雄略天皇と百済遷都
『日本書紀』 「雄略天皇20年(476年)に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄
二つの百済
百済の言語についてはじめて記した史書は『梁書』である。 今言語服章略與高麗同 梁書(り
四、五世紀の倭国
順帝昇明二年(478年) 遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より
伽耶 (任那、加羅)
『三国史記』『三国遺事』などの韓国史書文は、3世紀までは加羅諸国の神話・伝承を伝えて
翰苑 倭國
『翰苑』 は唐の時代の 張楚金が撰し、雍公叡が注した「類書」。 「類書」とは、多く
3世紀の流民と辰韓
『後漢書』辰韓伝、『三国志』魏書辰韓伝、『晋書』辰韓伝、によると、秦の始皇帝の労役か
梁書 東夷条 倭
倭は自ら太伯の後と云う。 俗は皆文身。 帶方を去ること萬二千餘里、おおよそ會稽の東
新羅、百済の歴と年号
歴と年号は、独立した国と王朝の証である。 『宋書夷蛮伝』に高句麗伝・百済伝・倭国伝
南史 倭国伝
倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。人種禾稻、