景行天皇、香春の神夏磯姫、羽白熊鷲、神功皇后

田川市は、古代、「高羽」と呼ばれていた。景行天皇と倭建が本陣を構えたと伝わる丘が田川市・伊田の白 鳥神社である。
この地が九州天皇家の都だったからである。景行天皇も 倭建もこの地に住み、ここから遠征に出かけた。

多の武諸木。 
カンヤヰミミの後裔。 
景行天皇の熊襲討伐でウナデ、モノベナツハナと共に敵情偵察に当たる。 
一計を案じてハナタレ・ミミタレ・アサハギ・ツチオリ・ヰオリを一網打尽に討ち取る。

神武天皇━神八井耳命━武宇都彦命━武速前命━敷衍彦命 ━━武恵賀前命(健磐龍命と兄弟)━━武諸木[多臣祖]

日本書紀 景行天皇

9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」と言いました。

そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八握の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。
「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くような者ではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、莵狭(うさ)の川上にたむろしています。
二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを京(みやこ)と呼ぶようになりました。

北九州「添田町」の伝承

彦山川上流の深倉川のあたりに鼻垂彦と耳垂彦という者が住んでいて、大きな勢力を持ち、大和の朝廷に逆らっていた。景行天皇は、熊襲をはじめとする九州の勢力をおさえるために、田川にやって来て鼻垂彦 ・耳垂彦の軍を破った。そのとき、今の深倉川は血に染まり、血みどろ川と呼ばれるようになった。後世になっ て「みどろ」が緑に転訛して緑川の名になったという。
別の話がある。景行天皇の皇子日本武尊の軍勢が、彦山川の上流に勢力をはる土折居折の軍を破っ て、血みどろ川と呼ばれるようになったという。土折居折が日本武尊から討たれたという話は田川市猪膝にも あり、土折居折を切った太刀を洗ったという太刀洗の井戸が、町の出入口の道路そばにある。
ちなみに、「日本書紀」の景行天皇と田川(高羽)に関する部分を、読みやすく書き直すと次のようである。

景行天皇の十二年の七月、熊襲が反乱をおこしたので、自らの軍勢を率いて九州に向けて出発した。九 月一日周防国の娑麼という所に着いたとき、南の方に煙が多くあがっているのを見て天皇は、賊が居るに
違いないと、多臣の祖武諸木、国前臣の祖菟名出、物部臣の祖夏花に状況を調べさせた。 報告にいうには、豊国の首長の神夏磯媛という女性が天皇が来ることを聞き、サカキを根から引きぬき (英彦山神宮神幸祭にこの形のさきがか使われる。)、その上の枝に八握剣、中の枝には八咫鏡、下の枝に は大きな美しい玉を掛け、それを船の舳先に立ててやってくるというのであった。媛が天皇の前に出ていうに は、私たちに天皇にそむく気持ちはまったくありません。しかし、悪い賊が四人います。一人は、鼻垂といっ て、菟狭の川上にいて君主の名を勝手に使っています。二人目は耳垂といって、御木の川上にいて人びと を苦しめています。三人目は麻剥といって、高羽の川上におり、こっそり徒党を集めています。四人目は土折 居折といい、緑野の川上にかくれていて人びとをさらっています。この四人とも、それぞれ要害の地にいて人びとを支配し、天皇の命令には従わないといっています。速やかに討ちとって下さいということである。 天皇はまず、麻剥の一党を誘い出し、赤い上着や袴や珍しい品物を与えて他の三人を呼ばせた。すると
他の三人も家来を従えてやって来た。武諸木らはこれらを捕えて殺してしまった。やがて天皇は九州にや って来て、豊前国の長峡県に来て行宮をたてた。そこを京といった。今の京都郡というのである。

日本書紀の記述は白鳥神社の由緒と同じである。倭建が討った「熊襲」とは「高羽川」、つまり、英彦山川の 上流の「熊襲國」で、現在の添田町である。

高倉下

 『日本書紀』に、岡の水門に大倉主と菟夫羅媛の男女二神がいると記されているが、遠賀川の西岸の吉木、黒山のあたりを島門と呼んだ。そこには天物部二十五部人のなかの「嶋戸物部」が住んでいたと推測される。そのため吉木の近くの高倉に高倉神社がある。『筑前続風土記』 によると、その高倉神社は、芦屋浦に鎮座する大倉主、菟夫羅媛の本宮であるという。芦屋浦は今の芦屋町船頭町で、そこに高倉神社の下宮の岡湊神社がある。とすれば嶋戸物部と大倉主とは密接な関係があったにちがいない。嶋戸物部の奉斎する神が岡の水門の神の大倉主であったと考えられる。「神武紀」にはタカクラジは高倉下または高倉と記されている。すなわち高倉と書いてもタカタラジとよませている。この高倉下または高倉が物部氏の系譜に属することはすでに述べたとおりである。大倉主を祀る高倉神社もまた高倉下と縁由があるにちがいない。その御神体は聞くところによれば剣である。また近くの遠賀町今古賀には八剣神社がある。倉主と倉下とはきわめてよく似た音である。こうして、クラジの名は倉主、すなわち、「洞海の主」 に由来すると思われるのである。

神功皇后の摂政元年
(辛巳年)354年 か
―摂政前紀(仲哀天皇9年)―
神がかりになり「住吉三神」「アマサカルムカツヒメ命」「コトシロヌシ神」などが示される。
羽白熊鷲を討ち、山門のタブラツヒメを誅する。
和珥津(対馬)から出航して新羅に往くと、新羅王は図籍を持参して降伏し、三韓を内官家とする。この年の12月にホムタワケが誕生(筑紫の宇美で。古事記では蚊田)。
 ―摂政元年―

百済からの降人の頭、百済氏が犬の面をつけて正月十五日に犬の舞を日本国の朝廷の守りとなって舞う行事が今も高良大社で続いているということだが、初代高良玉垂命がこの地に都をおいた時期、四世紀末から五世紀初頭にかけて百済王族が捕虜となっていることを示している。これに対応する記事が朝鮮半島側の史書『三国史記』百済本紀に見える。

「王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以て質と為す。」
(第三、阿辛*王六年<三九七>五月条)
「腆支王。<或は直支と云う。>・・・・阿辛*の在位第三年の年に立ちて太子と為る。六年、出でて倭国に質す。」  (第三、腆支王即位前紀)
     辛*は草冠編に辛。38398

  『三国史記』のこの記事によれば、三九七年に百済の太子で後に百済王となった腆支が倭国へ人質となって来ていたのだ。この三九七年という年は、初代玉垂命が没した三九〇年の後であることから、倭王讃の時代となろう。『日本書紀』応神八年三月条に百済記からの引用として、百済王子直支の来朝のことが見えるが、書紀本文には『高良記』のような具体的な記事はない。すなわち、百済王子が人質として来た倭国とは、近畿天皇家ではなく、九州王朝の都、三瀦あるいは高良山だったのである。
 百済国王子による正月の犬の舞は、いわゆる獅子舞のルーツではないかと想像するのだが、(5) 七支刀だけではなく王子までも人質に差し出さねばならなかったことを考えると、当時の百済と倭国の力関係がよく示された記事と思われる。この後(四〇二)、新羅も倭国に王子(未斯欣)を人質に出していることを考えると、東アジアの軍事バランスが倭国優位となっていたのであろうが、倭の五王が中国への上表文にて、たびたび朝鮮半島(百済など)の支配権を認めることを要請しているのも、こうした力関係を背景にしていたのではあるまいか。
 このような東アジアの国家間の力関係をリアルに表していた伝承が、百済王子による犬の舞だったのであるが、現地伝承として、あるいは現地行事として伝存していた高良大社にはやはり九州王朝の天子が君臨していたのである。もう少し正確に言えば、現高良大社は上宮にあたり、実際の政治は三瀦の大善寺玉垂宮付近で行われていたと思われる。いずれも現在の久留米市内である。大善寺坊跡が「天皇屋敷」と呼ばれていたことは既に紹介した通りだ(古田史学会報二四号)。
 さて、最後に玉垂命の末裔についてもう一つ判明したことを報告して本稿を締めくくろう。初代玉垂命には九人の皇子がいたことは前号にて報告したが、次男朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、長男の斯礼賀志命は朝廷に臣として仕えたとされているのだが、その朝廷が太宰府なのかどうか、今一つ判らなかった。それがようやく判明した。高良大社発行『高良玉垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」
 玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王都、三瀦だったのだ。すなわち、長男は都の三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。
 これは九州王朝の特徴的な政治形態、兄弟統治の現れと見なしうるであろう。
 こうして、わたしの玉垂命探究はいよいよ倭の五王から筑紫の君磐井、そして輝ける天子、多利思北孤へと向かわざるを得なくなったようである。

豊浦宮の仲哀天皇の遺骸と共に帰るが、途中でカゴサカ王・オシクマ王兄弟の攻撃を受けるも、武内宿禰・武振熊などによって討ち取る。

砥上岳

 神功皇后が武運を祈るために登ったというこの山には山頂の「武宮」をはじめ「かぶと石」「みそぎの原」や「ひづめ石」など神功皇后関連の話が伝わる。「砥上」は兵士が武器を砥いだことからこの名になったと言い、この地の「夜須(やす)」は、神功皇后が羽白熊鷲を討って「心安らかになった」と言ったことから名づけられたという。
 福岡県朝倉郡筑前町

 権現塚
 神功皇后が田油津姫を征伐したときに戦死した自軍の兵士を埋葬した場所であるといわれている。また女王「卑弥呼」の墓ではないかともいわれているが、「魏志倭人伝」には径百余歩と記されており、明らかに小さい。
 福岡県みやま市大草

神功皇后の帰国場所は、肥前国杵島郡高橋ノ津

美奈宜神社 の由緒
「…戦いは連勝し三ケ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された。…」と、書かれていたのです。

…神功皇后新羅御討征ノ折船中ニ於いて大己貴命、素サ鳴命、事代主命ノ三神ニ勝軍ノ始要ヲ折ラレ異賊ヲ討チ肥前国杵島郡高橋ノ津ニ帰還東上ノ途中、宮ヲ造リ三神ヲ祭リ給フ。…

「高橋の津」と言われても直ぐにはピンとこられない方が多いと思いますが、JR佐世保線の武雄温泉駅の一つ手前(佐賀寄り)の駅が高橋(佐賀県武雄市朝日町)なのです。

伝承

大昔は武雄駅の南側(佐世保線の南側)は全部海だった。
神功皇后が三韓征伐から帰って来て御船山に船を繋ぎ、武雄温泉(旧塚崎、柄崎温泉)に入った。

武雄神社の由緒
『武雄社本紀』によると、神功皇后が異国征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより、同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)(とも)に鎮座し、武雄社が創祀されました。

黒尾神社(山下影媛を祀る宮)
豊姫の宮・淀姫神社から500m南に黒尾神社がある

御祭神は黒尾大明神。景媛(武内の宿禰の生母)
山下影媛の夫は武雄心(たけおこころ)。(日本書紀)
『古事記』では祖父の忍信命(おしのまこと)。
竹内宿禰が武雄心を祀ったのは武雄神社。黒尾神社と武雄神社の距離は4キロほど。歩いても一時間ほどの距離です。

山下影媛の父は紀直(きのあたひ)の遠祖菟道彦(うぢひこ)(日本書紀)
『古事記』では、影媛は木国造の祖、宇豆比古の妹となっています。

出身は表記が違っていても、どちらも「キ」国ですね。
小郡市の竈門神社は山下影媛の廟。
「キ」は紀伊でなく、基肆(きい)国と考えるべきか。
武内宿禰の両親を祀る宮は佐賀を中心に分布。

基肆国の姫だった影媛に妻問いした武雄心が武雄に影媛を迎えて共に住み、
影媛の亡きあと、側近たちがそこに影媛を祀った。そして、竹内宿禰を生んだ聖母として、出身の国で、影媛を称えて神廟を営んだ。
黒尾神社から見える、小山が、磐井の砦があったところで磐井八幡宮と言う。

肥前国三根郡

漢部郷「肥前国風土記」の三根郡の条には物部・漢部・米多の3郷が記録されている。漢部(綾部)郷は中原町大字原古賀字綾部を中心に,上峰村の北部までに及んだと推定され,綾部から原古賀・寒水が1里と考えられる。綾部氏と同じ先祖の「嬉野氏系図」によると,「肥前国風土記」に忍海の漢人を連れてきて,綾部には兵器製造所と武器庫があり,大宰府の支城があったことが記されている。おそらく寒水川の砂鉄を利用したものと考えられている。 筑後川の支流寒水川右岸,鷹取山南麓に位置する。
嶺県主の存在は,大和朝廷の勢力圏にあったと思われる。また,「肥前国風土記」「延喜式」「和名抄」などによると,神埼郡は三根が分離しないころは,15郷からなる最大のものであり,筑紫米多国造の勢力基盤であったといわれている。そして三根は県主の勢力圏の上に成立していたといわれている。三根郡司に海部直鳥の名が推定される。米倉二郎氏が「肥前国風土肥」(ママ)の各郡の復原条里数を推定したものによると,三根は530里となっている。これは条里区画が漸進的に開発され,その田数が増加したものであるといわれる。

「和名抄」には三根郡葛城郷が見え,「三代実録」貞観15年(873)9月16日の条に葛木一言主神のことが見え,筑後川に近い天建寺宇土居内に祭祀されていた式外社の1つであることから,当郷は天建寺一帯に比定される。一言主は大和国(奈良県)葛城山の神で,のち葛城神社となった。

三根町の葛木神社
三養基郡三根町大字天建寺字土居内にある神社。旧村社。祭神は葛木一言主命。創建年代不明。貞観15年9月16日に正六位上から従五位下となっている(三代実録)。一言主命は大和国葛上郡葛城山の神であり,当地にいたとされる葛城部によって勧請されたと伝えられる。明治6年村社となる。なお,当社から天建寺一帯が,「和名抄」に記す葛木郷であったといわれている。

若八幡神社

 祭神、仁徳天皇 応神天皇 神功皇后
 景行天皇(12代)の熊襲征伐に寄与したこの地の祖神、神夏磯姫の後裔、夏羽は、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を助けるため軍勢を差し向けるが、途中で妹の敗戦を知り、逃げ帰って館にたて篭るが、追ってきた皇后の軍勢に焼き殺される。後に夏羽の亡霊の祟りを鎮めるため宇佐より八幡宮が勧請された。
 福岡県田川市夏吉

年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)

女王を祀ったとされる権現塚と蜘蛛塚

女山から九州自動車道を越えた田んぼのまん中に権現塚古墳がある。周囲141m、高さ5.7m、直径45m。これは神功皇后が田油津姫を討ったとき、多くの死者を出し、葬ったところ。または、国造の墓とも、卑弥呼の墓とも伝えられる。周辺からは、縄文、弥生時代の遺跡も発見され、甕棺墓も出土している。
権現塚の近くには、大塚の集落に蜘蛛塚がある。村の鎮守様といった小さな神社の隅に、わずかに盛り上がった土がそれ。上に小さな祠が祀られている。が、伝承では景行天皇西征のとき、従わない者がいたので征伐した首長の墓とある。また、土蜘蛛の首長・田油津姫の墓ともされる。南18mのところにも古墳があり、これも大塚とよんだ。道路を造る際に2分されたと考えられており、もとは一体の古墳だったと思われる。以前は女王塚と呼ばれていたということから、やはり田油津姫の事をさしているのだろうか。雨が降ると血が流れ出すという伝承もあった。

磐井の少し前、卑弥呼の少し後の時代、筑後地方の土蜘蛛のリーダーは田油津(タブラツ)姫でした。神功皇后と大和町鷹尾で一戦を交えて敗れた伝説の女性です

八女市に隣接するみやま市山門(やまと)にいた田油津媛(たぶらつひめ)を、神功皇后が討ったと書かれています。

田油津媛のいた山門は有明海に注ぐ矢部川沿いにありますが、この矢部川の源流部こそ矢部であり、八女津媛神社の所在地なのです

八女津媛

「日本書紀」によると、景行天皇が八女の県(やめのあがた)に巡行されたとき、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい、あの山に誰か住んでいるか」と尋ねました。
水沼の県主猿大海(さるのおおあま)が、「山中に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にいる」と答えたことから八女の地名が起ったと記されています。

羽白熊鷲

日本書紀巻九
仲哀天皇・神功皇后は熊襲征伐のため九州に赴いた。皇后は神の神託を求め、それに従って行動した様が記紀に記録されており、「小山田邑(おやまだむら)に斎宮(いつきのみや)を作らせ、自ら神主となって神託を聞く。神の教えに従って神々を祀り、吉備臣の祖、鴨別(かものわけ)を使わして熊襲を滅ぼし、服従させた。

また荷持田村(のとりたのふれ)を根城にして暴れ廻る、「羽白熊鷲」(はじろくまわし)は、朝廷の命は聞かず民衆を脅かしてばかりいたので、皇后は兵を差し向けこれを討つ。
皇后は軍勢を率いて御笠川沿いに南下し、砥上岳(朝倉郡夜須町)の南麓に中宿 (本陣)を置いた。以来、この地は中津屋と呼ばれ、本陣跡は中津屋神社として残っている。その後、松峡宮(まつおのみや)[朝倉郡三輪町栗田―栗田八幡宮] まで進み、今日、目配山(めくばりやま)と言われる山で物見をして作戦を立てたと言われる。筑後川の北側1キロの平野部に、巻貝の河貝子(カワニナ)を集めて城を築き(それでこの附近を蜷城(ひなしろ)という:甘木市蜷城)、熊鷲の目を引き付けておいて、秋月~下渕の后の森、宮園の森、開屋の森、三府の森、会所の森、宮岡の森、梅園の森の七ヶ所に陣屋を設け、進攻した。しばしば戦闘を繰返しながら、鬼ヶ城山へ追い詰めて行っている。
神功皇后の軍勢は、佐田川中流の山間部で矢箟(矢の幹)の材料となる篠竹を刈り取り(それでこの附近を矢ノ竹(やんたけ)という:甘木市矢野竹)、熊鷲の一味を殲滅している。熊鷲は山沿いに北方に逃げ、古処山(コショサン)の北東6キロにある益富山で討伐された(大熊山)。神懸かりした皇后軍の前に、さしもの熊鷲も屈伏した。皇后は、古処山南麓へ戻り、「熊鷲を討ち取ったので即ち我が心安し」と周りに告げ、ここを安(やす:夜須)と名づけた。

『釋日本紀』
「筑前国風土記」からの引用文があって、
神功皇后が新羅を討とうとして軍士を整理し、発行した時、道中、軍士共が逃げ出しました。その理由を占った時、祟る神がいるのが分かりました。名を大三輪の神と言いました。そこでこの神社を建てて、ついに新羅を平定しました。その神社がこれです。

美奈宜神社 (朝倉市林田)
神功皇后は航海中船中で素戔嗚尊、大己貴命、事代主命の3神に戦勝を祈願された。 海上恙なく船は新羅の港に到着し、戦端は開かれた。戦いは連勝し3カ条をもって降伏し大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、髙橋の津に凱旋された。 そのあと戦争に勝利を祈られた3神を祭られた。その神が美奈宜神社の3神である

神功皇后摂政2年(202年)神功皇后が九州にお見えになった時、古処の山に住む羽白熊鷲(はぐろくまわし)という悪者退治を、村人は懇願した。 皇后は、神様にお祈りされ、「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷に頼んで、一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って、一度に水を入れ水攻めにして滅ぼしなさい」とお告げになった。 このあと、村は静かな平和な村となった。 神功皇后は神様をお祭りするお社を建てようと思い、1羽の白鷺を放った。 白鷺は空に舞い上がり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞い下りた。 皇后様は、その近くに神様を祭るお社を建てた。蜷城(になぎ)を美奈宜(みなぎ)とあて、美奈宜神社と命名。 また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼び、なまって、ヒナシロという地名なったといわれる。 白鷺塚は今も片延字白鷺1番地に残されている。

朝倉市の大己貴神社

大神大明神(弥永村にあり)
延喜式神名帳に、夜須郡於保奈牟智神社が一座あるというのはここの事です。祭る神は大己貴命です。今は大神(おおが)大明神と言います。社は南向きです。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合祀しています。宮どころは神さびて境地は特に勝れています。

日本書紀に、仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まりませんでした。皇后は「きっと神の御心なのだろう。」と言って、大三輪社を建て、刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあります。

9月23日は旧暦のため、現在の(  )に祭礼があります。
この日、神輿の御幸があります。御旅所は村の西十町ばかりの所にさやのもとという所です。その他、年中の祭礼がたびたびあったと言いますが、今はそんな儀式も絶え果てました。しかし夜須郡の惣社なので、その敷地は広く氏子も特に多いです。人々は大変崇敬していると書いてあります。     略    
三輪町教育委員会

続日本紀によると、天平2年(730年)9月渤海の王が奈良の朝廷に進物を献上したので、翌月10月に名神祭が行われその進物の一部を各神社に献納された。 九州本土では下記の12の神社が進物の献納を受け名神祭に預かっている。

筑前国 宗像神社 住吉神社 八幡神社 志賀海神社 美奈宜神社 筑紫神社 竃戸神社(7社)
筑後国 髙良玉垂命神社 豊比賣神社(2社)
肥前国 田島坐神社(1社)
肥後国 健盤龍命神社(現在の阿蘇神社)(1社)
豊前国 八幡比賣神社(現在の宇佐神宮)(1社)
この12神社だけが名神祭が行われる度に勅使や国司が勅命を奉じて参向した神社で豊後国、日向国、薩摩国4カ国(鹿児島県および宮崎県)には名神祭に名を連ねた神社は1社もない。 前記のように美奈宜神社は奈良時代、平安時代に名神祭の栄誉を受けた神社である。

竈門神社(かまどじんじゃ)
福岡県太宰府市東北に立つ宝満山に所在する神社
祭神 玉依姫命 (たまよりひめのみこと)
相殿神 神功皇后 応神天皇 第15代。神功皇后皇子。
祭神のうち、玉依姫命は元々の祭神で、神功皇后・応神天皇はのちに合祀されたという。『筥崎宮縁起』等では当宮を八幡神の伯母(応神天皇の伯母、神功皇后の姉)と見なしており、遅くとも12世紀初頭には八幡神(神功皇后・応神天皇)と結び付けられたと見られている[1]。竈門神が八幡神の系譜に組み込まれた背景には、古くから大宰府と関わっている当社の政治的色彩が指摘される。

筑紫神社(ちくしじんじゃ、つくしじんじゃ)
福岡県筑紫野市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。
筑紫の神 (つくしのかみ) – 筑紫の国魂。
玉依姫命 (たまよりひめのみこと) – 後世に竈門神社から勧請。
坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ) – 後世の合祀。
筑紫神については他に、白日別神とする説や五十猛命とする説がある[3]。
異説
白日別神(しらひわけのかみ)説は、吉村千春による説である
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面として筑紫国、豊国、肥国、熊曽国の記載があり、「筑紫国を白日別という」とある

神功皇后は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の子の第14代天皇たる仲哀天皇の御后である。「紀」では、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)、「記」では息長帯比売命(同左)と云う。父は息長宿禰王、母は葛城高ヌカ媛(カズラキノタカヌカヒメ)とされている。

神功皇后の母方の系譜、応神記より
 アメノヒボコ(新羅王子=祟神・垂仁天皇時代)―タジマモロスク―タジマヒネ―タジマヒナラキ―キヨヒコ―スガカマユラドミ―カツラギノタカヌカヒメ―神功皇后

微叱己知・波珍干岐
「微叱己知」は奈勿王(ナコツオウ)の子「未斯欣」(『三国史記』)のこと。次に記す「紀」のBの「微叱己知(シチコチ)」と同一人。「三国遺事」は「美海」、「未叱喜」とも。「波珍干岐(ハトリカンキ)」は新羅17等官位の第4「波珍?菷(海干)」にあたる。

神功皇后 摂政五年三月
日本書記
「五年の春三月の癸卯の朔にして己酉(キイウ)に、新羅王、汗礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智 等を遣(マダ)して朝貢る。仍りて、
先の質(ムカハリ)微叱己知(ミシコチ)伐旱(バッカン)を返さむといふ情有り。
是を以ちて、許智伐旱に誂(アトラ)へ、紿(アザム)かしめて曰さしむらく、
「使者汗礼斯伐(ウレシホツ)・毛麻利叱智(モマリシチ)等、臣に告げて曰く、『我が王、臣が久しく還(カヘ)らざるに坐(ヨ)りて、悉くに妻子(メコ)を没(オサ)めて孥(ツカサヤツコ)と為せり』
といふ。冀(ネガ)はくは、暫く本土(モトツクニ)に還り、虚実を知りて請(マヲ)さむ」
とまをさしむ。皇太后、則ち聴(ユル)したまふ。
因りて、葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)を副(ソ)へて遣したまふ。共に対馬に到り、鋤海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る。時に新羅の使者毛麻利叱智等、窃(ヒソカ)に船と水手とを分ち、微叱旱岐(ミシカンキ)を載せて新羅に逃れしむ。乃(スナハ)ちクサ霊(ヒトカタ)を造り、微叱己知(ミシコチ)の床に置き、詳(イツハ)りて病人として、襲津彦に告げて曰く、『微叱己知、忽(タチマチ)に病みて死らむとす』といふ。襲津彦、人を使して病を看しむ。即ち欺かれしを知りて、新羅の使者三人を捉へ、檻中に納め、火を以ちて焚きて殺しつ。・・・」

爰(ココ)に新羅王波沙・寐錦(ハサムキチ)、即ち微叱己知・波珍干岐(ミシコチ・ハトリカンキ)を以ちて質(ムカハリ=人質)とし、・・・官軍(ミイクサ)に従はしむ

神功皇后により征服されたとされる新羅王「波沙・寐錦(ハサ・ムキチ)」が、『三国史記』「新羅本紀」にある第5代「波沙・尼師今」(在位:西暦80-112)の名と一致している。

一方で、『三国史記』「新羅本紀」には、実聖尼師今(新羅第18代・実聖王)元年(402年)三月条に、
「倭国と好(ヨシミ)を通じ、奈勿王の子未斯欣を以て質と為す」とある。
ただ、『三国史記』は未斯欣を人質として差し出したのは実聖王元年(402年)としており、「三国遣事」は第17代・那密王(奈勿王)三十六年庚寅の年(391年)となっており、人質を差し出した王および年号が異なる形で記録が残されている。

また人質奪還について、『三国史記』は、巻三・訥祇(トギツ)麻立干(19代訥祇王:在位417-458・17代奈勿王の皇子)二年(418)条の「秋に王(訥祇王)の弟未斯欣、倭国より逃れ還る」と記述しており、年代的ズレはあるものの、そうした事実があったことについて、「日本書紀」の記載と見事に対応している。

人質拠出の年代を「三国遣事」の391年と考えると、実は、かの有名な好太王(高句麗第19代広開土王)碑に刻まれる『百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民』の碑文、即ち、『そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。』とする新羅侵寇の年号、西暦391年に合致する。

IMG_3421.PNG