海東諸国紀と古代逸年号

李朝第九代成宗(在位1469年~1494年)の朝廷の高官「申叔舟シン・スクチュ」が作成した『海東諸国紀』。

申叔舟シン・スクチュは、ひろく経史に通じ、詩文をよくし、政治的見識がたかく、外交と文教を主宰し、死に臨み、王・成宗の問いに「願わくは国家、日本と和を失うことなかれ」と答えた。

日本の都までの航路が描かれ、日本国対馬の図などで有名である。
日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・通交の実情等を克明に記述した総合的研究書である。
1471(朝鮮成宗二、日本文明三)年に朝鮮議政府領議政申叔舟(シンスクチュ)が王命を奉じて撰進した書物・・・」と記されている。
李朝朝鮮が日本及び琉球との外交のための実務書として作成したものらしい。

初めに、つぎのように書いている。

夫れ交隣聘問し、殊俗を撫接するは必ず其の情を知り、然る後以て其の礼を尽すべし。其の礼を尽し、然る後以て其の心を尽すべし。我が主上殿下臣叔舟に海東諸国朝聘往来の旧、館穀礼接の例を撰するを命ず。以来、命を受けて祗栗(おそれ)謹んで旧籍を稽(かんが)え、之を参ねて見聞し、其の地勢を図り、略世係の源委(もととすえ)、風土の所尚を叙べ、以て我が応接の節目に至り、裒輯(ほうしゅう=あつめる)して書を為り、以て進む。
臣叔舟は久しく典礼の官たり。且つ嘗て渡海して躬ら其の地に渡る。
島居の星散、風俗の殊異は、今、是の書を為るも終に其の要領を得ること能わず。然れども、是に因り其の梗概を知らん。庶幾(こいねがわくば)、以て其の情を探り、其の礼を酌みて、其の心を収むべし。
窃に観るに、国の東海に中にあるものは一に非ず。

而して、日本は最も久しく且つ大なり。
其の地は黒竜江の北に始まり、我が済州の南に至り、琉球と相接し、其の勢甚だ長し。厥の初は、処処に聚(しゅう=あつまる)を保ち各自ら国を為る。
周の平王四十八年(紀元前723年)、其の始祖、狭野、兵を起こして誅討(うちころ)し、始めて州都を置く。
大臣各占めて分治するも、中国の封建の猶(ごと)くは統属、不甚(はなはだしからず)。
習性は強悍にして剣槊(けんさく=けんとほこ)に精なり。舟楫に慣れ、我と海を隔てて相望む。之を撫するに其の道を得ば、則ち朝聘は礼を以てし、其の道を失えば、則ち輒(すなわち)に肆(つらね)に剽窃せん。
前朝(高麗王朝)の季(すえ)、国乱れ政紊れ、之を撫するに道を失い遂に辺患(倭寇など)を為す。沿海数千里の地、廃して榛莽(しんぼう=草やぶ)と為る。

(以下略、李朝の開国と徳と道理など~)
次に、海東諸国総図、など日本・琉球地図などと目録などが掲載されています。23p~54P

・人皇の始祖は神武天皇なり。名は狭野。地神の末主彦瀲尊の第四子。母は玉依姫。俗に海神の女と称す。庚午の歳以て生まる。周の幽王十一年(前771年)なり。四十九年戊午(前663年)、大倭州に入り、尽く中洲の賊衆を除く。五十二年辛酉正月庚申(前660年)始めて天皇を号す。百十年己未(前602年)国都を定む。在位七十六年。寿百二十七。

・綏靖天皇。神武の第三子なり。神武崩じてより四年兄弟共に国事治む。辛巳(前560年)正月即位。在位三十三年寿百二十七.。

・安寧天皇。綏靖の太子。元年は庚寅(前547年)在位三十八年寿八十四。
・懿徳天皇。安寧の第三子。元年壬辰(前509年)在位三十四年寿八十四。
・孝昭天皇。懿徳太子。元年丙寅(前475年)在位八十三年寿百十八。
・孝安天皇。孝昭の第二子元年己丑(前392年)在位百二年寿百三十七。
・孝霊天皇。孝安の太子元年辛未(前290年)七十二年壬午(前219年)、秦の始皇帝徐福を遣わし、海に入り仙福を求めしむ。遂に紀伊州に至りて居す。在位七十六年寿百十五。. (日本書紀には徐福の記事はない。)
・孝元天皇。孝霊の太子元年丁亥(前214年)在位五十七年寿百十七.。

57p 以下 略

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「海東諸国紀」に記された古代逸年号
「海東諸国紀」は『日本国紀』からはじまる。
天神七代、地神五代の後人皇神武天皇から第102代後花園天皇(在位委:1428年~1464年)まで列挙されている。
その中に継体天皇以降干支年以外に年号が登場している。
継体天皇の項には、「継体天皇、応神五世の孫なり。名は彦主人なり。
元年は丁亥。十六年壬寅、始めて年号を建て善化と為す。
五年丙午、正和と改元す。
六年辛亥、発倒と改元す。
二月歿す。在位二十五年。寿八十二。」
継体帝在位中に善化、正和、発倒の三年号が使用されている。
第42代文武天皇の項には、
「元年は丁酉。明年戊戌、大長と改元し、律令を定む。
四年辛丑、大宝と改元す。」
文武四年にはじめて日本の正史の記述と一致した年号大宝が現れている。
つまり継体十六年の善化から文武二年の大長までは逸年号ということになる。

文政三年(1820年)に成立したと言われる鶴峯戊申著「襲国偽僭考」には、
この年号について
「継体天皇十六年。武王。年を建て。善記といふ
 是九州年号のはじめなり」
と書かれている。

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有名な倭王武の上表文は「宋書・夷蛮伝・倭国条」に出てくる。
宋書とは別に「梁書・諸夷伝・倭条」には、
3世紀に魏に朝貢した邪馬臺国から
南朝斉の高祖明帝から倭王武が征東将軍を受号する5世紀末までが
通史的に述べられている。
邪馬臺国の部分は卑弥呼から臺与の共立まで
「魏志」を簡略化して書かれているようだ。
「正始中卑弥(呼が抜けている)死更立男王。
国中不服更相誅殺。
復立卑弥呼宗女臺与為王。」
魏の正始年間(240年~247年)に卑弥呼が死んでまた男王を立てた。
しかし国中が服さずまた互いに誅殺しあうようになった。
また卑弥呼の宗女である臺与を立てて王とした。
ここまでが邪馬臺国と呼ばれた倭国のことである。
続いてすぐに、
「其後復立男王並受中国爵命。
晋安帝時有倭王賛。」
臺与の後にまた男王が立ち中国から爵命を受けたという。

この頃の中国はすでに東晋(318年~420年)になっていた。
そして東晋の安帝(在位:397年~418年)の時に、倭の五王の最初の王である倭王賛(宋書では讃)がいたと記述されている。
その後東晋に代わった宋(420年~479年)に、倭の五王は朝貢を続ける。
梁書においては、倭の五王の五番目の倭王武が宋の次に起こる斉の高祖明帝(495年~498年)が即位した時に、征東将軍を受号するまで記述されている。

梁書に書かれている「倭国通史」は邪馬臺国が卑弥呼を共立した時から倭王武の5世紀末まで倭国が継続していたことを示している。