須佐之男命、スサノオ

須佐之男命、須佐神社

スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神である。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。アマテラスオオミカミの弟神。
須佐之男神が天照大御神に会うため高天原に登ると国土・山河が揺れ動いたとされ、 泣げば青山は枯山と化し、海河をことごとく泣き乾したという。

この時、須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日神を加えた六柱)を生んだ。
宗像三女神の他に、櫛名田姫命との間に八嶋士奴美命・五十猛命・大屋津媛命・抓津媛命、 神大市姫神との間に宇迦之御魂・大年神、 佐美良比売命との間に大屋毘古命・須勢理比売命が生まれている。
素鵞社

出雲大社の裏手にある摂社で祭神のスサノオを祀る神社が「素鵞社(ソガノヤシロ)」という。スサノオとソガはどういう関係があるのであろう。
須佐神社

島根県出雲市にある神社である。式内社で、旧社格は国幣小社。出雲國神仏霊場第十八番。 須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀する
『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来須佐之男命の本宮とされた。社家の須佐氏は、須佐之男命の子の八島篠命を祖とすると伝える。
旧社地は神社の北方にある宮尾山にあったとされる。現社地は盆地のほぼ中央部にあり、中世の時点ではすでにこの地にあったと考えられる。
『出雲国風土記』に「須佐社」と記載されている。『延喜式神名帳』に「須佐神社」と記載され、小社に列している。中世には「十三所大明神」「大宮大明神」、近世には「須佐大宮」と称した。明治4年(1871年)に延喜式に記載される「須佐神社」に改称し、明治5年(1872年)に郷社に列格し、翌明治6年(1873年)に県社に、明治33年(1900年)に国幣小社に昇格した。
須我神社

島根県雲南市にある神社である。旧社格は県社。須佐之男命が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝え、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称される。
須佐之男命と妻の稲田比売命、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと。八島士奴美神)を主祭神とし、諏訪大社の分霊の武御名方命を配祀する。
天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。
新羅
古事記によると武内宿禰が蘇我氏の始まりとされている。武内宿禰の子が蘇我石川宿禰で石川宿禰の孫は韓子(カラコ)宿禰でその子は高麗(コマ)宿禰といい、渡来系の名前がついていることやスサノオ神との関連から、蘇我氏は帰化族倭漢氏(ヤマトノアヤ)と同系の渡来人と考えられる。

蘇我氏は新羅系となる。
乙巳の変(いっしのへん)を裏側から見ると、新羅系蘇我氏を打ったのが中臣鎌足と中大兄皇子だが、この二人は百済に味方して、白村江の戦いに大軍団を派兵しているのをみると、百済系は明らかである。

中大兄皇子(後の天智天皇天皇)の近くに百済国の義慈王(ウィジャワン)の息子で皇子の豊璋が人質として来日していたことも裏付けらえる。
スサノオ神も新羅系である。日本書紀にスサノオがソシモリ(韓国江原道春川府の牛頭州)に行ったと記録されている。京都の八坂神社の社殿には「斉明天皇(656年)二年に、新羅国の牛頭山におけるスサノオノ神霊を祀る」とある。島根県の石見で、「韓」や「辛」がつく地名には、スサノオ神話が伝承されている。
さらに天のヒボコ系も新羅系である。

『記紀』には新羅系渡来人「天日槍(アメノヒボコ)」の伝承がある。

垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)を伊奢沙別命(いざさわけのみこと)として祀った」といわれている。天日槍という名で呼ばれる新羅系の渡来人集団は北部九州の糸島半島辺りにあった伊都国に上陸し、ここで勢力をつけたのち豊前香春、そして宇佐から瀬戸内海を渡って淡路、播磨、難波、そして近江を経由してこの若狭に至る。そして但馬の出石を落ち着き先とした。(林屋辰三郎氏ら)
建と速は共に神威を称えた語。須佐は進む、荒ぶなどのスサ。この神に関する神話は荒々しい振舞をされる話が多く、荒々しい神。 また、鼻より化生した神であり、荒い鼻息から連想して、嵐の神とする説もある。

『出雲国風土記』飯石郡須佐郷の項に、神須佐能袁命が鎮まったとあり、もともと出雲系氏族の祖神とする説が一般的。
櫛御食野命

くしみけぬのみこと
出雲国風土記には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、先代旧事本紀、神代本紀には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。
別名

櫛御氣奴命:くしみけぬのみこと

櫛御氣野命:くしみけぬのみこと

久志美氣濃命:くしみけぬのみこと

熊野加武呂乃命:くまのかむろのみこと

神祖熊野大神櫛御気野命:かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと

伊射那伎乃真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命:いざなぎのまなこのかむろぎのくまのおおかみくしみけぬのみこと

家津御子神:けつみこのかみ

家都美御子大神:けつみみこのおおかみ

……

別名も含め、すべて須佐之男命のことと考えられている。
櫛御食野命は、櫛は奇霊(くしび)であること、御気は御食または御木のことで、 神祖熊野大神櫛御気野命と同神。つまり熊野大神。
熊野加武呂乃命は、『出雲風土記』意宇郡出雲神戸の説明に、 「伊弉奈枳の命のいとし子でいらっしゃる熊野加武呂の命と、多くの鋤をつぎつぎとお手になさって、 この世をお造りになった大穴持の命との二所の大神に(産物を)献じ奉る民戸である」とある。
伊射那伎乃真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命は、出雲國意宇郡熊野坐神社の祭神。 伊射那伎神の子の熊野加武呂乃命で櫛御食野命という意味だろうか。
家都美御子大神は、紀伊國牟婁郡熊野坐神社の祭神。名義は樹木を支配する神で、 須佐之男命、あるいは五十猛命とする説もある。
櫛御食野命 を祀る神社
熊野大社 島根県松江市八雲町熊野2451

熊野大社 山形県南陽市宮内3476-1

熊野本宮大社 和歌山県田辺市本宮町本宮

熊野本宮旧社地 大斎原 和歌山県田辺市本宮町本宮

熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮1

熊野那智大社 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山

熊野神社 富山県富山市婦中町友坂字熊野山5404

熊野神社 富山県富山市宮保476

熊野神社 岐阜県中津川市馬籠峠3921

川合神社 新潟県胎内市熱田坂663

阿多由太神社 岐阜県高山市国府町木曽垣内字牧戸1023

槻本神社 岐阜県高山市丹生川町山口字月本145

堂山神社 東京都利島村

美談神社 境内 彌陀彌神社 島根県出雲市美談町182

万九千神社 島根県出雲市斐川町併川字神立5258

山狹神社 境内 久志美氣濃神社 島根県安来市広瀬町大字下山佐1176

玉前神社 境内 十二社 千葉県長生郡一宮町一宮3048

花長上神社 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名礼1211-1

田代神社 岐阜県養老郡養老町高田259-1

宇波刀神社 岐阜県安八郡安八町森部373-10

朝日山計仙麻神社 宮城県石巻市北村字朝日山8

伊達神社 宮城県加美郡色麻町四竈字町3

子松神社 宮城県大崎市古川新田字鹿島西82

多賀神社 宮城県名取市高柳字下西50

普天満宮 沖縄県宜野湾市普天間1-27-10

天岩戸神社 京都府福知山市大江町佛性寺日浦ケ嶽206-1

熊野神社 京都府福知山市大江町公庄269-14

神宝神社 奈良県桜井市大字三輪字大宮川上

榛名神社 境内 熊野社 群馬県沼田市榛名町2851

宇奈爲神社 境内 熊野本宮 徳島県那賀郡那賀町木頭字内の瀬1

進雄神社 群馬県高崎市柴崎町801

玉村八幡宮 群馬県佐波郡玉村町下新田1須佐之男命、須佐神社、 8月

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投稿者: tokyoblog

スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する神である。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。アマテラスオオミカミの弟神。
須佐之男神が天照大御神に会うため高天原に登ると国土・山河が揺れ動いたとされ、 泣げば青山は枯山と化し、海河をことごとく泣き乾したという。

この時、須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、建速須佐之男命は三女(多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日神を加えた六柱)を生んだ。
宗像三女神の他に、櫛名田姫命との間に八嶋士奴美命・五十猛命・大屋津媛命・抓津媛命、 神大市姫神との間に宇迦之御魂・大年神、 佐美良比売命との間に大屋毘古命・須勢理比売命が生まれている。
素鵞社

出雲大社の裏手にある摂社で祭神のスサノオを祀る神社が「素鵞社(ソガノヤシロ)」という。スサノオとソガはどういう関係があるのであろう。
須佐神社

島根県出雲市にある神社である。式内社で、旧社格は国幣小社。出雲國神仏霊場第十八番。 須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀する
『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。古来須佐之男命の本宮とされた。社家の須佐氏は、須佐之男命の子の八島篠命を祖とすると伝える。
旧社地は神社の北方にある宮尾山にあったとされる。現社地は盆地のほぼ中央部にあり、中世の時点ではすでにこの地にあったと考えられる。
『出雲国風土記』に「須佐社」と記載されている。『延喜式神名帳』に「須佐神社」と記載され、小社に列している。中世には「十三所大明神」「大宮大明神」、近世には「須佐大宮」と称した。明治4年(1871年)に延喜式に記載される「須佐神社」に改称し、明治5年(1872年)に郷社に列格し、翌明治6年(1873年)に県社に、明治33年(1900年)に国幣小社に昇格した。
須我神社

島根県雲南市にある神社である。旧社格は県社。須佐之男命が八岐大蛇退治の後に建てた宮殿が神社になったものと伝え、「日本初之宮(にほんはつのみや)」と通称される。
須佐之男命と妻の稲田比売命、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと。八島士奴美神)を主祭神とし、諏訪大社の分霊の武御名方命を配祀する。
天平5年(733年)、『出雲国風土記』大原郡条に記載されている「須我社」に比定される。風土記の時点では神祇官の管轄ではなく、延長5年(927年)の延喜式神名帳には記載されていない。本来の祭神は大原郡海潮郷の伝承に登場する須義禰命であったものが、記紀神話の影響により須佐之男命に結び付けられたとも考えられる。
新羅
古事記によると武内宿禰が蘇我氏の始まりとされている。武内宿禰の子が蘇我石川宿禰で石川宿禰の孫は韓子(カラコ)宿禰でその子は高麗(コマ)宿禰といい、渡来系の名前がついていることやスサノオ神との関連から、蘇我氏は帰化族倭漢氏(ヤマトノアヤ)と同系の渡来人と考えられる。

蘇我氏は新羅系となる。
乙巳の変(いっしのへん)を裏側から見ると、新羅系蘇我氏を打ったのが中臣鎌足と中大兄皇子だが、この二人は百済に味方して、白村江の戦いに大軍団を派兵しているのをみると、百済系は明らかである。

中大兄皇子(後の天智天皇天皇)の近くに百済国の義慈王(ウィジャワン)の息子で皇子の豊璋が人質として来日していたことも裏付けらえる。
スサノオ神も新羅系である。日本書紀にスサノオがソシモリ(韓国江原道春川府の牛頭州)に行ったと記録されている。京都の八坂神社の社殿には「斉明天皇(656年)二年に、新羅国の牛頭山におけるスサノオノ神霊を祀る」とある。島根県の石見で、「韓」や「辛」がつく地名には、スサノオ神話が伝承されている。
さらに天のヒボコ系も新羅系である。

『記紀』には新羅系渡来人「天日槍(アメノヒボコ)」の伝承がある。

垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)を伊奢沙別命(いざさわけのみこと)として祀った」といわれている。天日槍という名で呼ばれる新羅系の渡来人集団は北部九州の糸島半島辺りにあった伊都国に上陸し、ここで勢力をつけたのち豊前香春、そして宇佐から瀬戸内海を渡って淡路、播磨、難波、そして近江を経由してこの若狭に至る。そして但馬の出石を落ち着き先とした。(林屋辰三郎氏ら)
建と速は共に神威を称えた語。須佐は進む、荒ぶなどのスサ。この神に関する神話は荒々しい振舞をされる話が多く、荒々しい神。 また、鼻より化生した神であり、荒い鼻息から連想して、嵐の神とする説もある。

『出雲国風土記』飯石郡須佐郷の項に、神須佐能袁命が鎮まったとあり、もともと出雲系氏族の祖神とする説が一般的。
櫛御食野命

くしみけぬのみこと
出雲国風土記には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。本来、櫛御気野命は素戔嗚尊とは無関係であったものとみられるが、先代旧事本紀、神代本紀には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、かなり古い時代から櫛御気野命が素戔嗚尊と同一視されるようになったと考えられる。
別名

櫛御氣奴命:くしみけぬのみこと

櫛御氣野命:くしみけぬのみこと

久志美氣濃命:くしみけぬのみこと

熊野加武呂乃命:くまのかむろのみこと

神祖熊野大神櫛御気野命:かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと

伊射那伎乃真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命:いざなぎのまなこのかむろぎのくまのおおかみくしみけぬのみこと

家津御子神:けつみこのかみ

家都美御子大神:けつみみこのおおかみ

……

別名も含め、すべて須佐之男命のことと考えられている。
櫛御食野命は、櫛は奇霊(くしび)であること、御気は御食または御木のことで、 神祖熊野大神櫛御気野命と同神。つまり熊野大神。
熊野加武呂乃命は、『出雲風土記』意宇郡出雲神戸の説明に、 「伊弉奈枳の命のいとし子でいらっしゃる熊野加武呂の命と、多くの鋤をつぎつぎとお手になさって、 この世をお造りになった大穴持の命との二所の大神に(産物を)献じ奉る民戸である」とある。
伊射那伎乃真名子加夫呂伎熊野大神櫛御気野命は、出雲國意宇郡熊野坐神社の祭神。 伊射那伎神の子の熊野加武呂乃命で櫛御食野命という意味だろうか。
家都美御子大神は、紀伊國牟婁郡熊野坐神社の祭神。名義は樹木を支配する神で、 須佐之男命、あるいは五十猛命とする説もある。
櫛御食野命 を祀る神社
熊野大社 島根県松江市八雲町熊野2451

熊野大社 山形県南陽市宮内3476-1

熊野本宮大社 和歌山県田辺市本宮町本宮

熊野本宮旧社地 大斎原 和歌山県田辺市本宮町本宮

熊野速玉大社 和歌山県新宮市新宮1

熊野那智大社 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山

熊野神社 富山県富山市婦中町友坂字熊野山5404

熊野神社 富山県富山市宮保476

熊野神社 岐阜県中津川市馬籠峠3921

川合神社 新潟県胎内市熱田坂663

阿多由太神社 岐阜県高山市国府町木曽垣内字牧戸1023

槻本神社 岐阜県高山市丹生川町山口字月本145

堂山神社 東京都利島村

美談神社 境内 彌陀彌神社 島根県出雲市美談町182

万九千神社 島根県出雲市斐川町併川字神立5258

山狹神社 境内 久志美氣濃神社 島根県安来市広瀬町大字下山佐1176

玉前神社 境内 十二社 千葉県長生郡一宮町一宮3048

花長上神社 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名礼1211-1

田代神社 岐阜県養老郡養老町高田259-1

宇波刀神社 岐阜県安八郡安八町森部373-10

朝日山計仙麻神社 宮城県石巻市北村字朝日山8

伊達神社 宮城県加美郡色麻町四竈字町3

子松神社 宮城県大崎市古川新田字鹿島西82

多賀神社 宮城県名取市高柳字下西50

普天満宮 沖縄県宜野湾市普天間1-27-10

天岩戸神社 京都府福知山市大江町佛性寺日浦ケ嶽206-1

熊野神社 京都府福知山市大江町公庄269-14

神宝神社 奈良県桜井市大字三輪字大宮川上

榛名神社 境内 熊野社 群馬県沼田市榛名町2851

宇奈爲神社 境内 熊野本宮 徳島県那賀郡那賀町木頭字内の瀬1

進雄神社 群馬県高崎市柴崎町801

玉村八幡宮 群馬県佐波郡玉村町下新田1