石上神宮

石上神宮

古事記 中巻 神武天皇
 「天照らす大神・高木の神二柱の神の命もちて、建御雷の神を召(よ)びて詔りたまはく、葦原の中つ国はいたく騒ぎてありなり。我が御子たち不平(やくさ)みますらし。もはら汝(いまし)が言向けつる国なり。かれ汝建御雷の神降(あも)らさね」とのりたまひき。ここに答へまをさく。「僕(やつこ)降らずとも、もはらその国を平(ことむ)けし横太刀あれば、この刀を降さむ。この刀の名は佐土布都(さじふつ)の神といふ。またの名は甕布都(みかふつ)の神といふ。またの名は布都の御魂(みたま)。この刀は石上の神宮(かみみや)に坐す。

日本書紀 垂仁天皇39年10月
 五十瓊敷命(にしきのみこと)、茅淳(ちぬ)の菟砥川上宮(うとのかはかみのみや)に居しまして、剣(つるぎ)一千口(ちぢ)を作る。因りて其の剣を名けて、川上部(かはかみとも)と謂ふ。亦の名は裸伴(あかはだかとも)と曰(い)ふ。石上神宮(いそのかみのかむみや)に蔵(をさ)む。是(こ)の後に、五十瓊敷命に命(みことおほ)せて、石上神宮の神宝(かむだから)を主(つかさど)らしむ。・・・この時に、神、乞(こは)して言(のたま)はく。春日臣(かすがのおみ)の族(やから)、名は市河をして治めしめよとのたまふ。因(よ)りて市河に命(みことおほ)せて治めしむ。是、今の物部首(おびと)が始祖(はじめのおや)なり。

日本書紀 垂仁天皇87年2月
 五十瓊敷命、妹大中姫(いろもおほなかつひめ)に謂(かた)りて曰(い)く、「我は老いり。神宝を掌ること能(あた)はず。今より以後(のち)は、必ず汝主(いましつかさど)れ」といふ。大中姫命辞(いな)びて日(まう)さく。「吾(われ)は手弱女人(たをやめ)なり。何ぞ能(よ)く天神庫(あめのほくら)に登らむ」とまうす。神庫、此れをば保玖羅(ほくら)と云う。五十瓊敷命の曰(い)はく。「神庫高しと雖(いへど)も、我能く神庫の為に梯を造てむ。豈(あに)庫に煩(わづら)はむや」といふ。故、諺に曰はく、「天の神庫も樹梯(はしだて)の隋(まにま)に」といふは、此其の縁(ことのもと)なり。然(しかう)して遂に大中姫命、物部十千根大連(もののべのとをちねのおおむらじ)に授けて治めしむ。故、物部連等、今に至るまでに、石上の神宝を治むるは、是其の縁なり。昔丹波国(たにはのくに)の桑田村に、人有り。名を甕襲(みかそ)と曰ふ。則ち甕襲が家に犬有り。名を足往(あゆき)と曰ふ。是(こ)の犬、山の獣(しし)、名を牟士那(むじな)といふを咋(く)ひてころしつ。則(すなは)ち獣の腹に八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)有り。因(よ)りて献(たてまつ)る。是の玉は、今石上神宮(いそのかみのかむみや)に有り。
天神庫:神宝を収める倉庫の高いさまをいう。

古事記 下巻 履中天皇
 子伊耶本和氣の王(履中天皇)、伊波礼(いわれ)の稚桜の宮にましまして、天の下治らしめしき。・・・もと難波の宮にましましし時に、大嘗(おほにへ)にいまして、豊の明したまふ時に、大御酒にうらげて、大御寝ましき。ここにその弟墨江の中つ王、天皇を取りまつらむとして、大殿に火を著けたり。ここに倭の漢(あや)の直(あたへ)の祖、阿知の直、盗み出て、御馬に乗せまつりて、・・・かれ上り幸でまして、石の上の神宮にましましき。

日本書紀 履中天皇4年10月
 石上溝を掘る。(奈良県天理市布留付近に作られた用水路・幅15m、深さ2m、発掘調査により検出 地図)

日本書紀 天武3年(804)8月
 忍壁皇子(おさかべ)を石上神宮(いそのかみのかみのみや)に遣(まだ)して、膏油(かうゆ)を以て神宝(かむだから)を瑩(みが)かしむ。即日に勅して日(のたま)はく、「元来諸家の、神府(ほくら)に貯める宝物、今皆其の子孫に還(かへ)せ」とのたまふ。