宮地嶽神社、3mの頭椎の太刀

宮地嶽神社

宮地嶽神社には、全国でも第1級の大きさを誇る横穴式石室を有する巨石古墳があります。約6世紀末の建立と見られている。

岩屋不動尊(日本最大の古墳)

宮 地嶽神社の奥深い地点にある岩屋不動尊と称する古墳は、宮地嶽山腹から上西郷、神興、福間、津屋崎地方に散見する先住民族の長の霊を祭るために作られたも のと言われ、彼等の住居を一見し得る高燥の台地に彼等の長と霊を葬り、毎年祭祀を営み、永劫の守護と福利を祈ったものといわれる。
国宝類のほとんどが、ここからの出土品と言われる。

その石室は、全長23メートル、高さ幅とも5メートルを超える巨大な石を積み重ねて造られており、大太刀や刀装具、馬具類、緑に輝く瑠璃壺や瑠璃玉、そしてガラス板など、およそ300点が発見され、そのうち20点もの品々が国宝に指定されています。それらの中で特に目を引くのは黄金を使った品々です。金銅製の冠は黄金に龍や虎の透かし彫りが施されています。

3.2mの大太刀は頭椎(かぶつち)がついており、やはり金の装飾が施されています。 教科書などでもお馴染みの金銅製の鐙(足置き用の馬具)は、金の七葉唐草文が貼付され、遠くオリエントを感じさせます。
宮地嶽の古墳の主は、金の冠をいただき、金の刀装具や馬具で身を固めた

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頭椎大刀
真っ直ぐの直刀です。時代でいうと古墳時代の中期以降と書いてありましたが、これは疑わしい
古墳時代に入る前の西暦100年くらいのものであると思われます。
これは大和朝廷ができる前、しいて言うならば西暦100年頃に渡ってきた渡来の種族であるに違いありません。

これは出土例が兵庫県に2例ありますが、東海地方より東の関東・東北で見られる。

群馬県の頭椎大
頭椎大刀が群馬県の県立博物館にある。長大なものでおそらくこの大刀を持っていた人間は2メートルを超えたであろう、というぐらい長大で太くて大きな大刀です。では、単なる飾りではない。そこに1つの兜(かぶと)がありました。古墳にセットで埋められていたのであって、この兜は蒙古鉢形冑どこにも類例がない形をしていると書いてありました。これは、3センチくらいの小札(こざね)という小さい鉄の板を鉄鋲(てつびょう)で留めて形作った兜であって、頭の頂上にまっすぐに生えた角のような突起があります。目の部分がちょっとだけ開いていて、鼻の部分もちょっとだけ開いていて、これは西洋の兜に似ていて日本で見ることはできません。日本の兜は眉ひさしが付いていて兜につばが付いています。このような鉄で鋲留めした顔全体を覆いかぶる兜は珍しい。
綿貫観音山古墳からの出土品は、群馬の森内にある群馬県立歴史博物館(高崎市岩鼻町239)に展示されている。未盗掘・6世紀末の遺物は、金色輝き眩い。まとまった埴輪群、武器類、装飾類、鈴、鏡など綿貫観音山古墳関係だけでも見応えがある
金銀装頭椎太刀 柄頭に連弧状の銀象嵌を施し、柄部に銀線を巻いた太刀
金銅歩揺付飾金具(重文)  花弁形の垂飾りが馬に付けられ、輝きと音が豪華さを演出する。

奥宮の古墳
日本で1、2位の大きさを誇る岩室をもつ古墳。円墳。
奈良の石舞台に次ぐ大きさで磐井氏の関係の墓と言われています。
この岩は近くの恋の浦海岸から運ばれた。昔は、神社のすぐ下まで、海でした。そこまでは、船で運んび、山の中腹まで運搬。

金冠と金銅性(銅に金メッキ)の巨大な太刀が出土している。
長さは3メートル以上ある 頭椎(かぶつち)の太刀が見つかっている。

金銅製の頭椎の太刀はササン朝ペルシアの様式だそうです
同時に出土した、鉛系のガラスのインゴットも、実はペルシャ系です。
ササン ⇒ 中国 ⇒ 高句麗・百済 ⇒ 倭・正倉院
という流れがあるらしいです。

頭椎(かぶつち)の太刀は、天忍日命・天津久米命の二人が天孫降臨の時に腰につけて仕えたと記されている。

宮地嶽神社の祭神は
被葬者について、磐井(いわい)氏の関係か?
一般的には宗像徳善と言われている。
しかし、宗像徳善の君の場合は、年代が科学的に、100年位誤差が出ます。

石室の規模
石舞台の全長は17m程であり、宮地嶽古墳は既に凌駕してます。全国一位は欽明天皇陵と推される「見瀬丸山古墳」の28mで、第二位は推定全長が26mと推される(現在は20m未満)山梨県の姥塚古墳、宮地嶽古墳は第三位です。入室出来る石室としては、現状規模で日本一

久米御県神社(奈良・橿原市)
当社は古代氏族・久米氏がその祖神を祀った神社
由緒
 社頭に掲げる案内によれば、
 「創建は明らかではないが、来目(久米・クメ)に関わる伝承は古事記・日本書紀の神代までさかのぼり、神武東征の伝説に、八咫烏(ヤタガラス)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、『大来目をして畝傍山の西の川辺に居らしめたまふ。今、来目邑(クメムラ)と号(ナヅ)く』との記載がある。
 書紀・垂仁27年紀に『是歳、屯倉(ミヤケ)を来目邑に興す』とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる」
とある。

天孫降臨の段
 ・古事記--そのとき天忍日命(アメノオシヒ)・天津久米命(アマツクメ)の二人は、立派な靫(ユキ・矢を入れて背に負う武具)を負ひ、頭椎(クブツチ)の太刀を腰に着け、櫨弓(ハジユミ、強力な霊力が潜む弓)を手に取り、真鹿児矢(マカコヤ・同じく矢)を手鋏みに持って、天孫の先に立ってお仕え申し上げた。アメノオシヒ命は大伴連等の祖、アマツクメ命は久米直等の祖である。

書紀(一書4)--大伴連の遠祖・天忍日命が、来目部の遠祖・天槵津大来目(アメクシツノオオクメ)を率いて、・・・(記と同じ武装の様を列記)・・・天孫の前に立って降って行き・・・

九州の大久米主の伝承

高千穂に降りた大久米主
書紀神代下一書によれば、天忍日命、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、臂には稜威(いつ)の高鞆を著き、手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る。

大御神社
皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月はつまびらかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば往古皇大御神、日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ千畳敷の磐石にてこれより絶景の大海原を眺望され皇祖天照大御神を、お祭りして平安を祈念されたと伝えられ、後世此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て皇大御神を勧請し村中の鎮守と尊敬し奉ると言う。

 また、神武天皇御東征の砌、大鯨を退治された御鉾を建てられたことから鉾島が細島に転じたと伝えられているが、天皇はこの時伊勢が浜から港に入られ、皇大御神を奉斎する御殿(現在の大御神社)に武運長久と航海安全を御祈願されたと伝えられ、大御神社の西に横たわる櫛の山と東に隆起する米の山(久米の山)は神武天皇の先鋒の天櫛津大久米命の名に因むものであるという。

万葉集にある大伴家持の歌の大久米主
 

陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首に
   大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれて) 仕へし官(ツカサ、職柄) 海行かば水漬く屍(水びたしの屍) 山行かば草生す屍(草むした屍) 大君の辺(ヘ・お側)にこそ死なめ 顧みはせじ(後悔はしない) と言立て(誓って)・・・

との歌を挙げ、その中で、大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれていることから、
 「家持ちが自家の祖先の名を取り違えたとは思われず、かかる名が大伴の遠い神祖の名でありえたのは、そもそも最初から久米氏が大伴氏に属していた消息を物語ってはいないだろうか」という。

古事記
神武天皇が御后を探している時、大久米命がここに乙女がいます。この娘は神の子です。なぜ神の子かといえば三島湟咋の娘名前を勢夜陀多良姫といい、とても綺麗であるから、三輪の大物主がみそめて、この娘が厠をする時に、大物主が丹塗矢に化け厠の溝を流れその娘の富登をつき刺した。娘は驚いて「イススキ」と叫びながら走り去った。その矢を床のそばに置いたら、矢はたちまち立派な男性に変わったので、娘と結婚し子供が生まれました。この子を富登多多良伊須須岐比賣命と名づけたが、また名を比賣多多良伊須氣余理比賣よって神の子です。と言ったと記されている。

韛五十鈴姫命(たたらいすずひめのみこと)は、神武天皇の皇后になり、即神渟名河耳天皇(かむぬなかわみみ:綏靖天皇)と彦八井耳命(ひこやいのみこと)のふたりの皇子を産む

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海に向かう

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