日向、曽於国の玉壁

宮崎県串間市王の山銭亀塚石棺
国宝・紀元前2世紀頃の完品
「中央に穴(孔)がある円形で直径が三十三・三センチメートル、中央の穴の直径が六・五センチメートル、厚みが〇・六センチメートル、重さ一六〇〇グラムの完全な玉器である。璧は、硬玉で鉄より硬いといわれる。

この璧の表裏両面に見事な文様が施されている。この璧の表面には、同心円で三帯に区切られている。一番外側には五つの竜首文が配され、外周と内周の間に璧を識別する穀粒文が、整然と並んでおり、一番内側の内周には、三体の鳥文が波形状に彫刻されている。」

1818年に農夫・佐吉という人物が発見。玉壁ともに玉・鉄器があったとされるがそれは紛失。穀璧とも呼ばれる。

明治時代の箱書き
「文政元年戊寅二月 日向国那珂郡今町農佐吉所有地字王之山掘出石棺所獲古玉鉄器三十余品一蓋日向上古之遺跡多矣所謂王之山亦必非尋常古塚
明治十年丁丑十二月
 湖山長愿題」

「文政元年戊寅(1818年つちのえとら)の二月宮崎県那珂郡今町(この頃は穂佐ケ原あたりまで今町といった)に住む農家の佐吉が自分の畑の字「王之山」を耕す時、ここから石で作った棺おけが出てきた。これを開けてみると宝物の古い球や鉄製品が三十余り出た。この宝の球もその中の一つである。思うに宮崎県は古い昔からのいろいろな器物などが今に至るまで残されていることが多い。世にいう「王之山」もまた間違いなく普通の古墳ではないのである。」

宮崎県串間市王の山古墳の玉壁

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王の山には隼人系墳墓である地下式横穴墓が多く、特に華北の漢代に多い土洞墓(どどうぼ)とよく似た構造をしている。
漢代の横穴墓である満城漢墓から、王の山のものとよく似た唐草を持つ玉壁が出ている。

台湾・国立故宮博物院の鄧淑蘋氏は、

 三種の神器の「玉」とは双身動物面紋玉壁のことを指し、「王之山」石棺の被葬者は神武天皇である、

と、仰言いました。硬玉の玉壁は、極めて価値が高い。

春秋時代の璧でこのような複雑なパターンを持つものはないようだ。璧のパターンは時代が下るにつれ複雑化しており、王の山のものは漢代の璧に酷似している。同時代とみて問題ない。形式が定められていたらしく、他にも類似の獣文を持つ漢代の璧が出土してる。

南越王の玉璧とパターンが酷似しているが、より大きく、渦巻き文の内側にもう一つ獣文が入って、格上と考えられる。南越王のものにはいくつかあって、33.4cmで獣文、穀文、獣文を並べ、王の山の璧と同レベルのものもある。
 串間の玉璧の正体が分からずにいたところ、今から25年前に中国広州市で見つかった「南越王墓」から、同じような玉璧が40枚以上発見され、そのうち最大級の33センチほどある玉璧は、大きさといい文様といい、串間のとそっくりであることが分かった

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 岡村教授の「串間出土の玉璧は朝鮮半島北部から到来した」という説がある

衛満が燕から朝鮮に亡命したときに朝鮮王だったのはワイ(さんずいに歳)にいた「箕氏準」だったのである。その準王を衛満が駆逐して南朝鮮に亡命させたのは紀元前200年頃だった。
 だから、北朝鮮(楽浪)から串間出土の玉璧を持参したのは、箕氏準の系統の可能性があるそうです。
 しかしどうして北九州ではなく、南の外れに近い宮崎の串間なのか、謎である。

北朝鮮、石厳里9号墓出土の玉壁

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南朝鮮からは一枚も出ていないそうです。

衛満朝鮮が存続していた元朔元年(紀元前128年)に、衛満朝鮮に服属していた蔵族が前 漢王朝に降り、武帝はその地に蒼海郡を設置した(武帝紀〕。 蒼海郡の明確な位置はわか らないが、現在の戚鏡南道・江原道など日本海側に面した地域と推定されている
この蒼海郡は その後、わずか二年で廃止され、武帝による最初の朝鮮半島進出は失敗に終わってしまう。元封 二年(紀元前109年)、衛満朝鮮王右渠が漢への入朝を拒んだため、武帝は山東と遼東から衛満朝 鮮に攻撃を加えたが、右渠は王険城に寵城し、これを退けた。 しかし、翌元封三年(紀元前1 08 年)に衛満朝鮮内部の離反もあり、王険城は陥落し、武帝は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟 郡の四郡を設置した[朝鮮列伝、『漢書』武帝紀J
これによって衛満朝鮮と濊の故地 は漢の郡県支配に組み込まれていった。

平壌地域には、上里古墳、石巌里古墳、貞柏 里採土場出土一括遺物などのように、漢式遺物よりも非漢式遺物を主体的に副葬する墳墓が存在 しており、これらが楽浪郡初期の墳墓である可能性がある

発見の経緯
硬玉穀璧が、日向の国串間今町王の山から発見された。
地元の農民佐吉が弥生期の箱式石棺の中に眠っていたものを見つけだしたものである。
その後農民佐吉は、穀璧を家宝として大事に所持した。
明治の始め孫の代になり、河野佐吉として孫が家督を襲名した。
孫の河野佐吉は遊び人で、立地や家屋敷の財産を売り払い、全て博打の金に替えてしまった。
その頃、東諸県郡本庄町[現国富町]に剣柄紳社があり、宮司を宮永真琴と言った。宮永宮司は、尋ねて来た松浦武四郎と懇意になり、宮司は武四郎の為に漢詩を作り、其の人格を称賛した。
漢詩は今も宮永家に保管されている。
武四郎は、串間の遊び人、河野佐古が親からの宝物、玉璧を所持していることを宮司から耳に挟んだ。

早速武四郎は佐吉と出会い、宝物の穀璧を買い取った。
武四郎は伊勢の国の人で、文政元年千八百十八年の生まれである。
明治二十一年七十七才で亡くなった。
武四郎は明治十年千八千八百七十七年占鏡の説明書、撥雲余興を著している。
 
古い焼き物に詳しく、特に古代史については秀でていた。
その年、穀璧は桐箱に収められ、多気志楼蔵と箱書きされた。

明治十年十二月、小野湖山氏は前田侯爵家から玉璧の由来を箱書にするように依頼された。
前田家は武四郎から穀壁を買い取り、現在東京の前田育徳会の宝物館に保管されている。

此の玉璧こそ魏志倭人伝の魏の皇帝斉王が正始六年、倭国卒善中郎将難升米に賜った黄幢に匹敵する物である。

後漢の霊帝は中平元年百八十四年黄巾の賊を平定し、女王卑弥呼が即位したのを切っ掛けに、倭国乱も治まった。

 献帝の時、初平元年百九十年、董卓の命で公孫度は遼東、楽浪太守に仕命され、倭国が落ち着きを取り戻したその功績を讃えて、内乱の扇動国、狗奴国の王に対して漢委狗奴国王印の金印、長官に穀璧が賜授された。

 考古学雑誌第十一巻第十号、大正十年六月五日発行の文中から、宮崎県串間市王の山から文政元年千八百十八年二月、農民佐吉、穀璧を発掘、加賀百万石旧藩主前田家東京が蔵品云々々と発表された。

  璧 箱書

 文政元年戌寅二月 日向国那珂郡今町 農 佐吉 所有
地字王の山 掘出石棺中獲古玉古鉄器三十余の一云々

     【 明治十年丁丑十二月   湖山長憲 題

 以上について平子鐸嶺氏は所見を次のように述べている。

   周宏璧考略     平子鐸嶺 草
 成六瑞 王用鎮圭 公用桓圭 侯用信圭 伯用躬圭 子用穀璧 男用蒲璧 合六幣
    圭以馬、璋以皮 璧以帛

 注に云う、五等諸侯天子を奉るに璧を用いると、今見る所の壁面、恰も粒子の如く凸起せるものなり。これ呉氏の所謂穀璧足るものなり。
即ちこれ周代子爵諸侯の天子享用の器たるものならん。
真に希世の珍宝と称すべし。

弘璧の大きさに就いて云い、穀璧は製作に就いて云い、即ちこれ宏壁にして穀璧たるものか。
明治四十一年戌申二月二十二日夜稿

台湾故宮博物館による六瑞の説明は、六種瀬の玉器のことで六種の権力を与えた玉器である。鎮圭の長さ、一尺二寸、天子の物、中央に穴が有る。桓圭の長さ、九寸、公爵の物、下方に穴有り、以下同型
借主の長さ、七寸、侯爵の物、 同上
躬圭の長さ、五寸、伯爵の物、 同上
穀璧は、王周璧紋、子爵の物、円形板、中に円孔有り
蒲璧は、王周蒲紋、男爵の物、円形板 中に円孔有り

串間の穀璧は、直径三十六CM、厚み約六MM、出土品中最も大きな形で有る。
璧の出土例は、朝鮮大同郡大同江面、石巌里第九号墳、前漠、居摂三年、直径二十一CM。
外、中国に二個、日本は串間今町を含めて三個有る。

奇しくも場所は朝鮮大同郡大同江面、ここは古代の楽浪郡、王険城の南を流れる大河川で今の平壌に当たる。
後漢献帝の時、董卓の命をを受けた公孫度は、初平元年百九十年遼東楽浪の太守として就任した其の矢先、董卓は献帝を連れて洛陽を捨てて、長安に遷都した。
その頃、朝鮮半島の南、馬韓、弁韓、辰韓は倭の種人として倭国に属していた。 建安八年二百三年、後漢献帝も黄巾の賊より既に十九年を数え御年三十三になられたが、臣董卓が権力の暴威を振るい、国中大いに乱れ、群雄が並び起った。
遼東の公孫度も自立して、息子の公孫康と共に、長安の天子の制度を取り入れ政務を司った。
倭国女王卑弥呼は朝鮮半島南部、倭国を率い、良く国を治めた。

[蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属する。]
倭国が燕に属する限り、倭人は遼東を越えて燕に詣でたということを意味する。
倭国は二千数百年もの昔、既に朝鮮半島を闊歩して自由に行来できた。