加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡、大岩山古墳群

加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)は、島根県雲南市加茂町岩倉にある弥生時代の遺跡。国の史跡に指定されている(1999年1月14日)。

一カ所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見された。出土品は国(文化庁)が所有し、島根県立古代出雲歴史博物館に保管されている。1999年に遺跡は国の史跡に指定され、出土した銅鐸は国の重要文化財に指定された。2008年7月には、出土した39口の銅鐸は国宝に指定された。

遺跡は先に発見され358本の大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡と山を隔てて南東に僅か3.4kmしか離れておらず、両遺跡から出土の銅鐸に「×」印の刻印があることから両遺跡は関係あることが分かり、古代出雲を研究する上で大きな手がかりとなっている。これらの二つの発見から、またさらに後に発見された「出雲大社境内遺跡」との関連から、古代イズモには王国、あるいは文化圏が存在した、とする研究者が増えてきている。

荒神谷遺跡

「荒神谷遺跡」が正式名であるが、大字名を冠して「神庭荒神谷遺跡」とも呼ばれる。

1984年 – 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。銅剣は1985年、銅鐸・銅矛は1987年に国の重要文化財に指定されていたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。出土品は現在、文化庁が所蔵し、島根県立古代出雲歴史博物館などに保管されている。

銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。

銅鐸
発掘開始まもなく、銅剣出土地点よりも7メートルほど谷奥へ行った場所で銅鐸6口が発見された。埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で2列に並べられていた。分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。文様に強い独自性がみられる1つを除いては、同形式の銅鐸の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力である。12年後に出土した加茂岩倉遺跡の39口の銅鐸との関連性を考慮すると、一概に畿内製造であるとは言い切れなくなってきている。北部九州製の可能性が高い。

三号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが確認されている。
二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵である

ことが判明した。なお6個の銅鐸の高さが20センチと同じである。

銅矛

矛先を揃えられ、銅鐸と共に出土した銅矛
銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の東側に、16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。横には小ぶりの銅鐸が鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で、同じく交互に並べた状態であった。鰭とは、銅鐸の横側、板状の部分を「鰭」と呼ぶ。古代当時、この青銅器に関わった人が、銅矛の刃と銅鐸の鰭を立てた状態で丁寧に並べて置いた、そのままの状態を保って出土したのである。
分類には諸説あるが、大まかに言えば、中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は、銅剣とほぼ同じか、若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州産の青銅器に見られる綾杉状のとぎ分けがあることから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。

野洲町 大岩山古墳群

銅鐸は、明治14年に14個、昭和37年に10個、小篠原の大岩山から発見された。その中には、高さ134.7センチ、重さ45.47キログラムと日本一の大きさを誇る巨大な銅鐸もあった
 銅鐸が出土した銅鐸博物館の周辺は、銅鐸の次の時代=古墳時代の首長の墓が連綿と築かれています。博物館の敷地の一角にある、史跡宮山2号墳は国史跡大岩山古墳群8基の中でも最後の首長の墓と考えられる古墳で、大きな石を使った石室の中に石棺が安置されています。もちろん、石室の中に入って見学することができます。
 特色ある家形石棺が納められている円山古墳・甲山古墳や前方後円墳の天王山古墳からなる桜生史跡公園が近くにあり、さらに大塚山古墳・冨波古墳(前方後方墳)・古冨波山古墳・亀塚古墳が広がっていて、古代遺跡の宝庫です。