神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。
大国主は国譲りについての返答を八代言代主神と建御名方神に譲った
鴨都波神社
所在地 奈良県御所市宮前町514
鴨都波神社(かもつばじんじゃ)は、奈良県御所市にある神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。
積羽八重事代主命(事代主)と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)に対して「下鴨社」とも呼ばれる
社伝によれば、崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建した
桜井茶臼山古墳
箸墓古墳に次ぐ時期に造られたと考えられている全長207mの前方後円墳です。宮内庁で陵墓に指定していないこともあり、大王墓でありながら内部が発掘調査されている数少ない古墳です。その結果、石室内部が天井まですべて朱で覆われていることがわかり、これも被葬者の権力の大きさを示しているそうです。また、この古墳にも多数の鏡が棺の中、外に置かれていたようですが、残っていたものは破片ばかりでしたので、詳しくはわからないようです。他にも刀、剣などとともに碧玉製の豪華な玉杖がみつかり、これもこの被葬者が大王であったことを示しているそうです。この古墳は地元では饒速日命または長髄彦の墓との伝承があるとのことです。この2人は親子で古事記、日本書紀では大和朝廷の祖である神武天皇が九州からヤマトに入った際に抵抗したヤマトの豪族として描かれています。
饒速日の尊の墓 と登美の白庭
『先代旧事本紀』の巻三「天神本紀」や、巻五「天孫本紀」には、次のように記されている。
「饒速日の尊は河内の国の河上の哮峰(いかるがのみね)に天下った。さらに、大倭の国の鳥見(とみ)の白山(または白庭山)にうつった。」
また、『先代旧事本紀』の巻五「天孫本紀」には「(饒速日の尊がなくなったとき)天の羽弓矢(はゆみや)、羽羽矢(ははや)、神衣帯手貫(かむみそおびたまき)を、登美(とみ)の白庭の邑に埋葬して、墓とした。」とある。
『日本書紀』で神武天皇が兄磯城を攻めるためにとった進軍経路を見ると、「忍坂の道」「墨坂」「宇陀川」などの地名が出てきて、それに続いて金鵄の話や「鳥見」という地名が出てきます。
饒速日命は、この鵄の話や「鳥見」の地名の話のすぐ後で長髄彦を殺して、神武天皇に帰順しています。
これを見ると、饒速日命は桜井市の鳥見山付近にいたほうが自然なようです。
建御名方命
記紀は大国主の国造りの一番重要な部分を隠してしまったようである。ところが、古事記には、わずかな手がかりが残されている。
古事記は、「葦原中国」に派遣され、大国主の娘の下照比売の夫となった天若日子の喪屋が「美濃国の藍見河(長良川)」の河上に落ちたとし、大国主の子の建御名方神が「科野国の州羽の海」に出雲から逃げ去ったとしている
・『古事記』では、東征において神武軍と戦うのは登美の那賀須泥毘古、またの名は登美毘古であり、妹は登美夜毘売という。また、東征の最後において、邇芸速日命(にぎはやしのみこと)は神武に天津瑞(あまつしるし)を献じて仕える。邇芸速日命は那賀須泥毘古の妹登美夜毘売を娶り、子を 宇摩志麻遅命である。那賀須泥毘古の生死については記載されていない。
・『日本書紀』でも磐余彦尊の率いる神武軍と戦うのは長脛彦と記載され、妹は三炊屋(みかしきや)媛、またの名は鳥見屋(とみや)媛という。戦いの終盤、金色の霊鵄(とび)が飛んできた。鵄は磐余彦尊の弓先に止まった。その鵄は光り輝き、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍の兵達は皆幻惑されて力を出すことが出来なかった。長髄というのは元々は邑の名だが、これを人名にも用いた。磐余彦尊が鵄の力を借りて戦ったことから、人々はここを鵄の邑と名付けた。今、鳥見というのはこれが訛ったものである。櫛玉饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名は鳥見屋媛を娶り、子は可美真手命(うましまでのみこと)という。饒速日命は長髄彦を殺害し、饒速日命は部下と共に磐余彦尊に帰順したと記載する。
・『先代旧事紀』では、饒速日命は長脛彦の娘の御炊屋媛を娶り、その子は宇麻志麻遅命である。また、饒速日命が亡くなったとき、形見の天璽瑞宝を登美白庭邑に埋葬した。宇摩志麻地命は舅(長髄彦)は謀をして舅(長髄彦)を殺し、衆を率いて帰順したと記載する。
長髄彦、すなわちは鳥見白庭山を本拠地とし、その勢力圏は隣接する領域を次々に傘下におさめ、それは三輪山一帯にまで及んでいたのではなかろうか
する見方さえある。建御名方命は長脛彦その人か、あるいはその子であり、神武との戦いに善戦し、敗れ、諏訪に下ったと考える。記紀の記載に反し、建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神と称えられるのはそれなりの理由があるのだ。
「長髄彦の後裔とその奉斎神社 宝賀寿男」
上記資料から
『磯城の三輪氏族が主体をなしていた「原大和国家」の基礎は、二世紀前葉頃の大物主命(櫛甕玉命)ないしその父祖による博多平野から大和の三輪山麓への東遷により築かれた。それ以来、ほぼ五十年にわたり、その子の事代主命(玉櫛彦命)、さらにその子弟の長髄彦(八現津彦命)、と竜蛇信仰をもつ海神族系統の三輪氏族の君長が続いた。』
『神武の大和侵攻に抵抗したのが三輪の事代主神の子弟一族であり、事代主神の子と伝える長髄彦、及び事代主神の弟とされる建御名方命(これらの所伝そのままだと、建御名方命は長髄彦の叔父となる)ということになる。[所伝:『古事記』および『先代旧事紀』によれば、建御名方命は事代主命の弟である。]
ところで、建御名方命の別名が建御名方富命(南方刀美神)とも書かれ、「富・刀美」が地名「登美」の意味なら、同神が即「登美の長髄彦」に通じる可能性がある。長髄彦の妹が饒速日命に嫁したという世代対比でいえば、長髄彦は神武と時代は多少重なるものの、神武の一世代前の人とみることができるので、その場合には「建御名方命=長髄彦」の感が強くなる。長髄彦の後裔が逃れた阿波国名方郡の地に、建御名方命を祀る式内社の多祁御奈刀弥神社があるのも、上記の後期銅鐸の出土などとも併せ、その傍証となろう。この場合には、実際に神武朝に諏訪や阿波へ移遷したのは、建御名方命すなわち長髄彦の子や孫などの一族だとみられる。』
[多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社の祭神は、建御名方命と八坂刀賣命。阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、この地に産まれたという建御名方命を祀った、とされる。]
阿波の高志と沼河比売
三村隆範氏は、『阿波と古事記』に次のように述べている。
「徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,旧地名を高志と呼んでいた。高志の南は,名西郡石井で関の八幡神社に沼河比売が合祀され祀られているという。近くに式内社の多祁御奈刀弥神社があり,建御名方神が祀られている。『古事記』では沼河比売の住む高志を北陸にあてる。島根県の話がいつの間にか北陸の話に変わってしまっている。」
鴨都波神社奈良県御所市宮前町
御祭神:積羽八重事代主命
配神 :建御名方命
祭神. 積羽八重事代主命(事代主)と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。
葛城氏・鴨氏によって祀られた神社
本社の主祭神は古記に、鴨都味波八重事代主神と記されております。「代主」は田の神の古語、「鴨都味波」は鴨の水端、すなわち鴨の水辺の意、「八重事」はしばしばの折目と形容で、つまり「鴨の水辺で折目ごとに祀られる田の神」とう御神名であります。
金剛山に源を発する葛城川と葛城山に源を発する柳田川が合流するこの地が、灌漑に最も適していた地として、田の神を鎮め祀ったのに始まります。天孫降臨に際して、父の大国主命(櫻井市の大神々社御祭神)に代わって国護りを決定した大神として、御祭神の事代主命の名が見えます。又事代主命の御子の媛踏鞴五十鈴媛命は神武天皇の皇后、五十鈴依媛命は綏靖天皇の皇后に天日方命から加茂君が出ておられます。
金剛、葛城の山麓は古代の大豪族、鴨族の発祥地であります。その末流は全国にひろがり、鴨(加茂)の郡名だけでも、安芸、播磨、美濃、三河、佐渡の国々にみられ、郷名に至ってはさらに多く、また京都の加茂大社を はじめ、全国に分布している多数の鴨社も、すべて源をこの地に発するものであります。
長髄彦の拠点であったところが,菅原・伏見の西側の丘陵地帯でした。地理的にいえば,富雄川に沿って大和から難波に抜けるためのむかしの幹線道路である磐船街道がとおっています。そして,この幹線道路の要所を押さえていた豪族が長髄彦だと考えられています。その痕跡を残すかのようにこの長髄彦にゆかりのある神社が,この磐船街道沿いに三つ残っています。この地域一帯は鳥見(とみ,あるいは,とりみ),登美,冨,富雄,と呼ばれていました。
この長髄彦にまつわる重要な神社が,この磐船街道(つまり,富雄川沿い)に三カ所あり,それぞれ上鳥見,中鳥見,下鳥見と呼ばれ,そこには,それぞれ伊〇諾(いざなぎ)神社
添御県坐(そうのみあがたいます)神社,
登弥(とみ)神社
があります。この富雄川を遡っていった最上流に,
磐船神社
があります。ここがニギハヤヒノミコトの祀られている神社です。
旧事本記
奥州安部氏と長髄彦
奥州阿倍氏は平安後期における陸奥・出羽の豪族で、北上川流域で栄えていた。その出自については、朝廷に従うようになった土着の蝦夷であるとか、中央の名族、阿倍氏が奥州に下った際に残した子孫であるとか言われるが、彼らの間に伝えられた伝承では
「神武東征の際、滅ぼされた長脛彦の兄、安日(あび)が放逐されて津軽に入りその始祖となった。(「あべ」は「あび」の転訛)」
と伝わっていた(『平泉雑記』が伝える安倍氏自身の家伝などに、この伝承が見られる。)。
長脛彦は記紀に見える大和の土着勢力の首領で、東征する神武天皇に激しく抵抗して殺されている。記紀には彼の兄で安日などという人物の記事はなく、これはもちろん後世の創作である。しかし、そうだとしても、どうしてこんな突飛な伝承が生まれたのか、という疑問は残るだろう。
これに対し太田亮は、平将門・藤原純友の後裔と称した武家が多数発生したのと同様に、奥州安倍氏が長脛彦の武勇を尊び、それにあやかろうとしたためだろうとしている。しかし、中央の名門貴族だった阿倍氏との同族関係を擬態するとかだったらまだ分かるが、奥州安倍氏がわざわざ自分たちの祖として創作した人物が、よりにもよって長脛彦の兄であったというのは腑に落ちない。
そもそも、朝廷に対し融和的であった彼らが前九年の役で中央政府に背くきっかけとなったのは、頼時の息子の貞任の妻に、陸奥守だった源頼義の武将の妹を迎えようとしたところ、その武将が安倍氏が蝦夷の子孫であることを理由に断ったため、と伝承されているのだ。そんな彼らが大和朝廷から異族として蔑視されていた長脛彦の兄というポジションの人物を始祖にするとはとても思えない。