石部神社、石部氏と石作連

石部神社は式内社合計で十六社

その分布をいうと、西側から見て、但馬3、丹後1、丹波2、播磨1、東側では近江2、伊勢1、越前1、加賀3、少し離れて越後2という形で(ここでは、「磯部」は除き、「岩部」〔「岩」は山偏に石の形〕は含む)、日本のほぼ中央部地域(当時の畿内区域を除いて、その周縁部)にのみに集中する。

近江国伊香郡の石作神社

近隣にあった玉作神社と同じ地、滋賀県長浜市木之本町千田に石作神社・玉作神社として鎮座する。
丸山竜平氏には、近江の石作・石部氏の物部氏との関係を主張する論考(「近江石部の基礎的研究」『立命館文学』三一二。一九九八年)がある。鎮座の地、「千田」は天物部二五部の芹田物部に通じるし、南方二キロほどの近隣には同市高月町に東物部、西物部の大字地名もある。

越後国三嶋郡の御嶋石部神社
その論社の一つが新潟県柏崎市西山町石地にあるが、これは天物部の二田物部に関連する。その社伝によると、祭神(現在は大己貴命とされるが、疑問)が頚城郡居多より船に乗って石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。ここには、船(磐船)、宝剣が神体という物部氏の伝承要素が見られる。
同社の末社に二田〔ふただ〕神社があって、それが応永十五年に崩壊して合祀したため、二田社、二田大菩薩、御嶋二田神社とも称され、天明二年に現社名に復したという。

二田神社
二田村は、かつて新潟県刈羽郡にあった村で、現在は柏崎市西山町二田となるが、当地には式内社の物部神社(祭神を二田天物部命とする)がある。その由緒によると、弥彦の神様(通常、天香語山命とされるが誤りで、越の阿彦を討伐した「大幡主」か。この者は、『豊受大神宮祢宜補任次第』では度会氏の祖で、垂仁天皇の命を受けて越遠征をしたと伝えるが、度会氏祖系の傍系一族にすぎない)に従って天鳥船に乗り、越後の磐舟里に至り、その上陸の地を天瀬(三島郡出雲崎町尼瀬)といい、後に石地磯より南大崎に物部神社を遷すとされる。西山町出身で有名な田中角栄元総理の苗字に関連する「田中」は出雲崎町に田中の大字があって、上記石地の近隣に位置する

越前国今立郡の石部神社(福井県鯖江市磯部町)は、祭神を「吉日古命、吉日売命」としており、これは近江甲賀の石部鹿塩上神社の祭神に通じる。「鹿塩」について言えば、大和の吉野郡吉野町樫尾にある式内川上鹿塩神社に通じ、これは樫尾の巨岩の祭祀と吉野国樔部らの祖石押分にもつながりそうである。甲賀の近隣には少彦名神を祖とする鳥取連関連の川田神社や、熊野神奉斎の飯道神社が式内社としてあり、越前の石部神社もなんらかの形で物部氏関連を示唆する。近江国蒲生郡の石部神社も、少彦名神関連と伝える

東側に分布する石部神社については、物部氏や少彦名神との関連がありそうである。

但馬國朝來郡 刀我石部神社

山東町や出石町にも石部神社があり、区別のため、刀我石部神社とする資料も多い。刀我は東河川の「東河」と同じもので東河川そばの石部神社ということだろう
創祀年代は不詳。
式内社・刀我石部神社に比定されている古社。
祭神は、天日方奇日方命・踏鞴五十鈴姫命・五十鈴依姫命。事代主神の御子である兄妹三柱の神々である。

「特選神名牒」には衣摺大明神と称し、天日方奇日方命のことであるという。
現在地は、岩屋谷と呼ばれる地にあるが、『式内社調査報告』によると昔は、宮集落の西にある宮山に鎮座していたという。宮山は、現地では不動山と呼ばれ、不動尊を祀った山。

丹後国与謝郡の野田川流域には、上記の阿知江石部神社が巨大な奇岩雲岩に因むといい、与謝野町域には物部郷があり、式内社の物部神社・矢田神社がある。阿知江石部神社は祭神を長白羽命とすると伝えるが、この神は少彦名神系の服部連の祖神であった。同町域からは比丘尼城などで銅鐸が合計三個の出土がある。
 東側の石部神社が物部氏関連としたら、西側の分布もほぼ同様か?

石作連
『旧事本紀』の「天孫本紀」には石作連氏の祖が見える。同書には、尾張氏の系図が記載されており、そこには天火明命の六世孫として建麻利尼命〔たけまりね〕があげられて、「石作連、桑内連、山辺県主」の祖と見える

『姓氏録』には、左京神別にあげる石作連条に火明命の六世孫の建真利根命の後だとし、垂仁朝に皇后日葉酢媛が石棺を作らせたことで石作大連の名を賜ったと見える

石作神社について言えば、『延喜式』神名帳に記載される石作神社は、全国で六社あって、そのうち尾張国に四社も集中してあげられる

 石作連を祀った石作神社は『延喜式』神明帳に記され、貞観元年従五位下に昇格している。『大日本史』に石作神社今灰方村大歳神社内にありと記され、石作氏衰微後、大歳神社に合祀さられたものである。

西京区大原野灰方町に鎮座する大歳神社は、乙訓郡式内社の大社であり、月次・新嘗の祭儀にも奉弊された神社である(社伝には、「代々石棺や石才を造っていた古代豪族の石作連が祖神を祀った」とされ、「石作連は火明命の子孫で、火明命は石作連の祖神という」と記されています)。主神に大歳神(大年神)を祀り、相殿に石作神・豊玉姫命を祭祀し、養老ニ年ニ月の創建という。旧乙訓の古社で、『和名類聚抄』にいう石作郷内にあり、式内石作神社の石作神を併祀しているのも見逃せない。

 『播磨国風土記』の印南郡大国里条には、帯中日子天皇(仲哀天皇)の崩御により、息長帯日女命(神功皇后)が陵墓造営のために石作連大来を連れてきて讃伎国の羽若(羽床)の地の石を求められたといい、この地の池之原の南に石の造作物があって、その形状は家屋のような大きさだという。この巨大な石造物が「石宝殿」とも呼ばれて、生石神社(兵庫県高砂市阿弥陀町生石)の神体となっている。同社は式外社であるが、著名な古社であり、祭神を大穴牟遅命、少毘古那命とされる。

播磨国賀茂郡の既多寺の知識に石作連知麿・石勝も見えており(天平六年の「大智度論巻五十六跋語」)、賀茂郡には式内社の石部神社(兵庫県加西市上野町)もあった。当社の祭神は現在、宗像三女神とされる。
石作部の人々は美濃、尾張、近江などにも居たと史料から窺われるが、カバネを負う者で具体的な人名として史料に見えるのは播磨だけのようであるから、『姓氏録』に見える左京・摂津・和泉の神別の石作連の記事と併せて考えても、播磨あたりが起源の地とみられそうである。

播磨起源からみると、尾張氏との同族は不可解なものである。石作連の祖とされる上記の建麻利尼命と石作連大来との関係は不明であるが、命名などから見ると前者の子孫が後者ということになろう。石見国邑智郡の式内社、田立建埋根命神社(島根県邑智郡美郷町宮内)でもその祭神を建真利根命・大山祇神とすると伝える。

吉備東部の大族、石生別君
この石生は「石成、磐梨」とも書くが、備前国磐梨郡には『和名抄』に石生郷や和気郷、物部郷など七郷があげられる。磐梨郡石生郷の地からは銅鐸出土もあり、当地の和気氏は金属精錬に縁由をもつ氏族であり、遠祖の鐸石別命も銅鐸と無縁ではないと谷川健一氏もみている(『青銅の神の足跡』)

垂仁天皇の皇子の鐸石別命の後裔と称するのが石生別君(磐梨別君)であり、後に和気朝臣氏となって、和気清麿を出している。この系統は天孫族息長氏の一派であって、実際には垂仁天皇の後裔ではないが、応神天皇と同族であった

讃岐の王族

鐸石別命の実父は讃岐の讃留霊王こと建貝児命であった。

系図の世代を比較し、合わせて考えれば、鐸石別命こそ建真利根命に当たる者ではなかろうか。(要検討)
そして、石作連の祖の大来とは、おそらく鐸石別命の子か子孫であろう。

息長氏の系譜は少彦名神の後裔であったが、その主流は讃岐、播磨から摂津、さらには近江北部に遷住して、そこに定着する。
その一派は更に北陸道を進んで、越前に三尾君氏、加賀に江沼臣氏、能登に羽咋君氏などを分出した。江沼臣氏がその領域に三つの石部神社を祭祀したのは、その同族性を裏付けよう。具体的には、本拠地に江沼郡の菅生石部神社(石川県加賀市大聖寺敷地。敷地天神、菅生天神ともいう)を奉斎するとともに、同郡に宮村石部神社、能美郡に石部神社(石川県小松市古府町。船見山王明神)を祭祀した。菅生石部神社は、加賀地方では白山比咩神社に次ぐ大社であった。
 これに関連して、近江国の蒲生郡・石部神社(滋賀県蒲生郡竜王町と近江八幡市安土町に論社)、愛智郡・石部神社(同県愛知郡愛荘町沓掛)や甲賀郡・石部鹿塩上神社、越前国今立郡の石部神社は、息長氏族の移動経路の痕跡を示すものではなかろうか。

中田憲信編の『諸系譜』第二冊に記載の「飛騨三枝宿祢」系図や『皇胤志』に拠ると、鐸石別命の後裔は、吉備に残った磐梨別君のほか、東方に移遷して飛騨の三枝乃別や尾張の三野別・稲木乃別、大和の山辺君の祖となったとされる。これは、『古事記』の垂仁段の大中津日子命の子孫とも合致するが、大中津日子命は鐸石別命の別名である。尾張の三野別・稲木乃別は中島県に住み、後に稲木壬生公を出したとの記載も系図にあり、『姓氏録』には左京皇別に稲城壬生公をあげて、「垂仁天皇の皇子の鐸石別命より出づ」と見えるから符合する。中島郡に式内の見努神社(比定社不明で、論社に稲沢市平野天神社〔廃絶〕など)もあげられる。山辺君も、『姓氏録』には右京・摂津の皇別に山辺公をあげて「和気朝臣と同祖。大鐸和居命の後なり」と記される。

 東三河の北部、新城市の大宮地区は、不思議な空間を抱えている。大宮地区の中心に、三河屈指の名社である石座(イワクラ)神社(磐倉大神宮)がある。その御祭神は、天之御中主と天稚彦命であり、天孫降臨に先立って豊葦原中つ国に使わされた、天津国之3子・天若日子が鎮座と伝えられている。
この神社の横隣の地に、大ノ木遺跡という石器時代からの祭祀遺跡があり、大
形の良質ヒスイの飾り物が1994年に出土している。