその子都加使主 (つがのおみ・岩坂紙)(武将坂上田村麿はこの子孫なり)の二神であり、父阿知使主は漢(中国)の霊帝四代目の曾孫である。 中国の昔、漢より魏へと政治の実権が移り、漢の子孫は追われて、帯方と言われ ていた北中国から北鮮の辺りまで神牛と云う占いによって、たどりつき、部下と共にここに宮城をつくり住むことにしたのである。ところが魏の圧力がここでも次第に強くなり危険になってきた。そこで阿知使主は一族の者に、『若しこのままこの国にいたならばおそらく一族部下は滅ぼされるであろう。しかし聞くとこ ろによれば東国(日本)に聖主(立派な天皇のこと)があるということである。 私はこの天皇に仕えるのが最も良いことであると思う』と伝えて自分の子都加使主、その妹の迂興徳(うこうとく)と、部下七姓(七つの色々の姓の人)の十七県の部下たちをつれて応神天皇二十年に日本に渡り気化した。応神天皇は、この一族に大和の高市郡檜前(ひのくま)村を領地として与え、こ こに住ましめられた。 阿知使主は『帯方という国には男女 共に才芸の優れたものが多く、最近では高麗、百済(北朝鮮)の辺りを流浪し、不安な毎日を送っています。これらのものたちを使いを出して日本に呼び寄せて いただきたい。』と天皇に懇願したので天皇は早速八腹氏に命じてこれを迎えに やられ連れ帰って日本の国民にされた(日本に今残る漢氏の先祖である)。 天皇は更に織物、衣服などの不完全なることに気づかれ、三十七年に阿知使主・ 都加使主に命じ中国に渡らせ機織(きしょく)の師、裁縫の師をもとめしめられ 四十一年に裁縫師兄媛、弟媛、及び穴織(あやは)、呉服(くれは)の機織の師 四女を伴い帰国した。
たまたま、応神天皇が崩御せられたので仁徳天皇にお仕えすることになり天皇は その功を賞して新たに猪名の津(現在兵庫県川辺郡及び伊居太、豊中一円)を領 地として与え、ここに穴織、呉織の機殿、縫殿を建て、全国の婦女子を集めて技 術を教育し又この地の治安、行政の任に当らしめられた。この地名にちなみ、猪名津彦の神と申し上げる。次代履中天皇皇太子の折、住吉皇子が反乱を起こし、 皇太子を殺いたてまつろうとしていることを知り、阿知使主は平群木莵(へぐり のつく)とともに難を皇太子に告げ、馬にて逃れ禍をさけたので、後、皇太子が 皇位につかれた時、その功により蔵の官をさずけられ、新たに領地を賜った。 都加使主は、仁徳天皇三十一年四月十一日、父阿知使主は、反正天皇三年四月八 日に長逝され、同年二神の功を賞し、更正まで祀らしめんとして社を建立され猪名津彦神社と命名された。
(漢・秦・大蔵・丹波・田村・坂上等の姓の人はみなこの二神の子孫である) 以上阿知使主、都加使主二神について
新原・奴山古墳群
福津市の勝浦地区をはじめ、国道495号線をはさむ一帯に広がる「新原・奴山古墳群」は、前方後円墳が5基、円墳42基、方墳1基と県内でも有数の規模を誇るもので、古墳時代後期につくられたものとされ、特に中心的存在の22号墳は全長88メートルと大きく、その周囲に張り巡らされた溝や堤防の跡は当時の権威を感じさせるものとして、古代の有力豪族・宗像君一族の墓ではないかと言われています。一部の古墳からは鉄の兜や鎧、刀剣など様々な鉄製品やそれらを作る工具が出土したほか、21号墳で発見された県指定文化財の「新原の百塔板碑」は特に要注目です。
胸形君一族の墳墓群――津屋崎古墳群
勝浦峯ノ畑古墳
勝浦井ノ浦古墳とともに勝浦古墳群を構成する5世紀中頃に造られた全長100mの前方後円墳です。後円部中央に横穴式石室(よこあなしきせきしつ)があります。石室の中央に2本の石柱が立って天井を支えています。このように石室内に石柱をもつ古墳は国内には他にありません。朝鮮半島北部にあった高句麗(こうくり)の古墳に類例があり、海を介して宗像地域と高句麗の文化交流があったことをうかがえます。
新原・奴山古墳群(しんばる・ぬやまこふんぐん)
5世紀から6世紀にかけて造られた古墳群です。津屋崎古墳群の中でも最も古墳が集中しています。東西約800mの台地上に前方後円墳5基、円墳35基、方墳1基の計41基の古墳を見学することができます。
宮地嶽古墳(みやじだけこふん)
宮地嶽古墳は宮地嶽神社の奥の院、不動神社の神殿となっています。7世紀前半から中ごろに造られた円墳です。内部に国内で2番目の長さである全長23mの横穴式石室があります。副葬品は金銅製(こんどうせい)の馬具・金銅製冠・金銅装頭椎大刀(こんどうそうかぶつちのたち)・蓋付銅碗(ふたつきどうわん)・銅盤・緑瑠璃丸玉(みどりるりまるだま)・長方形緑瑠璃板があります。緑瑠璃は鉛ガラスの事です。金銅装頭椎大刀は、刀の柄の頭と鍔(つば)等部分的にしか残っていませんが復元すると長さ2.4mの巨大なものであり、実用品ではなく儀式等で使われたと考えられています。
これらの副葬品は唐草文などの装飾が施され、国際色豊かな大変豪華なものです。国宝に指定されており、九州国立博物館に展示されています。
被葬者は天武天皇(てんむてんのう)の第一皇子である高市皇子(たけちのみこ)を生んだ尼子娘(あまこいらつめ)の父である胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)とする説もあります。
手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん)
津屋崎古墳群の最南端に位置する7世紀前半の古墳です。石室の長さは10.8mと宮地嶽古墳より小型ですが構造が類似します。一辺が2~4m程度ある巨大な板状の玄武岩を用いて石室を造っています。
江戸時代の地誌には石室が開いていて、不動尊を安置したことなどが記されています。これまで出土品は全くありませんでしたが、最近の発掘調査で金銅製馬具や新羅土器、沖ノ島祭祀とのつながりをうかがわせる須恵器などが発見されました。
「神郡」制度は、681年に天武天皇が律令制定を命ずる詔の発令によって、701年に完成した「大宝律令」によるものと考えられるが、「神郡」の文献初見は、「日本書紀」持統天皇6年(692年)であるので、「神郡」の制定は天武天皇(686年崩御)の存命中に行われたと思われる。
「『令集解』所収養老7年(723年)太政官処分」で全国に8神郡(筑前国宗形郡・伊勢国渡相郡・伊勢国竹郡・安房国安房郡・出雲国意宇郡・常陸国鹿島郡・下総国香取郡・紀伊国名草郡)を確認することができる。
また、「続日本紀」文武天皇2年(697年)に、筑前国宗形郡と出雲国意宇郡に、郡司の同一氏族による連任を許す記事があって、養老7年(723年)までには他の6神郡も同様の記述があるが、特に宗像氏族と出雲氏族には特別の配慮がなされたことが窺えるのである。