万葉歌で詠われている「 風祭 」は今も「 風鎮大祭 」として続いているのですが、その始まりは日本書紀に記録されています。
日本書紀、天武4年(675)夏4月の条の
夏四月(うづき)の癸未(みづのとのひ ひつじのひ)(十日)に、小紫(せうし)美濃王(みののおほきみ)・小錦下(せうきむげ)佐伯連廣足(さへきのむらじひろたり)を遣(まだ)して、風神(かぜのかみ)を龍田(たつた)の立野(たつの)に祀(まつ)らしむ。
小錦中(せうきむちゅう)間人連大蓋(はしひとのむらじおほふた)・大山中(だいせんちゅう)曾禰連韓犬(そねのむらじからいぬ)を遣して、大忌神(おほいみのかみ)を廣瀬(ひろせ)の河曲(かはわ)に祭(まつ)らしむ。
以降、日本書紀の天武紀と持統女帝の即位以降のほぼ毎年、夏四月と、時には秋7月に、
「 使いを遣して廣瀬大忌神(ひろせのおほいみのかみ)と龍田風神(たつたのかぜのかみ)とを祭らしむ。 」
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。正史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。『延喜式神名帳』では「大和国平群郡 龍田坐天御柱国御柱神社二座」として名神大社に列し、二十二社の一社とされた。
近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に龍田神社として官幣大社に列した。