讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏

真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚

宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。
父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀氏

延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学んだ

24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著

求聞持法を空海に伝えた一沙門
現在では大安寺の戒明ではないかと云われている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者。

延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。

永貞元年(延暦24年、805年)
密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。
6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた
同年12月15日、恵果和尚が60歳で入滅。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。

中央伴造として佐伯部を率い、宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えた。因みに警備を担当した宮門は、氏族名から「佐伯門」と名付けられたが、平安宮では唐風文化の影響から、「さへき」に音通する「藻壁(そうへき)門」と改められた。姓は初め「連」であったが、天武天皇13年(685年)に同族の大伴氏等とともに「宿禰」を賜姓された

円珍 智証大師
園城寺は「三井寺(みいでら)」と通称されるが、それは天智・天武・持統の三帝が誕生の際、御産湯に用いられたという霊泉が当地にあり、「御井の寺(みいのてら)」と呼ばれていたことに由来する。
後に智証大師・円珍(814‐891年。父は和気宅成。母は佐伯氏の娘で弘法大師・空海の姪。讃岐の人。義真に師事し、853年入唐、858年帰国。

三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時にさかのぼる遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

物部氏系の史書である『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖神)の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)を祖とすると伝える。

佐伯直(さえきのあたい)氏は、古墳時代の中頃(五~六世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の各五ヶ国に設定された佐伯部(さえきべ)の国造(くにのみやっこ)である。

佐伯直(さえきのあたい)氏には古代豪族「大伴氏」から派生した伴氏とされる説が在る一方、景行大王(けいこうおおきみ/古事記・日本書紀で第十二代と記される天皇)の皇子・稲背入彦命(いなせいりびこのみこ)の末裔が臣籍降下して播磨国造(はりまくにのみやっこ)になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓と成った。

佐伯直(さえきのあたい)氏は、古墳時代の中頃(五~六世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の各五ヶ国に設定された佐伯部(さえきべ)の国造(くにのみやっこ)である。

ま大伴旅人が歌った「賀陸奥出金詔書歌」でも、

「・・・大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立  人の子は 祖の名絶たず 大君に 奉仕ふものと 言ひ繼げる 言の職ぞ 梓弓 手に取り持ちて 劒大刀  腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守護 吾をおきて 又人はあらじと ・・」
と歌っている。佐伯宿禰は大伴 談(かたり)の子 歌(うたふ)が佐伯部の統轄という新しい職掌を得て大伴氏からわかれた家柄とも考えられている

佐伯直(さえきのあたい)氏には古代豪族「大伴氏」から派生した伴氏とされる説が在る一方、景行大王(けいこうおおきみ/古事記・日本書紀で第十二代と記される天皇)の皇子・稲背入彦命(いなせいりびこのみこ)の末裔が臣籍降下して播磨国造(はりまくにのみやっこ)になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓と成った。

この裔に讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)が居り、その直田公(あたいのたぎみ)と物部氏の分流と伝えられる阿刀(あと)氏の娘・玉依御前(たまよりごぜん)との間に弘法大師(空海)は生まれた。

尚、弘法大師(空海)の父・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)は別称が善通(よしみち)で、佐伯直善通(あたいのよしみち)とも申した。

この直善通(あたいのよしみち/佐伯直田公)の名・善通を採って四国真言宗善通寺派総本山・善通寺(香川県善通寺市/令制国・讃岐国)は真言宗開祖・弘法大師(空海)の父である佐伯善通を開基としている。

佐伯直豊雄らの系譜主張と伴善男

『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事です。
 すなわち、讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫、故従五位下鈴伎麻呂・書博士豊雄らの故人を含む一族十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に移貫したという記事ですが、この賜姓にあたり、当時正三位中納言兼民部卿の地位にあったあった伴善男が、正六位下書博士佐伯直豊雄の系譜の主張を家記に照らして検討するに偽りではないと奏言したので、これに従った措置であると同書に記されております。

上記貞観三年の記事では、佐伯直豊雄らの系譜は、先祖を大伴健日連とし、この者が景行天皇の御世に倭武命に随行して東国平定に勲功があったことで讃岐国を賜り私宅としたが、その子孫の室屋大連の第一男御物宿祢の子孫の倭胡連が允恭天皇の御世に讃岐国造となったと主張し、同族の玄蕃頭真持等(讃岐佐伯直の本宗たる道長〔田公の兄〕の子・孫か)が既に京兆に貫し宿祢姓を賜っているので、この例にならい田公の子・孫も同様に改姓改居の待遇を求めたものと記されています。

『姓氏録』右京皇別の佐伯直条の記事が参考になります。同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。佐伯は針間のほか、安芸や阿波・讃岐・伊予の五国に分散して配置されたとあります

この裔に讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)が居り、その直田公(あたいのたぎみ)と物部氏の分流と伝えられる阿刀(あと)氏の娘・玉依御前(たまよりごぜん)との間に弘法大師(空海)は生まれた。

尚、弘法大師(空海)の父・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)は別称が善通(よしみち)で、佐伯は部民(べみん)としての称号であり小領として治めた地名、直(あたい)が姓、田公(たきみ)が名、善通(よしみち)は別称で、直善通(あたいのよしみち)とも申した。

この直善通(あたいのよしみち/佐伯直田公)の名・善通を採って四国真言宗善通寺派総本山・善通寺(香川県善通寺市/令制国・讃岐国)は真言宗開祖・弘法大師(空海)の父である佐伯善通を開基としている。

空海の母については、八世紀後半に伊予親王の侍講を務めた阿刀宿祢大足の姉妹といわれますが、このことは、『続日本後紀』の承和二年三月二三日条に空海の遷化記事に「舅従五位下阿刀宿祢大足」と見えます。後世の『元亨釈書』にも釈空海の父は佐伯氏の田公で、母は阿刀氏と見えます。上記空海関係系図では、真足の子に空海母をあげ、その弟に大足をあげますが、『百家系図』巻46所収の阿刀宿祢系図では、弓張の兄弟姉妹として大足・空海母をあげます。このように諸伝ありますが、年代や名前・職掌などから考えると、弓張の子が真足で、その下に空海母・大足をあげるのが妥当なようです。
阿刀大足の子孫は高野山の慈尊院政所中橋氏になったと伝え、中橋系図も『百家系図』巻47に所収されますが、ごく簡単なものです。

推古元年(593年)に、安芸国佐伯の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのが厳島神社の縁起である。文献にその名が初めて認められるのは弘仁2年(811年)となる。その後厳島神社の神主家は佐伯氏が世襲していた。平安時代の末期の神主家の当主であった佐伯景弘は、平氏一門に取り入り、厳島神社は平家の保護を受け、大変栄えた。

『古屋家家譜』甲斐一宮浅間神社宮司家で伴氏名族とされた古屋家の家譜である。
高皇産霊尊−安牟須比命−香都知命(紀国名草郡)−天雷命(名草郡)−天石門別安国玉主命(名草郡)−
天押日命−天押人命−天日咋命−刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命−道臣命(名草郡)本名日臣命−味日命−推日命−大日命−角日命−豊日命−武日命−建持連公−室屋大連公−金村大連公−狭手彦−

佐伯宿禰・佐伯首 室屋大連公之後、佐伯日奉造・佐伯造 談(室屋の弟)之後

大伴連室屋(父;大伴武持 母;不明)–大伴連談–大伴歌(兄弟:金村)–

大伴連室屋の孫の倭胡は14允恭朝、讃岐国造

空海:佐伯真魚 大伴連談の子「歌」の9代孫。

歌の4代孫にあたる「大人又は大入」は、12景行天皇の末裔である「佐伯那賀児」の血筋からの入り婿である。よって空海は大伴系ではなく「皇別氏族」である。という説が現在も「空海」を中心に考える人々に強く支持されているようである。
大伴氏系を中心に考える人は、空海は大伴氏から分派した佐伯氏の末裔と主張している。

大伴連室屋(父;大伴武持 母;不明)–大伴連談–大伴歌(兄弟:金村)–佐伯平曾古–平彦–伊能–大人–木只都–男足–田公–空海

空海の母については、八世紀後半に伊予親王の侍講を務めた阿刀宿祢大足の姉妹といわれますが、このことは、『続日本後紀』の承和二年三月二三日条に空海の遷化記事に「舅従五位下阿刀宿祢大足」と見えます。後世の『元亨釈書』にも釈空海の父は佐伯氏の田公で、母は阿刀氏と見えます。上記空海関係系図では、真足の子に空海母をあげ、その弟に大足をあげますが、『百家系図』巻46所収の阿刀宿祢系図では、弓張の兄弟姉妹として大足・空海母をあげます。このように諸伝ありますが、年代や名前・職掌などから考えると、弓張の子が真足で、その下に空海母・大足をあげるのが妥当なようです。

佐伯今毛人(さえきのいまえみし、養老3年(719年) – 延暦9年10月3日(790年11月17日))は奈良時代の貴族。今蝦夷とも表記する。初名は若子。右衛士督佐伯人足の子。兄に佐伯真守。子に金山・三野がいる。正三位・参議。

佐伯今毛人
紫香楽宮造営司に主典として出向したのを皮切りに以後東大寺や西大寺の造営、長岡京遷都の任に当たるなど主に建築や造営の面で活躍した。特に東大寺造営における天皇の評価は高く異例の七階の特進をしている。

天平宝字7年(763年)今毛人は藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと、当時、太師(太政大臣)となり専横を極めていた恵美押勝(藤原仲麻呂)の暗殺を謀議するが、密告により露見。藤原良継が罪を一人で被ったため、今毛人は解官のみで助けられる。恵美押勝は翌天平宝字8年(764年)に乱を起こして滅びている(藤原仲麻呂の乱)。

宝亀6年(775年)、第16次の遣唐大使に任命される。宝亀8年(777年)4月、節刀を賜り再度(前年は大宰府から引き返している)出発したが羅城門までくると病になり渡航を断念し摂津に留まることとなった。なお、この16次遣唐使は今毛人に代わって大使の任務を代行した副使小野石根と唐使趙宝英が乗船していた第1船が帰路遭難し両名は死亡している
養老3年(719年) – 生誕。初名は若子
天平19年(747年) – 今毛人に改名

紫香楽宮造営司に主典として出向したのを皮切りに以後東大寺や西大寺の造営、長岡京遷都の任に当たるなど主に建築や造営の面で活躍した。特に東大寺造営における天皇の評価は高く、異例の七階の特進をしている。

天平宝字7年(763年)今毛人は藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと、当時、太師(太政大臣)となり専横を極めていた恵美押勝(藤原仲麻呂)の暗殺を謀議するが、密告により露見。藤原良継が罪を一人で被ったため、今毛人は解官のみで助けられる。恵美押勝は翌天平宝字8年(764年)に乱を起こして滅びている(藤原仲麻呂の乱)。

養老3年(719年) – 生誕。初名は若子。
天平12年(740年) – 舎人となり出仕。正八位下。
天平14年(742年) – 紫香楽宮造営司主典。
天平17年(745年) – 従七位下。
天平18年(746年) – 従七位上。
天平19年(747年) – 今毛人に改名。
天平20年(748年) – 造東大寺司次官。
天平勝宝元年(749年) – 大倭介兼任。七階特進し従五位下。
天平勝宝2年(750年) – 孝謙天皇東大寺へ行幸。正五位上。
天平勝宝7歳(755年) – 造東大寺長官。
天平宝字元年(757年) – 従四位下。
天平宝字3年(759年) – 摂津大夫。
天平宝字7年(763年) – 造東大寺長官に再任。同年藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと恵美押勝の暗殺を謀議し失敗したことにより解官。
天平宝字8年(764年) – 営城監に任じられ大宰府に赴任。同年肥前守兼任。
天平神護元年(765年) – 大宰大弐に補任。怡土城を築く専知官を兼ねる。
神護景雲元年(767年) – 大宰府より帰京。造西大寺長官。同年左大弁兼任。
神護景雲3年(769年) – 因幡守を兼任。同年、従四位上。
宝亀元年(770年) – 播磨守を兼ねる。同年、称徳天皇が崩御し天皇の寵愛深かった太政大臣禅師道鏡が失脚。今毛人は道鏡を下野国薬師寺別当へ進発せしめる。同年、三たび造東大寺長官を兼ねる。
宝亀2年(771年) – 正四位下。
宝亀6年(775年) – 遣唐大使に任命。
宝亀7年(776年) – 4月、大使として節刀を賜り大宰府に行く。11月になって大宰府から都へ還り節刀を返上する。
宝亀8年(777年)- 4月、今毛人は再び節刀を賜り出発するが病のため摂津に滞留。副使の小野石根が大使の任務を代行。今毛人は左大弁を辞して静養。
宝亀10年(779年) – 大宰大弐に補任され大宰府に赴任。
天応元年(781年) – 正四位上。
延暦元年(782年) – 帰京して左大弁に再任され大和守兼任。同年、従三位。
延暦2年(783年) – 皇后宮大夫兼任。
延暦3年(784年) – 桓武天皇は山城国長岡の地に遷都を計画。今毛人は同地を視察し、造長岡宮使に任じられる。同年、参議に補任。
延暦4年(785年) – 正三位。民部卿兼任。
延暦5年(786年) – 大宰帥兼任。
延暦8年(789年) – 致仕(官職を退き引退すること)を上表。
延暦9年(790年) – 薨去。享年72。

『日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である(小野毛人や佐伯今毛人、鴨蝦夷らも「えみし」を名として使用している)。蝦夷は蔑称であり、毛人が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。

『姓氏録』右京皇別の佐伯直条の記事が参考になります。同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。
御諸別命は毛野一族の針間鴨国造の祖であって、この御諸別命と、稲背入彦命の男で針間国造の祖である阿良都命とが針間を中分したものではないかと思われます。阿良都命が『播磨国風土記』神前郡多駝里条に見える品太(応神)天皇のときの佐伯部らの始祖阿我乃古と同人とすれば、世代的に御諸別命を入れる必要もなく、こう考えたほうが文意が通ります。仁徳紀四十年条には、播磨佐伯直阿俄能古らが隼別皇子を討ったと見えますが、『古事記』は山部大楯連という別人の名をあげますから、仁徳紀の記事は疑問があります。「国造本紀」では、成務朝に稲背入彦命の「孫」伊許自別命が針間国造を賜るとあり、御穂別命(御諸別命に当たる)の児・市入別命が針間鴨国造を賜るとあります。

阿刀氏

また平安時代初期、弘仁6年(815年)の『新撰姓氏録』では以下の氏族が記載されている。

左京 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上同祖。
山城国 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
山城国 神別 天神 阿刀連 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
摂津国 神別 天神 阿刀連 – 神饒速日命の後。
和泉国 神別 天神 阿刀連 – 釆女臣同祖。
なお『太子伝玉林抄』所引の『新撰姓氏録』左京神別阿刀宿禰条逸文によれば、大和国城上郡椿市村(奈良県桜井市金屋)にも阿刀連があったという[1]。

このように阿刀氏は物部氏(のち石上氏)と同祖伝承を有している。その氏名は物部守屋の別業があったと伝えられる阿都(のちの河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺)の地名に基づくとされる[1]。また、人物の初見が天武天皇元年(672年)であることから、その頃に物部氏から分派したという説がある。
社名「阿刀」に見えるように、当社は古代氏族・阿刀氏(あとうじ)の氏神社とされる。阿刀氏に関しては『新撰姓氏録』(815年)で山城国に「阿刀宿禰」「阿刀連」の記載があり、それぞれ石上朝臣(物部氏)の支族で、饒速日命の孫・味饒田命の後裔であるとしている。阿刀氏は河内国渋川郡跡部(現在の大阪府八尾市の跡部神社周辺)を本拠としたが、平安京への遷都による移住に伴い、祖神を当地に遷したという。

居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ[、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる。

跡部神社 (大阪府八尾市) – 河内国渋川郡の式内社。阿刀氏の氏名発祥地とみられる。
阿刀神社 (京都府京都市右京区) – 山城国葛野郡の式内社。阿刀氏の氏神社とされる。

法相宗の流れをくむ学者の一人が、空海の母方の伯父である阿刀大足。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を勤めただけでなく、空海にも教えていました。つまり伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それゆえ、空海は南都六宗のありかたを批判することはあっても、友好的な関係を保ち続け、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。当時、宗教界においては圧倒的な勢力を誇る阿刀氏の出であり、天皇をはじめとする朝廷と、南都六宗で一番の勢力を持つ法相宗、双方の人脈に恵まれた空海は、国家の平和と皇室の大安を願いつつ、自ら立ち上がります。そして天皇の篤い信任を得て、それまで誰も手がけることができなかった難しいプロジェクトを朝廷より賜ることになります。

阿刀氏は安斗氏とも書き、物部氏の系列の氏族です。平安遷都の際に、阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました。
明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の子孫にあたります。平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています。古文書の解釈は不透明な部分も多く、「先代旧事本紀」などは、その序文の内容からして偽書とみなされることもありますが、物部氏の祖神である饒速日命に関する記述については信憑性が高いと考えられます。その結果、明治15年ごろ、京都府により編纂された神社明細帳には、阿刀宿禰祖味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されることになりました。阿刀氏の出自が、国生みに直接深くかかわった饒速日命の直系であることは、大変重要な意味を持ちます。
さらに「先代旧事本紀」には、饒速日命と神宝との関わりについても多くの記述が含まれていることに注目です。その内容を日本書紀、古事記と照らし合わせて読むことにより、饒速日命の役目がより明確になります。まず日本書記によると、天照大神から統治権の証として神宝を授かった饒速日尊は、弟の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向の高千穂峰に降臨する前に、船で河内国に天下り、その後、大和に移ったとされています。「先代旧事本紀」によると、この神宝は天神御祖(アマツカミミオヤ)から授けられた2種の鏡、1種の剣、4種の玉、そして3種の比礼であり、「瑞宝十種(ミズノタカラトクサ)」であると具体的に記されています。その後、神武天皇が即位する際、饒速日命は瑞宝十種を譲渡し、天皇の臣下として即位の儀式を執り行い、天皇家に関わる各種の定めを決めることに貢献しました。

『先代旧事本紀』国造本紀

末羅(マツラ)国造(長崎県松浦)
物部氏の同族・穂積臣の同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉命

小市 (オイチ)国造(愛媛県越智)
物部連と同祖の大新川(オオニイカワ)命の孫の子致(コチ)命

熊野(クマノ)国造(和歌山県熊野地方)
饒速日命の五世孫の大阿斗足尼

阿刀宿禰大足 (あとのすくねおおたり)

空海の母方の叔父。
『続日本後紀』承和二年三月二十五日条に、空海は十五歳のとき讃岐国から上京し、大足のもとで学んだことが見える。従五位下だったという。

安都宿禰笠主 (あとのすくねかさぬし)

延暦十六年二月十七日、撰日本紀所への出仕により位二階を叙された。ときに太政官史生、従七位下。(日本後紀)

安都宿禰年足 (あとのすくねとしたり)

大和国佐保河畔の人。
『万葉集』巻第四に「安都宿禰年足が歌一首」がある。

安都宿禰豊嶋 (あとのすくねとよしま)

神護景雲二年七月三十日、正六位上より外従五位下に叙せられた。(続紀)
称徳天皇に仕えた女官か。

安都宿禰豊永 (あとのすくねとよなが)

大同元年二月十五日、正六位上より外五位下へ叙された。(日本後紀)

安都宿禰長人 (あとのすくねながひと)

延暦十年正月七日、正六位上より外従五位下に叙せられ、同月二十八日、主税助に任ぜられた。
同年七月二十九日、右京亮に任ぜられた。(続紀)

阿刀宿禰真足 (あとのすくねまたり)

安都宿禰真足。
宝亀二年十一月、正六位上より外従五位下に叙せられ、宝亀三年四月二十日、大学助に任ぜられた。
同五年三月五日、安芸介。
延暦元年六月二十日、再び大学助。
同二年十一月十二日、主計頭に任ぜられ、同三年正月七日、従五位下に任ぜられた。(続紀)

阿刀造子老 (あとのみやつここおゆ)

左京の人。
神護景雲三年七月十七日、阿刀宿禰の姓を賜った。(続紀)

安斗連阿加布 (あとのむらじあかふ)

天武元年六月、壬申の乱に際し、大海人皇子に従って東海道諸国の軍兵の徴発にあたった。(紀)

阿刀連粟麻呂 (あとのむらじあわまろ)

左京の人。
貞観六年八月八日、阿刀宿祢石成・阿刀連祢守・阿刀物部貞範らとともに、良階宿禰の姓を賜った。ときに玄蕃大允、正六位上。(三代実録)

阿刀連生羽 (あとのむらじいくは)
摂津国豊嶋郡の人・迹連継麻呂らの祖。
承和十年十二月四日条に従七位上と見える。天平年間、その子孫の乙浄の時、迹の一字を姓としたという。(続日本後紀)

→迹連継麻呂

迹連乙浄 (あとのむらじおときよ)

摂津国豊嶋郡の人・迹連継麻呂らの祖父。極位は従七位上。
『続日本後紀』承和十年十二月四日条に、乙浄はもと阿刀連だったが、天平年間に誤って迹の一字を以って姓としたので、このとき継麻呂ら同族七十人が訴え出て、庚午年籍によって検じ元の姓に復したとある。

→阿刀連生羽

阿刀連薬 (あとのむらじくすり)

朱鳥元年正月十四日、難波で火災があり宮室がことごとく焼けた。大蔵省での失火が原因であったが、阿刀連薬の家の失火を原因とする風聞もあったという。(紀)

安斗連智徳 (あとのむらじちとこ)

安斗は阿刀とも。
天武元年六月、壬申の乱に際し、大海人皇子に従って東国に赴いた舎人の一人。(紀)
和銅元年正月十一日、正六位上より従五位下に叙せられた。ときに姓は阿刀宿禰とある。(続紀)
『釈日本紀』十五にその日記が引かれ、壬申の乱に天皇が戦術を唐人に問うたことが見え、傍注に従五位下と見える。

迹連継麻呂 (あとのむらじつぐまろ)

摂津国豊嶋郡の人。
承和十年十二月四日、祖父の阿刀連乙浄が天平年間に誤って迹の一字を以って姓としていたため、同族七十人とともに阿刀連に復することを願い出た。庚午年籍によって検した結果、これを許されたという。ときに左衛門府の門部、正八位上。(続日本後紀)

→迹連乙浄

阿刀連人足 (あとのむらじひとたり)

養老三年五月十五日、宿禰の姓を賜った。(続紀)

阿刀物部貞範 (あともののべのさだのり)

摂津国西成郡の人。陰陽允。
貞観四年七月二十八日、本貫を左京に移す。
同六年八月八日、良階宿禰の姓を賜る。
同十一年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられた。(三代実録)

阿比太連 (あびたのむらじ)

弥加利(御狩)大連の後裔。阿比大連と読む説がある。
家の傍らに大俣の楊樹があり、巻向宮に聖徳太子が巡幸したときこれにちなんで、阿比太に大俣連の姓を与えた。大椋(おおくら)官に任じられていたという。(録)

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空海の時代

 佐伯今毛人は聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武といった歴代天皇に仕え、ことに建築や土木の分野では右に出る者のいない能吏であった(※5)。こうしたことから延暦三年(784)、彼は佐伯氏出身者としては先後に例のない参議の地位にまで昇り、かつ、翌年には門閥貴族出身者ではない者としては極めて異例な、正三位を授けた
 今毛人が参議になった頃、空海はまだ10歳であった。

愚説
「もう一つの伝説  若き日の空海に漢学を教えた伯父、阿刀大足
は、空海の母の兄であったと云われる、この阿刀氏の一族については、物部氏系説と渡来人の秦氏系説との説がある、京都市在住の阿刀氏の末裔は、渡来人説をとったといわれる。一方父方の佐伯直田公の家系は、有名な大伴氏に連なる名門で、かって日本武尊に従って東国に遠征し、その功績を認め、讃岐地方を賜ったという。しかし、実際には、田公の属する佐伯直は、大和朝廷の地方官、国造の系統であり、大伴氏を出口とする佐伯連とは別系統で、佐伯とは、大和朝廷によって囚われの身となり、隷民として播磨、讃岐などに配置された東国の民をさし、それを統轄していたのが佐伯直であった。
『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事です。
 すなわち、讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫、故従五位下鈴伎麻呂・書博士豊雄らの故人を含む一族十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に移貫したという記事

佐伯直豊雄らの系譜は、先祖を大伴健日連とし、この者が景行天皇の御世に倭武命に随行して東国平定に勲功があったことで讃岐国を賜り私宅としたが、その子孫の室屋大連の第一男御物宿祢の子孫の倭胡連が允恭天皇の御世に讃岐国造となったと主張し、同族の玄蕃頭真持等(讃岐佐伯直の本宗たる道長〔田公の兄〕の子・孫か)が既に京兆に貫し宿祢姓を賜っているので、この例にならい田公の子・孫も同様に改姓改居の待遇を求めたものと記されています。
しかし、大伴健日連が讃岐国を賜ったことは事実ではなく、室屋大連は允恭〜雄略・顕宗朝の重臣であり、その子の御物宿祢は佐伯連・林連の祖となったものの、讃岐の佐伯直とは無関係

送別 (八)

「私が唐に来たのは、あなたが生まれた頃でした。そして、あなたのご一族の佐伯の 今毛人が、遣唐使に任命されたのです。・・・・もう遠い昔になりました」
佐伯今毛人は、空海の父である佐伯の 田公のいとこに当たる。大使に任命されたけれども、実際には渡唐できなかった。
空海は幼時、渡航の風濤の物語をよく聞かされた。佐伯今毛人がその物語の主人公であったはいうまでもない。
一族の希望の星であった佐伯今毛人が、遣唐大使に任命されたのは、空海が生まれた翌年のことだった。永忠の乗った船は、その時唐にたどり着くことが出来たのである。
「昔ですねえ」
と、空海はうなずいた。
「私が入唐するすこし前に、不空三蔵が入滅されたのですよ」
「不空菩薩入滅の日に、私が生まれました」
「ほう。・・・・」
永忠は空海のおよその年齢を知っていたが、生年月日までは知らなかった。
「私が入唐して、あなたが唐を去って帰国なされる。・・・・縁でございますな」
「浅からぬ縁です。今日まで私が住んでいた部屋に、明日から空海さんがお入りになる。・・・・橘さんはその隣の部屋です。ご案内しましょう」
「お願いいたします」
空海と橘逸勢とは、永忠のうしろについて境内を歩いた。
「みごとな伽藍でありますなあ。・・・・」
橘逸勢はあたりを見まわして言った。
「天竺の祇園精舎を模した配置ですが、どうもきらびやかすぎるのではないかという気がします。たとえばあれなども・・・・」
永忠は南の方の壁を指した。
「なるほど、色がねえ・・・・」
と、空海は言った。
釈尊と脇侍菩薩ぼが一対いつつい 描かれているが、色彩が鮮やか過ぎて仏寺の壁画にしては深味がない。
唐末の美術評論家の張ちょう 彦遠げんえん も、この西門南壁の楊延光えがく壁画については、
── 色を成して損ず。
と、評している。色彩のために、雰囲気をこわしているというのだ。
「大安寺を思い出しました」
回廊に入ったところで、空海は振り返ってそう言った。
奈良の大安寺は、もとの百済くだら 大寺が天武天皇の時大官大寺となったが、天平時代に南都に移されるとき、唐から帰った道慈どうじ が造営をつかさどった。そのとき、長安のこの西明寺の図面に従ったといわれている。

『曼荼羅の人』 著: 陳 舜臣 発行所:毎日新聞

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