古語拾遺 忌部氏

中心は阿波と讃岐の忌部氏である。
現在の徳島市二軒屋町に忌部神社がある。鳴門市に「大麻比古神社」、讃岐に大麻神社もある。その故地は、阿波国麻殖郡忌部郷(現在:麻殖郡山川町忌部)とされている。この流れが関東の安房国に移り安房忌部氏となったともいわれている。千葉県館山市大神宮にある安房神社がその中心とされている。(洲宮神社神主家も同じ流れである)これ以外にも出雲忌部氏・筑紫忌部氏・伊勢忌部氏・紀伊忌部氏など多数存在する。

忌部氏と麻の生産は密接な関係がある。一方岡山県備前市伊部(いんべ)の備前焼(伊部焼)も阿波忌部氏が関与しているとされる。出雲の蹈鞴製鉄の技術も阿波忌部の影響があるとか。
「織田信長」は、忌部氏の末裔である説が濃厚である。一般的には、織田氏は平重盛流の平家の出とされているが、系図的には、忌部系織田氏に重盛流の人物が養子に入ったとする。信長は、寺よりも神社を好んだのかもしれない。

当初、忌部氏は中臣氏と共に宮廷の祭祀権を分掌し協力していました。それが、いつしか中臣氏に独占されるようになります。735天平7年忌部宿禰虫名・鳥麻呂らが朝廷に訴え、それが認められ、伊勢神宮奉幣使に任じられています。それ以降も二氏間でのトラブルが続き、こうした経緯から、808大同2年に「古語拾遺」が平壌天皇の召問に応じて、斎部宿禰広成によって撰上されました。

忌部氏(神しん璽じ鏡剣の奉呈儀式)と中臣氏(寿詞よごとの奉読儀式)。

「古語拾遺」
高皇産霊神は3神を生んだとされ、高皇産霊神が生んだ娘の名は栲幡千千姫命[天祖の天津彦尊(瓊に瓊に杵ぎ尊)の母である。]生んだ男の名は天の忍日命[大伴宿禰の先祖である。]
生んだ男の名は天の太玉[斎部宿禰(忌部)の先祖である。]
 その太玉命が率いる神の名は
天日鷲命[阿波の国の忌部の先祖である。]
 手置帆負命[讃岐の国の忌部の先祖である。]
 彦狭知命[紀伊の国の忌部の先祖である。]
 櫛明玉命[出雲の国の忌部の玉作りの先祖である。]
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『姓氏録』には、少彦名神の後裔氏族は見えませんが、高魂命(高皇産霊尊)の孫・天日鷲命(天日鷲翔矢命)の後裔は多く記載されて、弓削宿祢、天語連、多米連・宿祢、田辺宿祢があげられます。
  具体的な系図だと、少彦名神の後裔氏族には鳥取連、三島県主があげられ、天日鷲命の後裔氏族に粟・安房の忌部、神麻績連、倭文連、長幡部、神宮部造などがあげられます。とくに安房の忌部の子孫となる洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」(筑波大図書館所蔵、鈴木真年写本)には、天日鷲翔矢命の子の天羽雷雄命(一云武羽槌命)の子孫として委文宿祢・美努宿祢・大椋置始連・鳥取部連の祖と記載されます。ここであげられる四氏のうち、美努宿祢・鳥取部連 は『姓氏録』には美努連・鳥取連としてあげられ、ともに「角凝魂命の三(一説に四)世孫の天湯川田奈命(天湯河桁命)の後」として記されます。また、同書には、右京神別に神麻績連、鳥取連、三島宿祢、天語連が一連の記載をされており、記載内容は現存版が抄本のためあまり共通なものとはなっていませんが、これら諸氏が同族の系譜を伝えていたことが推されます。

阿波国はもと粟とかかれた地域で、古来、繊維の麻の産地であり、当地の開拓者たる忌部がその製作にあたっていました。そのことは、阿波忌部の祖とされる天日鷲神が木綿の製作者として記紀神話に見えることと符合します。古代の衣服・繊維氏族の倭文連・長幡部も忌部の同族でした。
  そして、また衣服・繊維氏族であった服部連も、これらの同族であり、その出自が伊豆国造一族であって、同国造一族が古来、同国賀茂郡で三島大社(伊豆三島神社)を奉斎してきました。同郡の式内社阿波神社が、いま神津島に鎮座して三島大神とその后神阿波比咩神を祀ります。伊予で多くの三島神社(その中心が大山祇神社)を奉斎した越智国造は、物部連一族ですが、これも少彦名神の同族でした。摂津国島下郡の三島県主(のち三島宿祢)は先にあげた氏族のなかにありますが、その奉斎した神社が三島鴨神社でした。

三島溝咋耳命・鴨健角身命・陶津耳命・八意思兼神とも同じ神であり、葛城国造(葛城連)や賀茂県主・鴨県主などもその後裔氏族に当たります。これら氏族は、本来みな天孫系の氏族(高魂命後裔氏族)であって、「鴨」「三野(美努・美濃)」などの地名や氏族とも深い関係を持っていました。
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伊勢神宮外宮の神官家・度会氏について、『先代旧事本紀』に、「天牟良雲命は度会神主等の祖」と記され、当の度会氏による『神道五部書』所載の外宮の沿革を記した『豊受皇太神御鎮座本紀』にも同様の記載がある。

この『豊受皇太神御鎮座本紀』原文には、

 天村雲命 伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。
 阿波國麻植郡座 忌部神社 天村雲神社二座 是也。

とあり、大神主(度会氏)の「上祖」が、天村雲命であり、
その天村雲命は、神皇産霊神(高天原最高神の一柱)の六世之孫であり、
阿波国の式内社、忌部神社、天村雲神社(天村雲神社は忌部神社の摂社)が「是也」

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初代:高皇産霊命

1)天太玉命(あめのふとたま)(天照大神時代)
①父:高皇産霊命(古語拾遺説) 母:千々姫?
②妻:天比理乃咩(神魂流天背男命娘) 子供:天櫛耳・天鈿女命(猿女君祖)
別名:太玉命(紀)、布刀玉命(記)、天太玉命(古語拾遺)日本書紀では高皇産霊命 と同一神ともしている。

天太玉命に従った五神。
天日鷲命:阿波忌部氏
手置帆負命:讃岐忌部氏
彦狭知命:紀伊忌部氏
櫛明玉命:出雲国玉作氏
天目一箇命:筑紫・伊勢国忌部氏

2)天櫛耳
①父:天太玉 母:天比理乃咩
②兄弟:天鈿女命  (彦狭知命・手置帆負命)

・天鈿女(あめのうずめ)命
①父:天太玉 母:不明
②夫:猿田彦命  別名:大宮売命(はっきりしない)

3)天富命(神武天皇時代)
①父:天櫛命 母:不明
②子供:飯長媛・弥麻爾支
③古語拾遺によると、天富命が天日鷲命の孫を率いて阿波国に移り、穀、麻を植えさせた。
大嘗祭に木綿、麻などを朝廷に献上する。阿波の郡名を麻植という。と記されている。阿波忌部の始まりである。

・飯長媛
①父:天富命 母:不明
②夫:由布津主命、子供:訶多々主命(阿波・安房忌部祖)
③斎主
 
・由布津主命
①父:大麻比古命 母:礒根御気比売(出自不明)
②妻:飯長媛    別名:阿八和気比古
③神武朝の人物。
                                          ・訶多々(かたた)主命
①父:由布津主命 母:飯長媛
②子供:伊那左可雄 別名:堅田主命
 
・大麻比古命
①父:天日鷲 母:言笞比売(出自不明)
②妻:礒根御気比売 子供:由布津主・千鹿江比売    別名:津咋見命
③鳴門市「大麻比古神社」祭神。
 
・天日鷲(あめのひわし)命
①父:天背男命 母:不明
②妻:言笞比売 子供:大麻比古・天白羽鳥・天羽雷雄 別名:天日別命、日鷲命
③天太玉に従った五神の一人。阿波・安房忌部氏の祖。
④古語拾遺に「天日鷲をして津咋見神を以て殻木(かぢのき)を植えしめ、以て白和幣(にぎて)を作らしむ」とある。麻植(おえ)神の所以。
⑤天富命は、この神裔を率いて安房の国に至り、殻麻の種を植え云々とある。
 
4)弥麻爾支
5)和謌富奴
6)佐久耳
7)阿加佐古(?-?)
①父:佐久耳 母:不明
②子供:玉久志古・古佐麻豆知(和泉穴師神社神主家)・葉耳(日置部祖)

8)玉久志古(?-?)
①父:阿加佐古 母:不明
②子供:多良斯富・意保熊(白堤首祖)
③10崇神天皇朝に供奉。(安房国洲宮小野氏所伝斎部宿禰本系帳)
④「崇神25年倭毘売命を御杖代として天照大神を佐久久志呂五十鈴川上に斎き奉る時、大幣を執持ちて供奉」の記事。
 
9)多良斯富(?-?)
①父:玉久志古 母:不明
②子供:麻豆奴美足尼
③12景行天皇朝に供奉。(同上)
④「景行53年伊勢に行幸し、転じて東海に入る。冬10月上総国安房浮島宮に至ります時供奉。安房の大神を御食都神云々」の記事。
 
10)麻豆奴美足尼(?-?)
①父:多良斯富   母:不明
②子供:佐岐大人足尼 多比古足尼
③神功皇后時代の人(同上)
④「息長帯姫皇后新羅を征し給う時、伊伎島に天神国神を斎ひ奉り、云々」の記事。
 
・佐岐大人足尼(?-?)
①父:麻豆奴美足尼
②子供:不明 多比古足尼?
③ 15応神天皇ー16仁徳天皇朝に供奉。(同上)
 
11)多比古足尼(?-?)
①父:麻豆奴美足尼 母:不明
②子供:那美古・古止禰(小山連祖)
③17履中天皇朝に供奉。
 
12)那美古(?-?)
①父:多比古足尼  母:不明
②子供:達奈弖
③21雄略天皇朝に供奉。
 
13)達奈弖(?-?)
①父:那美古  母:不明
②子供:豊止美 別名:達撫古
 
14)忌部首豊止美(?-?)
①父:達奈弖  母:不明
②子供:宇都庭麿
③29欽明天皇朝より忌部首姓を賜る。
 
15)宇都庭麿(?-?)
①父:豊止美 母:不明
②子供:佐賀斯・右麻呂(子孫在阿波国麻殖郡)・加米古(子孫在阿波国名方郡)
③33推古天皇朝に供奉。大礼冠を授け賜る。
 
・忌部首子麻呂(?-?)
正史における忍部氏初見「日本書紀」645年神幣を賦課するため美濃国に遣わされている。出自不明。
 
16)佐賀斯(さかし)(?-?) 
①父:宇都庭麿 母:不明
②子供:子麿・色弗
③36孝徳朝で神官の頭(神祇伯相当)。王族・宮内・礼儀・婚姻・占いの事を司った。(古語拾遺)
 
・色弗(しこふち)(?-701)
①父:佐賀斯 母:不明
②妻:乙名美咩(安房忌部久米麻呂娘) 子供:名代・夫岐麿・栄麿・加奈万呂・衣屋咩
別名:色夫知
③680年連姓となる。684年宿禰姓。
④690年41持統天皇即位式で中臣大嶋の天神寿詞の奏上に続き、神璽の剣・鏡を天皇に奉る使となった。
⑤正五位上。神祇大副。
⑥系図では安房忌部氏久米麿の娘乙名美咩を妻としてその子供「夫岐麿」が安房忌部氏本流を継いだことになっている。(安房神社系図)
 
17)子麿(?-719)
①父:佐賀斯   母:不明
②子供:狛麻呂・馬麻呂・菟
別名:子首(こびと)子人。
③672年壬申の乱の時、大伴吹負に従い、天武天皇側として古京を護ることに貢献。
④681年連姓を賜り、さらに684年に宿禰姓となった。
⑤682年40天武天皇は川島皇子、忍部皇子らに詔して「帝紀及び上古の諸事を定めしめ」た。子首は中臣大嶋らとこれに選ばれた。中心執筆者の一人といわれている。
これが日本書紀編纂の元になったとも言われている。
⑥704年伊勢神宮奉幣使となった。              
⑦708年正五位下出雲守。718年従四位上に叙位。
記紀編纂での出雲神話・出雲国造神賀詞にも関与ありとされる人物。
⑧子孫は京にあり、神祇官に仕える。
 
18)狛麻呂(?-?)
①父:子麿 母:不明
②子供:虫名・鳥麻呂・比良夫
 
・鳥麻呂(?-?)
①父:狛麻呂 母:不明
②子供:不明
③749年従五位下。伊勢神宮奉幣使。神祇少副。
④信濃守。764年従五位上。
 
19)虫名(?-?)
①父:狛麻呂 母:不明
②子供:斎部浜成・島足
③721年斎王「井上内親王」の時斎宮の忌部となった。従八位上。
④735年弟鳥麻呂と忌部氏が伊勢神宮奉幣使になることを太政官に訴え、認められた。
しかし、757年以降同奉幣使は中臣氏以外任じられなくなり忌部氏は完全に退けられた。
 
・忌部宿禰人成(?-?)
8世紀前半官人。
伊勢神宮奉幣使。
・忌部宿禰呰麻呂(あざまろ)(?-?)
出自不明
8世紀前半官人。721年伊勢神宮奉幣使。
757年従五位下、759年奉幣使、765年斎宮頭。
 
20)斎部浜成(?-?)
①父:虫名 母:不明
②子供:広成・雲梯・益成
③803年申請して、忌部を斎部と改姓した。正六位上。
④遣新羅使に任じられる。
 
21)広成(?-?)
①父:浜成 母:不明
②子供:明成
③806年忌部氏・中臣氏双方が提訴して争い激化。朝廷は祈祷・臨時祭の奉幣使に両氏が並んで任につくべきであると裁定を下した。
④807年51平城天皇の召問に応えて「古語拾遺」一巻を撰進して、斎部氏の祭祀氏族としての過去の貢献を主張し、中臣氏の独占体制を批判した。

神代を除いた日本書紀における、忌部氏の初見は645大化1年7月で、忌部首子麻呂が神幣を課すために美濃国に遣わされたことです。(原文:忌部首子麻呂、於美濃國、課供神之幣)
神弊とは「御幣」、「神幣」、「幣」とも言われ、神道の祭祀で用いられる捧物(幣帛の一種)で、白い紙(2本の紙垂)を木または竹の棒(幣串)に挟んだものです。賀茂祭では「阿礼」といわれるものです。

帝紀と上古の諸事編纂
忌部子首のいろいろな事績の中でも、天武天皇の詔からはじまった「帝紀と上古の諸事」編纂の一員になれたことは重要です。
【日本書紀 天武10年3月】
丙戌、天皇御于大極殿以詔、川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記、定帝紀、及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以録焉。

天智朝で定められた「小錦中」は後の従五位相当です。王族を除けば、第2位の地位に位置します。天武13年の氏姓改革では、子首はさらに宿禰姓を得ています。

686朱鳥1年9月、天武天皇が崩御されました。

【日本書紀 691持統紀5年8月】
八月己亥朔辛亥、詔十八氏、【大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・釆女・穂積・阿曇】上進其祖等墓記。

持統がまず行ったのは各氏族の墓誌の蒐集です。18もの氏族から墓誌に記された故人の事績、没年齢などを提出させたのです。
それまで帝紀編纂に従事していたのは、王族を除き6人です。その中で、中臣氏と忌部氏は持統の調査の対象になっていません。2氏の詳細な資料はそろっていたと思われます。忌部連子首と中臣連大嶋が深くこの編纂事業に深く関わっていた証拠の一つです。

708年出雲国司に任じられ出雲に向かい、おそらくは出雲国司のまま3年で戻っています。この頃は国司の任期は6年(大宝律令以降は4年)ですが早く戻りました。大和に戻った711和銅4年4月7日正五位上を授かります。この時、太安万侶も同時に同格昇格しています

713和銅6年の詔から20年の歳月を掛け、733天平5年に完成、聖武天皇に奏上されました。 忌部宿禰子首は完成を見ることなく亡くなられています。
713和銅6年5月 諸国に風土記撰述の詔が下されます。翌年、忌部宿禰子首は従四位下に叙せられました。同年2月に日本書紀編纂がスタートしています。そして、3年後、
716霊亀2年2月 出雲国造果安により最初の神賀事(服属儀礼)が上京し天皇に奏上されました。以降これが国造の代替わりに儀式として定着します。