古代の河内国と摂津国、凡河内氏

凡河内氏(姓:直→連→忌寸)とは、記紀によれば、山代国造(ヤマシロノクニノミヤツコ)や額田部湯坐連(ヌカタベノユエ)ら11氏族と同じく、アマテラスとスサノヲのウケヒによって生まれた五男神の一・天津彦根命(アマツヒコネ)の後裔とされる氏族で、大阪湾沿岸地帯を統治した有力氏族。航海に関する祭祀や運送などにかかわっていたという(新修神戸市史・2010-以下「神戸市史」という)。姓(カバネ)は、直(アタイ)→連(ムラジ)→忌寸(イミキ)と変わっている(天武朝)。
凡河内氏が摂津国に居たことは、続日本紀・慶雲3年(706)条に、
 「摂津国造(セッツノクニノミヤツコ)・従七位上の凡河内忌寸石麻呂・・・の位を一階上げた」

・摂津国神別・天孫 凡河内忌寸 額田部湯坐連(ヌカタベノユエ)同祖
(河内国神別・天孫 額田部湯坐連 天津彦根命五世孫乎田部連(オタベ?)之後也)
・摂津国神別・天孫 国造(摂津国造) 天津彦根命男天戸間見命之後也
・河内国神別・天孫 凡河内忌寸 天津彦根命之後也
・摂津国神別・天孫 凡河内忌寸 天穂日命十三世孫可美乾飯根命(ウマシカラヒネ)之後也

また、先代旧事本紀・国造本紀(9世紀後半)には、「神武朝の御代に、彦己曾根(ヒココソネ・乎田部連と同一人という)を河内国造とした。即ち凡河内氏の祖也」

河内国魂神社
神戸市灘区国玉通3丁目
祭神--大己貴命・少彦名命・菅原道真
                                                              2011.08.24参詣

 延喜式神名帳に、『摂津国菟原郡(ウバラノコホリ) 河内国魂神社 鍬靫』とある式内社。社名は“カワチクニタマ”と訓む。地元では“五毛天神社”(ゴモウテンジンシャ)のほうが通りやすい(拝殿前の提灯には、正面に河内国魂神社、その脇に朱字で五毛天神社とある)。

 阪急神戸線・王子公園駅の北東に鎮座する。

※由緒
 当社の創建時期・由緒等不明。
 社務所で頂いた由緒によれば、
「当河内国魂神社の創祀は、古来、伊勢神宮開社の頃(皇紀657年、西暦前3年、約二千年前)であると伝えられていますが、其の正確な年号は詳ではありません。
 然し旧摂津国菟原郡にあっては、西宮神社(大国主西神社の誤記か-引用者註)・保久良神社と当社の三社が、生田神社・長田神社等と同様、延喜式神祇部(神名帳のこと)に載っており、千数十年前既に由緒ある名社として崇敬されていたことが想像できますが、その後の沿革は定かではありません」
とある。
 前段にいう伊勢神宮云々とは後世になっての仮託伝承であろうが、河内国魂神社が延喜式内社であることからみて、千年以上の歴史を持つ神社であることは確かといえる。
しかし、当社が式内・河内国魂神社とされたのは、享保年間(1716–36・江戸中期)に畿内の式内社を調査考証していた国学者・並河誠所(1688–1738)が、当時、五毛天神社(ゴモウテンジン)と呼ばれていた当社を式内・河内国魂神社と比定したためで、元文元年(1736)9月、地元の庄屋が大阪町奉行所に呼び出されて無理矢理押しつけられた、との経緯があるという。
 並河誠所が五毛天神社を式内・河内国魂神社に比定した根拠は残っておらず、今となっては、当社を式内社に比定した是非を判断する史料はない。

式内社調査報告(1977)は、
 「古代河内国は広くこの付近(大阪湾北岸一帯)まで拡がっており、豪族・凡河内(オウシコウチ)の一族が移住して開拓に従事していたと思れる。

河内国魂神社がこの地に奉斎せられ、本拠地と思われる河内地方にこの名の社が見えないことは、むしろ当地方が中心ではなかったかと推測される」という。

古代河内の範囲については、
 ①当初は大阪湾沿岸地域を示していたが、後に摂津・河内・和泉の国に分割されると、大阪市の東側だけを示すようになった
 ②河内とは淀川の内側との意味であり、淀川の南側を“かわちのクニ”と、外側(北岸)は、“河内の向こう側”という意味で“むこ(う)のクニ”と呼ばれていた
との2説があるといわれ(新修神戸市史・2011、以下「神戸市史」という)、調査報告がいう“大阪湾北岸一帯まで広がっていた”とは①説によるものであろう。
 なお大阪市東部から当地付近までの地域は、古くから“津の国”と呼ばれていた地域で、公的には天武6年(678)に摂津職(セッツシキ・難波宮の経営と津国の国政を担当する特別行政機関)が置かれ、桓武朝・延歴12年(793)の難波宮廃止に伴い摂津国として改編されている

交野郡と遺跡
まんだ 古代では枚方市の全域が河内国茨田 郡に属していたが、大宝2年
(702)に天之川から北の台地は交野郡として分離された。3つ のモニュメントはすべてこの交野郡に存在する。
古代の半島には百済・高句麗・新羅が鼎立した三国時代があり、 その三国間で激しい抗争を繰り返し、そのために多くの人々が列島 へ渡来した3つの大きな時期があった。モニュメントはそれぞれこ の3つの時期に対応している。
・王仁墓 渡来の第1期 4世紀末~5世紀初 百済が高句麗に圧迫され漢江以北を失った時期
・樟葉宮跡 渡来の第2期 5世紀末~6世紀初
うんじん 百済の都漢城が滅び新都熊津 で南下を図る時期
・百済寺跡 渡来の第3期 6世紀中葉~7世紀中葉 百済が新羅・唐と抗争し滅亡した時期

菟道稚郎子
皇太子菟道は王仁を師として諸々の典籍を学び、すべてによく通
達していたと日本書紀は記す。応神には皇位継承の有力候補として
大山守命、大鷦鷯命(後の仁徳)菟道稚郎子がいたが、応神はいち
ばん下の菟道を皇太子に立てた。菟道の母は宮主宅媛で、その父は
わ にひふれのおみ
和邇日触使主 である。使主というのは阿知使主の例のように渡来集
団の長と考えられる。菟道はこの母のもとで王仁の学問を受け入れ る素地を養った。王仁の講義は百済語で行われたであろうから、菟 道は百済語を理解したのだ。百済の血を受けた応神が宮主宅媛を寵 愛し、その子菟道を皇太子に立てたものと想像できる。
うんじん
因みに応神は百済熊津 (忠清南道公州)から来たとの説がある
(金容雲氏「日本=百済」説 )。 熊津は応津とも書き応神の名はそ れに連なっている。神功が半島に出兵するとき既に懐妊しており出 産を遅らせるために石を抱いたと日本書紀は記している。しかしこ れは応神を仲哀の子とするため、即ち天皇家が一系であるとするた めの作為であることは明らかで、応神が神功と共に百済から渡来し た王族であると推論することもできる。そうすれば応神は当然百済 語を話し、王仁とも自由に通じたことになる。
応神の立てた皇太子菟道稚郎子は兄に皇位を譲るために自殺し、 大鷦鷯が立って仁徳天皇となった。これも興味深いテーマだが、本 論から外れるので割愛する。

辰孫王
続日本紀延暦9年条に、津連真道が桓武天皇に奏上した言葉があ る。「応神天皇は、上毛野氏の遠い先祖である荒田別に命じ百済に使いさせ、有識者を招請させました。国主の貴須王は申し出を受け 入れて、一族の中から人材を選び、孫の辰孫王を派遣しました。天 皇はこれを喜ばれ、皇太子の師とされました。こうして初めて中国 の典籍を日本に伝え、大いに儒教の学風をあきらかにされました。 (一部省略 )」 (宇治谷孟氏訳による)
これは、応神15年の王仁来朝の出来事と全く同じ内容なので、 王仁即ち辰孫王ということになる。金達寿氏は「王仁とは朝鮮語の ワンニム(王任)で、これは王様ということに他ならない」と述べ ている。王仁は王族であるということである。辰孫王の子孫は河内 国藤井寺や柏原辺りに住んだが、その柏原に松岳山古墳というのが あり辰孫王の墳墓と言われている。