関東の鳥見神社、宗像神社、麻賀多神社

関東、印旛の宗像神社
印旛沼・手賀沼・利根川・牛久沼・霞ヶ浦等この一帯がまだ内海であった頃、印旛沼・手賀沼沿岸に宗像神社13社、鳥見神社二十社、麻賀多神社17社が、全国的にも類を見ない特異な形態で配祀されました。こうした状況から「3神社」共ほぼ同一年代に鎮座されたものと考えられ、当地宗像神社も9世紀後半期に創設されたものと推定されます。更には、この地に集落が出来た上代に遡るとも考えられます。以来、戸神武西両区の産土神社として崇敬され、代々に亘り氏子崇敬者の生活の安全と繁栄を見守って来られました。

応神天皇の御代、印旛国造伊都許利命が印旛の治水と殖産振興を計って当地に宗像三神を祭った。「開かれる所」の意より平賀の地名が出来たと伝える

麻賀多神社(まかたじんじゃ)

千葉県成田市台方にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。印旛郡市に18社ある「麻賀多十八社」の惣社である。

景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。

社伝によると、日本武尊東征の折、
大木の虚に鏡をかけ、根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願。
応神天皇の御代、
伊都許利命が、印旛国造として当地に来たおりに、
夢の告げにより、稚日霊命の霊示をうけ、大木の根本から玉を掘り出して
霊代として、麻賀多神を奉斎したのが創祀。

後、推古天皇十六年(608)に、
伊都許利命八世の孫・広鋤手黒彦が、
稷山(台方)に社殿を造営した。

よって、当社(船形)は、麻賀多神社の奥宮(あるいは元社)にあたり、
台方の麻賀多神社を大宮という。
台方の麻賀多神社では、麻の葉紋が社紋と、明確に示されているが、
当社の賽銭箱や拝殿の幕には、巴紋が付けられていた。

境内左手奥に、御神木の大杉(周囲約6m、高さ40m)。

社殿の左手、垣に沿って、幾つかの境内社が並んでいる。
確認した社は、香取神社・祓戸社・八代稲荷神社・加志波比売神社。

大水上神社由緒略記
香川県三豊郡高瀬町大字羽方
御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。
三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。
皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。

-『平成祭データ』-

伊予、松山市
國津比古命神社 櫛玉比賣命神社
くにつひこのみことじんじゃ くしだまのひめのみことじんじゃ

國津比古命神社
式内社 伊豫國風早郡 國津比古命神社
旧県社

御祭神
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊
配祀 宇麻志麻治命 物部阿佐利命 誉田別命

櫛玉比賣命神社
式内社 伊豫國風早郡 櫛玉比賣命神社
旧郷社

御祭神
天道姫命
配祀 御炊屋姫命
愛媛県北条市(現松山市)にある。
伊予北条駅の東2・3Kmの八反地と高田に跨って広い境内。

境内入口から階段を上ると、
左手に八脚門があり、階段上に東向きの國津比古命神社。
右手奥の階段を上り、参道を歩くと西向きの櫛玉比賣命神社。
正確には、違う境内なのかもしれないが、大きな一つの境内に、2つのお宮が、向かい合って鎮座している
応神天皇の御代、饒速日尊の裔・物部連伊香色男命四世の孫である
阿佐利が、風早国造となり、当社を創建。

國津比古命神社は、もと櫛玉饒速日命神社と称していたが、
物部阿佐利を合祀して、國津比古命神社と改称したという。
また、俗に、頭日(かぐひ)神社、頭日八幡宮とも称されていた。
頭日(かぐひ)は地名による社名というが、
饒速日と頭日、そして、櫛玉比賣命神社祭神の天道姫

櫛玉比賣命神社は、抜入桝大明神と称されていたが、
享保年中、現社名に復帰した。
祭神・天道姫命は、國津比古命神社祭神・櫛玉饒速日尊の妃。
配祀の御炊屋姫命は、櫛玉饒速日尊が大和へ入ってからの妻。

国津比古命神社 國津比古命神社 櫛玉比売命神社 櫛玉比賣命神社 (松山市)

風早宮大氏神延喜式内社國津比古命神社櫛玉比賣命神社略縁起

この地は「國造」である『物部阿佐利』により開拓され、支配されていました。この物部阿佐利命の祖神をお祭しているのが「國津比古命神社」です。
 祭神
天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊 (以下、『櫛玉饒速日尊』といいます。)
相神 宇摩志麻治命 物部阿佐利命 誉田別尊 (応神天皇) そして櫛玉饒速日尊の妃神 (櫛玉の比賣) をお祭しているのが「櫛玉比賣命神社」です。
祭神 御炊屋姫命 天道姫命 神社創設の時期は明確ではありませんが、①式内社であること②歴史地理的条件③環境風土の形態から考えて、いまから 1500年以上前と考えられます。
 國津比古命神社
 國津比古命神社は応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して國津比古命神社と名を改めました。後に誉田別尊を合祀し『頭日八幡宮』と再び改めましたが、享保年間(約 270年前) に國津比古命神社と旧号にもどりました。天正年間(1573年-1591年) 、戦火のため社殿・宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築し、現在にいたっております。明治 4年に社格が『郷社』になり、同29年『県社』に昇格しました。昭和26年 『八脚門』県指定有形文化財 。 昭和43年 中殿・拝殿改築。 昭和60年 社殿屋根葺替・境内地拡張補強。
 櫛玉比賣命神社
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社です。社号は『祓座大明神』ともいわれました。寛永年間(約360年前) 官命により、南方の小山の頂より現在の地に移されました。古来、地方豪族の氏神として崇敬され、明治29年に社格が『郷社』になりました。
 史跡 境内 前方後円墳
 
日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。顕斎とは「そこに神様がおられるようにお仕えすること」です。 -『平成祭データ』-