本居宣長は『三国志』の卑弥呼をもって、南九州の女酋とし、卑弥呼は近畿大和の神功皇后の名を “かたって” 中国(魏)に朝貢した、と推論。
名称上の「ヤマト=大和」と道里(道程)上の九州を折衷しようとした宣長は南九州の女酋(卑弥呼)が、「大和朝廷」を「偽僭」する存在として位置づけ、大和朝廷とは異なった他の別の王権を考えた。
鶴峯は、師の説を学びこの「熊襲偽僭説」に着目・執着して、それまでの国内・朝鮮の諸本を参考にして『襲国偽潜考』を著すに至った。
『襲国偽潜考』は明治直前、1834年出版された。九州の南隅の別王朝(小王朝)の存在を明かすべく『襲国偽僭考』を著し、その中で「九州年号」の概念を導き出したのです。
継体天皇十六年。武王。年を建て。善記といふ。
是九州年号のはじめなり。
年号
九州年号。けだし善記より大長にいたりて。およそ一百七十七
年。其間年号連綿たり。麗気記私抄。また海東諸国記などにも
これを載せ。今伊予国の温泉銘にも用い。如是院年代記にも朱
書して出せり。しかれども諸書載るところ異同多し。今あわせし
るして参考に備ふること左記のごとし。
・・略・・・・
大長
文武天皇二年戊戌。大長元年とす。一説(ニ)曰。文武天皇之
時。大長。又曰。按戊戌(ヲ)元年と為す。右大化以後(ノ)年号。
九州年号ここに終る。今本文に引所は。九州年号に題したる古
写本によるものなり。
と鶴峯は書いている。