かご坂王と忍熊王

仲哀天皇と大中姫の御子である
麤坂王と忍熊王の兄弟は応神天皇の異母兄弟

母は彦人大兄命の女・大中姫(大中比売命)

皇子は仲哀天皇の御陵造営のためと偽って陣地を構築し、
倉見別(犬上君の祖)
五十狭茅宿禰(伊佐比宿禰とも)
を将軍として東国兵を起こさせた。ところが菟餓野(とがの、比定地未詳)で反乱の成否を占う祈狩(うけいがり)を行った際、皇子は猪に襲われて食い殺されたという。

彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)または大江王は、古墳時代の皇族。景行天皇の皇子で、母は伊那毘若郎女(稚武彦命の女)。真若王という同母兄がいる。『古事記』では、母は迦具漏比売とされる。しかし、彼女は大江王の異母兄日本武尊の曾孫に当たり、景行天皇は直系の卑属を娶ったことになる上、景行天皇が長寿であれば一応理論上は不可能ではないものの年齢的にかなり無理がある(現に、『日本書紀』では応神天皇の妃となっているし、『古事記』でも彼の名前の重複が認められる)ことから誤記と思われる。異母妹の銀王(しろがねのみこ)を娶り大中姫(甥の仲哀天皇妃)等を儲けた。

吉備氏を生母とする十城別王は、血筋からして香坂王や忍熊王側に付くはずであるが
何故、息長帯比売命側に付いたのか?

神功皇后が三韓遠征から凱旋して戻ってくる時、なんで弟の誉田別尊に従えるかと、吉師の先祖の五十狭茅宿禰と、和邇氏と同族と言え、息長氏の水穂之真若王の子孫で犬上君の先祖の倉見別(を将軍として、東国の兵を起こさせた。武内宿禰と和邇氏の難波根子建振熊命が率いる軍に、完全な騙し討ちで敗れ、腹心の五十狭茅宿禰と共に、近江(滋賀県大津市)の瀬田の渡りで入水自殺した。数日後、遺体は下流の宇治川で発見されたという。

皇子は仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(現・兵庫県明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが菟餓野(とがの、比定地未詳)で反乱の成否を占う狩を行った際に、麛坂皇子が猪に襲われて薨去したため、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した。

一方、神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ:宇治)に陣立てし、武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果て逢坂にて敗れた(『古事記』では戦闘場面で武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績とする)。逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河から発見されたという。

忍熊王のその後の消息が残る剣神社は、息長氏の系の三国君から出た継体天皇の出身地、越前三国と、応神天皇が名替えの神事をおこなった気比神宮の丁度中間にある。
息長氏・和邇氏と吉備氏の勢力範囲が隣接し、同族同士の骨肉の争いになってしまっている。
忍熊王が奉じて剣神社に祀った剣も、和邇氏・息長氏系の日葉酢媛命の子、五十瓊敷入彦命が作ったものだし、忍熊王を殺して天皇に即位した応神天皇は、吉備兄媛を愛妃としているし、記紀が伝えるように両者の関係が悪かったようには見えないのだ。
剣神社の伝承の通り忍熊王が生きていたとすれば????

宇治に陣を置いた。また、入水自殺する時、「鳰鳥(におどり・カイツブリ)のように水に潜って死のう」と、腹心の五十狭茅宿禰に呼びかけている。「鳥」に関係があるというのも、海人の証拠だ。和邇氏の宮主矢河枝比売を応神天皇が娶った時に歌った「角鹿の蟹」の歌によれば、「鳰鳥の 潜き」というのは、海人の潜水作業を形容しているという。佐々那美や宇治など、出てくる地名が重なるのも興味深い。

八幡神社(奈良市押熊町287番地)
ここ「押熊」は、鎌倉時代に作成された
「西大寺田園目録」の中の「添下郡京北三里の所に「秋篠押熊原」との地名がみえ、また「大和国添下郡京北班田図」にも「押熊里」の記入があることにより、押熊が古代からの由緒ある歴史的地名であることに疑いはない。(後略)」

しかし忍熊皇子が死んだ場所は近江だし、香坂皇子は神戸かあるいは大阪で死んでいるのに、どうして奈良のここが忍熊皇子・香坂皇子2人の旧跡地として残っているのでしょうか?
また「八幡神社」の祭神は、応神天皇ですから、どうして争った腹違いの兄弟の旧蹟がここにあるのかも不思議です。
地名としての「押熊」の由来は、奈良県の最北端にあるところから、隅の方という意味だという話で、ここが「押熊」という地名なので、ここに祀られたものと考えた方が良さそうです。
さらにはここからそれほど遠くない位置に神功皇后の陵墓がある。