「倭国」から「日本」へ
『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國で記述される607年に俀國王多利思北孤から派遣された遣隋使の使者が持参した隋への国書では、俀國王(倭国王)の表記を用いず、「日出處天子」(日出ずるところの天子)と記している。これは当時の仏典『大智度論』(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書)などに「日出處是東方 日没處是西方」とあるように東方にあることを示しただけとする考えもある。しかし、日本が発展する中で「倭」という文字は国名に相応しい意味ではないと気付き、それが理由となり「日本」という国名に改めていったという説が存在する[4]。その後、7世紀後半に至るまで国号の表記は倭国・倭のままであった。
『旧唐書』巻一百九十九上 列伝第一百四十九上 東夷 倭国 日本国
日本國者、倭國之別種也、以其國在日邉、故以日本爲名。或曰:「倭國自惡其名不雅、改爲日本。」或云:「日本舊小國、併倭國之地。」
『新唐書』巻二百二十 列伝第一百四十五 東夷 日本
咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言國近日所出、以爲名。或云:「日本乃小國、爲倭所并、故冒其號。」使者不以情、故疑焉。
『宋史』巻四九一 外国伝 日本国
倭國者、本倭奴國也、自以其國近日所出、故以日本爲名。或云、惡其舊名改之也。
『三国史記』新羅本紀 文武王十年十二月
倭國更號日本、自言近日所出、以爲名。
660年、百済が滅びると倭国はその復興を企図し、唐・新羅とのあいだで663年に白村江の戦いが勃発するが敗北し、朝鮮半島からの完全撤退を余儀なくされた。これを受け倭国内部では、国制整備・国力増強への志向が急速に強まった。667年の壬申の乱に勝利した天武天皇は、律令国家建設を加速し、その過程で、北朝唐に対して、南朝系の倭国・倭とは別国である如くに示すことにより、唐の侵攻をなんとしても避ける必要があった。7世紀最末期には新国家体制を規定する大宝律令の編纂がほぼ完了したが、同律令施行直前の701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされている。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭をヤマトと自称することになる。
このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されている。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されている。また、朝鮮半島の史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とある。新唐書には天皇家として目多利思比孤が初めて中国と通じたと記されている。