埼玉の稲荷山鉄剣の謎

「埼玉稲荷山古墳」出土鉄剣について
(表文)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比[土危]其児多加利足尼其児名弖巳加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏文)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉根原也

鉄剣には制作者である乎獲居臣に至る8代の系譜が刻まれている
意富比[土+危]-多加利足尼-弖已加利獲居-多加披次獲居-多沙鬼獲居-半弖比-加差披余-乎獲居臣

オオヒコータカリノスクネ-テミカリワケ-タカヒジワケ-タサキワケ-ハテヒ-カサヒヨ-オワケノオミと読むのが通説である。

乎 獲居(をわけ)、意富比垝(おほひこ)、多加利(たかり)の足尼(すくね)、弖已加利獲居(てよかりわけ)、多加披次獲居(たかはしわけ)、半弖比(はて ひ)、加差披余(かさはよ)、獲加多支鹵(わかたける)大王、斯鬼(しき)の宮、

『古事記』や『日本書紀』 にでてくる人物に近い名前が見えてくる。「意富比垝」は『古事記』では「大毘古命」(『日本書紀』では「大彦」)である。「獲加多支鹵」は「大長谷若建 命」(『日本書紀』では「大泊瀬幼武天皇」)であろう。大長谷若建命「オホハツセワカタケルノミコト」とは雄略天皇の和名である。雄略天皇という漢風の名 前は『古事記』にも『日本書紀』にもまだ現れていない。天皇の名前が仁徳とか雄略というように、漢風諡号で呼ばれるようになったのは後のことである。この 系譜には比垝、足尼、獲居など身分的呼称が含まれている。比垝は彦、足尼は宿禰、獲居は「別」あるいは「幼」であるとされている。

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大王
おおきみは倭国での「大王」の読みである。
この大王で「おおきみ」というのは一般的に、5世紀後半の稲荷山出土の鉄剣の銘文に、「ワカタケル大王の世」とあるので、これが最古とされるされてきたというのだが、和歌山の隅田八幡宮が所蔵していた(常は東京国立が借りている)人物画像鏡(隅田鏡)に「大王」とあり、書かれている内容はほとんど同時代
らしい。どちらが古いか?
作られた時代は鏡の型式や銘文の文字から見て、稲荷山鉄剣より隅田鏡が古そうですね。

昭和53年、稲荷山古墳から出土した鉄剣を調査していた元興寺文化財研究所は、この錆びた剣にレントゲン線を照射し、錆びの下にあった115の金文字を発見した。現物はチッソガスで密封したケースに納められ、資料館に展示されている。

5世紀には稲荷山鉄剣の刻印にみられるように日本列島で漢字が使われていたことは明らかであり、5世紀にはすでに史(ふひと)によって漢字で記録 され、8世紀に『古事記』や『万葉集』が成立するとそれらの記録をもとに載録された可能性がある。

9基の古墳の内最も古いのが稲荷山古墳である。5世紀後半に築造されたと推定されている。金錯銘鉄剣は、出土時にはサビだらけで誰もここに金で文字が刻まれているとは想像もしなかった。出土から10年後、サビの進行がひどく鉄剣は奈良の元興時文化財研究所に、サビ防止処理の為委託された。その処理中、キラリと刀剣の一部が輝きレントゲン写真にくっきりと115文字が浮かび上がった、という訳である。 1500年を経てよみがえった、まさに「世紀の大発見」だった。この時発見された文字の中の 「獲加多支歯大王」がワカタケルだいおうと解読され、以前発見されていた 熊本の江田船山古墳出土の銀象嵌の太刀も同じ文字であることがわかった。これにより、ワカタケル大王(雄略天皇にあたるとされている:5世紀後半)の時代には、大和朝廷は既に九州から関東までをその影響下(支配下?)に置いていた事が推定されるに至ったのである。

金文字で書かれた115文字の内容は次の通り。資料館の説明板による。

(表面)
辛亥の年 7月に記す 私はヲワケの臣 いちばんの祖先の名はオホヒコ その子はタカリノスクネ その子の名はテヨカリワケ その子の名はタカヒシワケ その子の名はタサキワケ その子の名はハテヒ
(裏面)
その子の名はカサヒヨ その子の名はヲワケの臣 先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として大王に仕え今に至っている ワカタケル大王(雄略天皇)の役所がシキの宮にある時 私は大王が天下を治めるのを補佐した この何回も鍛えたよく切れる刀を作らせ 私が大王に仕えてきた由来をしるしておくものである

辛亥の年( 西暦471年) 。獲加多支鹵大王。寺(役所)在斯鬼宮(斯鬼は奈良県磯城郡、初瀬朝倉宮があった所) 。等の文字からワカタケル大王は雄略天皇とされている。
また、それ以前に熊本の江田船山古墳から発掘された太刀にも同じような銘があったが、こちらは文字の一部が欠けており判読できなかったが、稲荷山古墳の鉄剣が出たところから、同じワカタケル大王と推定されている。
 江田船山古墳の太刀銘 「獲□□□鹵大王」

これらのことから見て、当時の大和朝廷は、九州から関東まで相当広く治世下においていたものと思われる。その大王の親衛隊長を勤めていただけに古墳の大きさもなるほどとうなづける。

金錯銘鉄剣をつくらせたのは乎獲居臣である,
3稲荷山古墳の被葬者は生前この鉄剣を持っていた.
鴻巣市の新屋敷遺跡で,稲荷山古墳出土と同型式の土器が榛名山の火山灰に覆われていること。
年代順には
獲加多支鹵大王寺が天下を治めていたとき(あるいはその直後)の辛亥の年に金錯銘鉄剣がつくられた,
稲荷山古墳の被葬者が死んだ,
榛名山が噴火した.
となります。
…….
1意富比垝 おほひこ
2多加利足尼 たかりのすくね
3弖已加利獲居 てよかりわけ
4多加披次獲居 たかひ(は)しわけ
5多沙鬼獲居 たさきわけ
6半弖比 はてひ
7加差披余 かさひ(は)よ
8乎獲居臣 をわけのおみ
3人の別がいます。

上祖の意富比垝
第八代孝元天皇と内色許売命(うつしこめのみこと)の子、大毗古命(大彦)と同一人物かと思われます。

古事記によると、この人物は崇神天皇の御世に高志道(北陸道)に派遣され、まつろわぬ人々(服従しない人々)を平定したとされてます。また、この大毗古命は山代の幣羅坂(京都府木津川市市坂小字幣羅坂)で、予言をする少女(巫女)に出会い、建波邇安王(たけはにやすのみこ)が反乱を起こそうとしていることを、崇神天皇に伝えたとある

この金錯銘鉄剣の意富比垝が大毗古命なのだとする根拠はもうひとつ。それは古事記に記されている、大毗古命の子の名前です。大毗古命の子の名は、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)。阿倍臣等の祖先となっています。

タケがあり、別がついているので
….

辛亥年について
稲荷山鉄剣銘文に記された辛亥年が471年か、531年かの議論です。
通説では、471年獲加多支鹵大王=雄略説です。

年代推定
まず注目されたのは, 『辛亥年』 の西暦471年に 『獲 加多支鹵大王』 は大泊瀬 (オオハツセ) 稚武 (ワカタ ケ) 天皇, すなわち雄略天皇と比定された. この天皇 の在位は456~479年で時期は一致する

1) 115文字の中ほどにある「ワカタケル大王」を雄略天皇(21代)と考える.
2)中国の『宋書』に,武の遣(つか)いが476(478?)年に来たとある.
3)武は雄略天皇だと考える.
4)だから,鉄剣の「辛亥年」は411でも531でもなく471年だ.

銘文から

鉄剣銘に「斯鬼宮」
古事記に欽明の宮として、「師木島大宮」
日本書紀では、「磯城嶋金刺宮」となっているから、欽明天皇の時代の説あり。7月14日「都を倭国の磯城の郡の磯城嶋に遷す。よりて号けて磯城嶋金刺宮とす。」とあり、銘文「辛亥年七月」に付会する事に注目しているわけです。

意冨比[土危](オオヒコ)は普通、孝元天皇の御子「大彦命」いわゆる四道将軍の一人と考えられています。

稲荷山古墳の被葬年代

稲荷山古墳の調査報告書によると、付近には住居跡が埋没している可能性が非常に高いそうです。土器の他、馬具、鏡、鉄剣、鉄鏃、三環鈴、勾玉、銀環、等色々出ています。
土器編年の基準の一つがこの銘文入り鉄剣でもあるのです。
土器編年が稲荷山鉄剣銘文の辛亥年471年説(文献的仮説)を前提として加味された上で行われている。
古墳の被葬年代は、6世紀前半と判断されています。

埼玉稲荷山古墳調査報告書から引用
『第一主体部の副葬品は、五世紀の中頃から後半に比定できるものとして、
 ○[糸車糸・口](f字形境板)
 ○素環雲珠
 ○素環辻金具
 ○帯金具
 ○三環鈴
六世紀前半に比定できるものは、
 ○鈴杏葉
 ○方形辻金具
 ○壺鐙
 ○鞍橋金具
 ○[革妥]
その他、鉄・鏃直刀・鉾は五世紀後半から六世紀前半に観られる形式であり、
画文帯環状乳神獣鏡は五世紀代に分与されたものであろう。
したがって、第一主体部の被葬者は、辛亥年が西暦四七一年あるいは西暦五三一年であるにしろ、六世紀前半に埋葬されたものと思われる』…引用以上。

ここに言う第一主体部とは、銘文入り鉄剣のあった礫槨部分を呼び、
普通、古墳年代の比定は、最も新しい被葬品で判定されるわけですから、この第一主体部が五世紀末となる。

治天下と大王

X線ラジオグラフィで 『王賜』 の文字が発見された千 葉県市原市稲荷台古墳出土の鉄剣が更に古く5世紀中 葉より少し遡り, 大王が初めて登場するのは, 隅田八 幡神社の鏡で允恭天皇が大王を自称したとされる. さ らに, 大王の名前の前につく治天下 (辛亥銘鉄剣の場 合は佐治天下) は, 古事記・日本書紀・日本霊異記に しばしば出てくる 「天皇の名を美しく飾る言葉」 と見 なされ, 漢語の地天下を直訳し, 輸入して利用しただ けと考えられていた. しかし, 稲荷山古墳出土鉄剣の 文字の発見により, 改めて注目され, 獲加多支鹵大王 (雄略天皇) の時代から用いられるようになった, と 判断された. 治天下大王は, 獲加多支鹵大王の君主号 として作り出された

531年説のひとつ
「辛亥年」は471年、雄略天皇(ワカタケル)の時代とされている。しかしこれは単なる推定に過ぎない。還暦60年後の531年もその候補となる。この時代の天皇はだれか。それはまさしく「寺」にもっとも相応しい人「欽明天皇」となる。
日本史教科書にもあるように、欽明天皇13年百済の聖明王が金銅仏と経典を倭国に送ったことが日本書紀に記されている(仏教公伝…538年)
仏教に帰依した欽明天皇は、自身の漢字一字表記を「寺」にしたことが十分考えられる。

埼玉県の古墳

埼玉県の古墳で前期に該当するものは、高稲荷古墳と諏訪山35号墳の2基だけ、中期に該当するものは稲荷山古墳と雷電山古墳の2基だけであり、この表に登場するような有力な前方後円墳の多くは古墳時代後期に築造されているのが特徴である。
 そして、この事は、5世紀末に稲荷山古墳が築造される迄、毛長川流域の高稲荷古墳が、比企郡の帆立貝式前方後円墳である雷電山古墳がほぼ同規模であるものの、埼玉県内=武蔵北部における最も有力な前方後円墳であったという事だる。
高稲荷古墳を含む足立郡南部(旧入間川下流部流域)の勢力が埼玉古墳群成立前の武蔵国において、多摩川流域の勢力や比企地方の勢力と並ぶ、有力な勢力の一つであったと言う事はできるのではないだろうか?
前期古墳
高稲荷古墳 川口市 足立郡 新郷古墳群 75.0m 前期
諏訪山35号墳 東松山市 比企郡 諏訪山古墳群 66.0m 前期
中期古墳
稲荷山古墳 行田市 埼玉郡 埼玉古墳群 120.0m 中期
雷電山古墳 東松山市 比企郡 三千塚古墳群 76.0 中期
とやま古墳 南河原村 埼玉郡 —— 69.0m 中期
 5C末の稲荷山古墳以降、最有力の前方後円墳は行田市の埼玉古墳群とその周辺の埼玉郡内に限って築造されるようになる。一方、高稲荷古墳を築造した旧入間川下流部である現毛長川流域の地において、集落遺構や祭祀遺構が中期末に断絶する傾向が知られている。
5世紀末に至って突然、大形の前方後円墳が築造されるようになるのが埼玉郡の特徴である。この事は、5世紀後半頃に、この地に武蔵国で最も有力な勢力が現れたことを示すと共に、その勢力は埼玉郡内の土着の勢力ではなく、既に大形前方後円墳を築造するだけの力を持った勢力が外部からやってきたことを推察させるものである。埼玉古墳群の南方10km程の所に、笠原という地名があり、使主はここを拠点とした豪族であるとされている。
 大形古墳は、日本書紀安閑天皇紀に登場する、武蔵国造の笠原直氏とその一族のものとする説がある。後の武蔵国造に繋がる武蔵国最有力の氏族のものであることは間違いのない所ではないかと思われる。

豪族など
武蔵国造
建比良鳥命。出雲国造・遠淡海国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造などと同系。成務朝に二井之宇迦諸忍之神狭命の10世孫の兄多毛比命が无邪志国造に任じられたという。

丈部氏、のち武蔵氏。姓は直だが、のち宿禰。一族として笠原氏・物部氏・大伴氏・檜隈舎人氏などがある。
本拠
武蔵氏・大伴氏は武蔵国足立郡(東京都足立区と埼玉県東南部)。
笠原氏は武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県鴻巣市)。
物部氏は武蔵国入間郡(埼玉県入間市・川越市・狭山市・所沢市・富士見市・ふじみ野市など)。

笠原使主 …… 安閑朝の武蔵国造。笠原小杵と相続争いを起こした。

物部兄麻呂 …… 推古朝の舎人。武蔵国造。
丈部不破麻呂 …… 奈良時代の官人。藤原仲麻呂の乱の功績で武蔵宿禰を賜り、武蔵国造に任じられた。

武蔵国造家
武蔵国総社・大国魂神社の境外摂社に「坪の宮」という神社が在る。別名「国造神社」と呼び、祭神は兄多毛比命である。武蔵国造家の始祖である。代々、武蔵国造が奉仕していたのでここに祀られているという。兄多毛比命の8代前が天穂日命であるから、出雲国造とも祖が同じである。兄多毛比命の7代後裔が、武蔵国造の乱で有名な笠原直使主である。小杵とは従兄弟にあたる。将門反乱の時、武蔵国造の後裔武芝は、足立郡司判官代で、将門側につく。武芝の娘と菅原氏との間に生まれた正範が氷川神社社務を継承し、4代後氷川神社神主家大祝物部氏の血を入れ、武蔵国造家は現在に至る。

銘文の解読
武蔵国造の乱と毛長川流域
阿倍氏の系図には大彦命の孫として「豊韓別命」(トヨカラワケノミコト)の名があり、鉄剣系譜もオオヒコの孫に弖已加利獲居(テミカリワケ)と音の似通った名がある点からも、記紀系譜の信憑性、少なくともその概念の成立は鉄剣製作年(471年)以前に遡り得ることを指摘する向きもある。
 そこで、仮に弖已加利獲居=豊韓別とすれば、「弖」字は「て」とも「と」とも発音する場合があることが想定される。現在でも「豊島」と書いて「てしま」と発音する例が残っていることから、「弖」は「て」「と」と通用するか、「て」→「と」と訛る場合があると言えそうである。
 この8代の系譜の中で、オワケの先代にあたるカサヒヨを、語感の近さから笠原直と結び付ける説があり、中には「カサハラ」と読むのではないかとする研究者もいる。字面からして「カサハヨ」は有り得るとしても、「カサハラ」と読むのは少々難があると思うが、笠原を「カサヒヨ」乃至は「カサハヨ」の転訛と見ることは可能であろう。「カサハヨ」と読むのであれば、これは恐らく「風早(カザハヤ)」という意味の言葉ではないだろうか? 笠原を含む埼玉県北部の平野部は「上州のからっ風」、つまり群馬県=上毛野方面からの強風が冬季に吹くことで知られている。「カサハヨ」とはこうした気候の特徴を捕らえた命名ではないかと思われる。また、「披」字を「ハ」と読むなら、タカヒジワケもタカハジワケ乃至はタカハシワケとなり、同じく大彦の末裔とされる阿部臣や膳臣同族の高橋連との関係も推察される。

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