伊勢国、伊勢麻積、麻績王、

<日本書紀 垂仁天皇二五年三月条>

(垂仁天皇二五年)三月丁亥朔丙申。離天照大神於豊耜入姫命。託于倭姫命。
爰倭姫命求鎮坐大神之処。而詣莵田筱幡。筱此云佐佐。
更還之入近江国。東廻美濃、到伊勢国。時天照大神誨倭姫命曰。

是神風伊勢国。則常世之浪重浪帰国也。傍国可怜国也。欲居是国。
故随大神教。其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。
則天照大神始自天降之処也。

一云。天皇以倭姫命為御杖。貢奉於天照大神。
是以倭姫命以天照大神。鎮坐於磯城厳橿之本而祠之。
然後随神誨。取丁巳年冬十月甲子。遷于伊勢国渡遇宮。

(垂仁天皇二五年の)三月の丁亥の朔丙申に、
天照大神を豊耜入姫命より離ちまつりて、倭姫命につけたまふ。
ここに倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、莵田の筱幡(ささはた)にいたる。
筱、此をば佐佐(ささ)といふ。

さらにかへりて近江国に入りて、東、美濃を廻りて、伊勢国に到る。
時に天照大神、倭姫命にをしへて曰はく、
「 この神風の伊勢国は、常世の浪のしきなみ帰する国なり。
傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。この国に居をらむと欲ふ 」とのたまふ。

故、大神の教のまにまに、その祠を伊勢国に立てたまふ。
よりて斎宮を五十鈴の川上にたつ。これを磯宮(いそのみや)と謂ふ。
則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。

一に云はく、天皇、倭姫命を以て御杖として、天照大神に貢奉りたまふ。
ここを以て、倭姫命、天照大神を以て、磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祠る。
しかうして後に、神のをしへのまにまに、丁巳の年の冬十月の甲子を取りて、
伊勢国の渡遇宮(わたらひのみや)に遷しまつる。

<古事記 崇神天皇の条>
妹豊鋤比賣命、拜祭伊勢大神之宮也

崇神天皇の妹、豊鋤比賣命は、伊勢大神の宮を拝き祭りき。

<日本書紀 崇神天皇七年八月条>

秋八月癸卯朔己酉。倭迹速神淺茅原目妙姫。穗積臣遠祖大水口宿禰。伊勢麻績君。
三人共同夢而奏言。昨夜夢之。有一貴人。誨曰。以大田田根子命爲祭大物主大神之主。
亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神之主。必天下太平矣。

倭迹速神浅茅原目妙姫・穂積臣の遠祖大水口宿禰・伊勢麻積君、
三人、共に夢を同じくして、奏して言さく、

「昨夜夢みらく、一の貴人有りて、誨へて曰へらく、
『大田田根子命を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市を以て、
倭大国魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ』といへり」まうした

※倭迹速神浅茅原目妙姫=倭迹迹日百襲姫とされている

日本書紀の方では、第10代の崇神天皇の条で、
「伊勢」の語句が出てくるのは上記1箇所のみです。
日本書紀で次に「伊勢」が出てくるのは、第11代の垂仁天皇25年の条です。

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麻積 おみ
<古語拾遺より>

全ての大幣を造る者は神代の職に依るべきである。
斎部の官は供を作る諸氏を率いて例に准じ造り備えた。

そうであるなら、神祇官の神部を
中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏で有るべきである。
然るに今は中臣・斎部等の二三の氏ののみがあり、それ以外の氏は考選に預かる事はない。
神の裔の散り失せて、その裔が絶えようとしている。
忘れられたところの十目である。

太玉神に諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせ、

石凝姥神(イシコリドメノカミ)
[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である。]
に天香山(アメノカグヤマ)の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、

長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で
今の世で衣服の事を白羽と言うのは この事が始まりである。]
に麻で青和幣(アオニギテ)[古くは爾伎弖]を作らせ、

天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて
白和幣(シロニギテ)を作らせ [是は木綿である。神の作物は一夜で茂る。]、
天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖である。]に文布を 織らせ、
天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。 所謂、和衣(ニギタエ)である。

▼神麻績機殿神社(三重県松阪市井口中町)

倭姫命が御巡幸の時、飯野の高宮に皇太神を奉祭したおり、
長田郷に機殿を立て、麻績社または河崎社と号し、
後に、岸村に遷して岸社と称したという。

その後、衰退していたが
天武天皇の御代に、流田郷服村に神服織機殿神社と合わせて一殿として再建。
天智天皇八年に焼失し、その後、両殿を離して再建。
さらに白河天皇承暦三年、飯野郡井手郷に遷されたという。

その後も荒廃が続いたが、最終的に享保三年に津藩主藤堂氏によって再興された。

皇大神宮に奉る神御衣を織る御機殿の鎮守の神を祀る神社で、皇大神宮所管社。

式内社・麻續神社の論社。

「麻績王」の悲劇を詠った二十三・四歌は、壬申の乱・冬の陣を詠った三歌の前に置かれている。ということは、これらは、壬申の乱の前に起きた出来事であること????

持統天皇の国府(こう)行幸の際、詠まれた歌がある。
長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)の詠んだ「引馬野ににほふ榛原入り乱り衣にほはせ旅のしるしに」と、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)の詠んだ「何処にか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し」という歌が万葉集に見られる。歌碑は「宝飯郡(現・豊川市)御津町御馬・引馬神社境内」他数か所にある。

麻績王(おみおう)による「うつせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島に玉藻刈りをす」という歌があり、その歌碑が伊良湖岬の灯台上の草原にある。

長白羽命

 垂仁天皇の御代、竹連・竹氏という豪族、連は姓の祖、宇迦之日子の子、吉日子が天 照大神の奉行に供奉して、この地に留まり、孝徳天皇の御代に至って、竹郡創建の際 に、その末裔が当社を創祀した。竹吉日子については、「皇太神宮儀式帳」に、竹の 首吉比古の名がみえ、神社は櫛田川の古流祓川の東岸台地である竹川字中垣内(ふる さと地区)に祀られていた式内社である。斎王制度が固まっていくとともに、地名も 「竹の都」から「斎宮」に変わっていった。

「斎宮」には「斎王」がおられ、天皇に 代わって、伊勢の神宮に仕えた。その役所である屯倉斎宮寮には往時500余人を数 える官人がおり、内院、中院、外院と17の社が祀られていた。斎王はこれらの社を 参拝せられた。「野々宮」もその一つであろう。天武天皇のとき、大伯皇女が斎王に 麻績氏が頭に任ぜられた。この麻績氏の祖が、長白羽命で当社の主祭神として祀られ ている。現在地の「野々宮」は「斎王の森」とともに斎王にゆかりの地であり、毎年 6月「斎王まつり」が行なわれる。

長白羽神
ながしらはのかみ

別名
天長白羽命:あめのながしらはのみこと
天白羽神/天之志良波神:あめのしらはのかみ
……
『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠れた時、麻を植えて青和幣を作った神。

伊勢の麻続氏の祖。天日鷲命の御子神とする説もあるらしい。 また、天八坂彦命の別名とする説もある。

神麻續機殿神社。皇大神宮所管社。 
三重県松阪市井口中町。 
祭神:天八坂彦。

天八坂彦命。 
コモリの第8男。 
テルヒコと共にアスカへ下る。 
三重県松阪市井口中町、神麻続機殿 (カンオミハタドノ) 神社。