近江の御上神社と凡河内氏

凡河内氏(おうしこうちうじ)は主に畿内を中心として勢力があった古代豪族。凡河内忌寸、凡川内国造、河内国造とも書かれる。隅田八幡宮人物画像鏡に見られる「開中費直」の文言を「河内直(かわちのあたい)」と解釈する説がある。

天津彦根命の後裔(息子の天戸間見命、五世孫乎田部連、国造本紀による彦己曾保理命等)と天穂日命の後裔(十三世孫可美乾飯根命)、あるいは渡来系(後漢孝献帝の息子白龍王等)の3系統がある。

上代の凡河内国、すなわち後世の摂津、河内、和泉にわたる広い地域に勢力を持っていた。摂津国菟原郡には河内国魂神社(五毛天神)があり、凡河内氏が奉祀していたと考えられる。天平19年(747年)の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帖」には、会下山の付近に凡河内寺山の名が見られる。記紀には、宣化天皇の妃に大河内稚子媛の名が見える。 続日本紀によると、慶雲3年(706年)10月には摂津国造凡河内忌寸石麻呂を従七位上から位一階進める、の記事があり、摂津の国造も出していた様である。 しかし、奈良時代にはかつての勢力は衰えていたと考えられる。

国立国会図書館が収蔵している「諸系譜」の第一冊に納められている『東国諸国造・天津彦根之裔』と題された系図で、
始祖・天津彦根命--天目一箇命--意冨伊我都命
と続いた後、四代目の三兄弟の内の一人が「彦己曽根命(ヒコオゾネ)」で、注意書きの部分に「凡河内国造、大縣主、都下国造等の祖」とあります。

この意富伊我都命の嫡系は
「彦伊賀津命--阿目夷沙比止命--川枯彦命--坂戸毘古命」
とつなぐ近江の三上祝家(御上神社)ですから、宮中で祀られる坐摩神の斎主が凡河内一族である可能性は高いと思われます