祖母山は宮崎と大分県境にそびえる秀麗な山である。神武天皇東遷の船軍が、和歌山県・紀州沖であらしに遭ったとき、故国の添利山(そほり山・祖母山)の神霊に海の平穏を祈念すると、荒れた海が静まった。以来祖母嶽大明神がまつられたという。祖母嶽神社の由来である。
豊後の大神氏の伝承
昔、このふもとの塩田の里に大(だい)太夫という長者がいた。その家に花の本(もと)という一人娘がいて美人の評判が高かった。求婚者が絶えなかったが、太夫は屋敷の続きに家屋を建て、付き添いの女人を一緒に置いて、大事に育てていた。
ある秋の夜、立烏帽子(たてえぼし)に狩衣(かりぎぬ)を着た立派な若者が訪れた。若者は毎夜現れ、花の本に優しく話しかけた。花の本もいつしかこの青年に心を許し、恋仲になってしまった。
やがてこのことは、父母の知るところとなった。両親は驚き、娘に若者のことを聞きただしたが、娘も若者の詳しい身元は知らなかった。
しかし、この山里に烏帽子・狩衣の若者がいるはずはない。母は一計を案じて、苧環(おだまき・糸を丸く巻いたもの)と針を渡し、若者が帰るとき、そっと襟の後ろに針を刺しておくように教えた。
その夜、娘は若者が帰るとき、母に教えられた通りにした。夜が明けると、父母は娘に数人の従者を付けて糸の行方をたどらせた。糸は延々と続いて祖母嶽の中腹にある大きな岩屋に入っていた。
岩屋の入り口に立つと、中からうめき声が聞こえた。娘は不安になって「あなたの姿を見ようと思い、ここまで来ました」と呼びかけた。すると岩屋の中から声がした。
「私はこの山の主の大蛇である。昨夜首に針が刺さって苦しんでいる」
娘は岩屋の中に入って、大蛇の首の針を抜いてやった。大蛇は「そなたが産む子は、九州で比類のない勇者になるだろう。大事に育てよ」と言って岩屋の奥にひき入り、二度と姿を見せなかった。花の本が産んだ子は、成長して胝大太(あかがりのだいた)惟基と呼ばれ、その名を知られた。その5代の子孫は、源平時代に源氏方の武士として勇名をはせた緒方三郎惟義であるという。
この説話は「平家物語」(下巻8)に出ている。
大分・豊後で平安時代から名を知られた
大神氏の祖は大太惟基で、その子孫が後に高千穂を治めた三田井氏である。
三つ麟 蛇の鱗と三本杉の統合紋
豊後大神氏は、宇佐八幡宮の大宮司であった 大神氏の一族で、祖大太(惟基)は高知尾明神の神子、あるいは祖母嶽大明神と堀河大納言伊周の女との間に生まれた 神子となっている。大神氏は大和大神神社とも関係があり、大神神社の神紋である三本杉を家紋としていた。 のちに三本杉がデフォルメされて「三つ鱗」紋が生まれたようで、その原型は三本杉に他ならない。もっとも、 大神神社の神使は蛇であり、豊後大神氏の祖は蛇神の子であることから、蛇の鱗をも意識していたものと思われる。 佐伯氏、藤林氏など緒方氏の一族の多くが「三つ鱗=三本杉」紋を用いている。