寒川神社、水主神社

相模の国 一宮 寒川神社
寒川比古命(さむかわひこのみこと)寒川比女命(さむかわひめのみこと)ニ柱の神を祀り、寒川大明神と呼ばれています。寒川神社の創祀年代は不明ですが、雄略天皇(456~479)の御代に奉幣、また神亀4年(727)社殿建立と伝える記録があります。「延喜式」神名帳(927年編纂)によれば、相模国十三社のうち、唯一の名神大社とされています。
由緒-  当神社の創始は古く日本総国風土記によれば今より約千五百年前、雄略天皇の御代朝廷より奉幣のことが記されており、当時、朝野遠近の崇敬篤く著名の大社であったことが知られる。 其後桓武天皇の延暦七年を始めとして歴代奉幣のことがあり、亦、仁明天皇承和十三年以来数次に亘り神階を奉授せられ、更に醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国の名神大社と定められ幣帛を奉せられておりこの地方の庶民信仰の中心をなしていた。 後世、源頼朝、小田原北条氏累代、社殿造営社領の寄進等あり武田信玄の信仰も特に篤く徳川時代に至っては徳川氏社殿再建のこと亦社領の寄進等、古来武門武将の崇敬は鄭重きわめるものがあった。 明治四年三月官国幣社制度の制定せられるや国幣中社に列せられ国費を以って幣帛料御奉納あらせられたるも昭和二十年十二月神道指令により神社の国家管理を廃止され現在は神社本庁の別表神社として全国崇敬者より御神徳を敬仰されている。

千葉 寒川神社(寒川町)
http://www5a.biglobe.ne.jp/~samugawa/
 祭神は寒川比古命・寒川比売命・天照大神で、もとは神明神社と 呼ばれたが、明治元年寒川神社と改めた。伴信友の『神名帳考証』 ではこの神社を『延喜式』所戴の寒川神社と推定した。寒川の総鎭 守で沖合を通る船舶は必ず下帆の礼を、乗馬の者は必ず下馬の礼を とったといわれ、天正19年(1591)11月徳川家康は社領10石を寄進 している。
千葉の寒川港(港町)  江戸時代に千葉市内に関係ある港は検見川・登戸・寒川・曽我野・ 浜野であっで、とりわけ寒川港は佐倉藩の御用港として重視された。 延亨3年(1746)2 月の『寒川村指出帳』によると、御蔵屋敷があっ て4棟が建ち並び村には百姓船(五大力船)が40艘もあり、その内訳 は100俵積と90俵積であった。このほか押送船が20艘、名主船1艘が あり、寒川御蔵より米・大豆を江戸へ廻送したという。

伊勢津彦の末裔が茅武彦命?
神武天皇東征の折に、天日別(アメノヒワケ)命が伊勢の地に勢力を張っていた伊勢津彦(イセツヒコ)に領地を譲るよう求めたところ、イセツヒコは波に乗って東に去り、信濃の国に移ったといいます。そこで神武天皇はこの地を、国神(土着神)であるイセツヒコの名にちなんで「伊勢」と名づけたとされます。
『先代旧事本紀』に、十三代成務天皇が出雲笠夜命を嶋津(しまづ)国造に任じたと記されている。嶋津が伊勢・志摩をさすならば、出雲笠夜命と伊勢津彦の関係は?茅武彦命は、伊勢津彦の末裔(孫)といわれている。

相模の歴史:大神塚古墳 浜降り祭の縁起
初代は成務天皇の五年九月、茅武彦命(かやたけひこのみこと)が国造に任命されたという。これはいわゆる官製の国造の初めであるが、これまでの国造(首長)の子孫がそのまま任命されたものである。
茅武彦命については、西方より来て、相模国の当時の海岸であった香川・西久保あたり(いずれも現在の茅ヶ崎市の中西部)に上陸し、まず北方近くの芹沢に滞在し、次いで宮原に移り、三転して寒川に赴いて移住したとの説もある。
 国造本紀によれば、相武国の初代国造は茅武彦命で、成務天皇の時代という。彼は武刺国造の祖伊勢津彦の孫とされる
以上は http://www.scn-net.ne.jp/~mickun-7/hamaorisai/hamaori2.htm
寒川神社の祭神だが、惣国風土記には菊理媛(くくりひめ)となっている。ほかには素戔鳴尊・稲田姫とするものや大己貴命とするものなどがある。 明治7年、教部省が『皇太神宮儀式帳』に載る末社牟瀰(むみ)神社の祭神が寒川比古・寒川比女であるから寒川神社の祭神も同じであろうという説を出し、明治9年にこの説を採用したという。
「寒川神とは如何なる神におわすのか、この神も大山祇神御親縁の神におわして、明見・駿河・足柄上などの天神宮や浅間神とは、関係が最も深き神におわせるものと拝せられる。 寒川神社は、大山祇命国狭槌尊、応神天皇木花咲耶姫命が祭神である。「大山祇命ハ即チ寒川彦命・寒川姫命ハ加茂沢姫命」という処の寒川彦の寒川姫の娘菊理姫なりとも推理される。
甲斐宮下文書に見える寒川神社の御祭神説は、どうも後人の附加説も多く、つまり 国狭槌尊加茂沢姫命及び菊理姫は、吉田垂迦説者の加筆したものではあるまいか。
大山祇命・木花咲耶姫命・寒川彦命・寒川姫命の四祭神が石井広夫著の古正伝にもでている処の実在の方であるとのことである。「大日本史神祇志」によれば、伊勢国度会郡の園相神社は、大水上子曽名比々古命を祀るという。大水上とは大山祇の別名のことであって「神名秘書」では、伊勢宇治の大水上社は、大山祇御祖神で、倭姫の命の御世に定まった祀なりという。群書類従にもこれはあるにはある。「神祇志」伊勢国度会郡の条に「牟弥(ムミノ)神社」として大水の上子寒川比古寒川比女命を祀る。伊勢国にては此他にも大水上子神多くまつられ各神祇の多くは倭姫命神宮、つまり伊勢の御官の奉斎のみぎりに内外両宮の河堤守護神として祭祀し給いたるにてよって、大山祀神御関係の祇の祖神社と申べき朝熊神社は特に水神として祀られている。伊勢では水上は、伊勢の御宮の五十鈴川の守護神とされている。
神社東方3キロに芹沢(茅ヶ崎市)という地区があり、腰掛神社がある。境内には寒川大神が腰掛けた85?aほどの石がある(現地の案内板には、大庭の神が腰掛けたと記載されている)。伝説によれば、大神はいずれかからやって来て芹沢に暫く逗留し、間もなく北西3キロの宮原(藤沢市)に移った。そこには現在も寒川社という小社がある。大神はそこも去って現寒川神社の地(寒川町宮山)に移り長く居住したという。
神社東南1キロのところに応神塚という古墳がある。名の由来は寒川祭神が中世以降八幡神とされたことによる。もとは前方後円墳であったが、前方部はすでになく後円部頂上には1?bほどの石碑が建っている。この墳墓の発掘は明治41年に東大坪井正五郎教授の指導のもとに行われ、和鏡2面、漢鏡1面、直刀破片などが出土したが石槨とか人骨とかは出ず、盗掘の跡もなかった。ところが近くの陪塚から石槨が見つかり、金銀環大小6個、勾玉1個、管玉2個、切子玉5個、小玉11個などが出土した。

讃岐の水主神社
「この神社は、讃岐の国でも一二を争う格式のある神社」との話があり、義経さまは、屋島の合戦の前、ご自身の鞍(くら)を奉納(ほうのう)し、ひたすら勝利を祈りました。
伝承  社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる。
http://www.genbu.net/data/sanuki/mizusi_title.htm

京都府城陽市にも水主神社がある。
日本書紀の仁徳天皇の時代・・・ 仁徳天皇12年冬10月、山城の栗隈県(くるくまのあがた)= 現在の、宇治市大久保周辺 に大溝を掘って、田に水を引いた。これによって、その地は、毎年豊かになった。とあるのデス。
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/kyoto/temple/mizusi-shrine-06.htm

近鉄寺田駅の西に「水主(みずし)神社」がある。「水主」は「みぬし」とも読む。水主氏は栗隈大溝を管理した者と伝えられる。後、水主の神は雨ごいの神ともなっている。栗隈王の名は「美努王」によって伝えられる。また栗隈黒媛娘は采女として天智天皇との間に「水主皇女(もひとりのひめみこ)」をもうけている(天智七年二月)。橘諸兄は孫に当たる。
美努王と水主神社が関連があった。

大水上神社
大水上神社由緒略記
香川県三豊郡高瀬町大字羽方
御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。 三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。 皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。
三代実録には,
 貞観7年5月乙己 讃岐国大水上神授 正五位下
 貞観17年5月戊申 授讃岐国正五位下大水上神 正五位上

神名帳考証に「寒川郡大蓑神社水霊郡名寒川郡因此神歟」と云う。 特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」と記されたり。

伊勢神宮の摂社「御船神社」
社地は外城田川(別名、寒川ともいわれる)の上流地で、 外城田川が神社の東のあたりを流れている。
この神社の由緒は 垂仁天皇の頃、 倭姫命(ヤマトヒメノミコト:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる、伊勢神宮最初の斎宮)が、坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 この辺りの水域は大変荒れてて、 しかも、その水に水難の相が見受けられた為、 この川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。 倭姫命が名付けられたという寒川の故事により田丸町(現、玉城町)辺りは明治初期「寒川村」と改名を命じられたとも言われる。 だが、直後に再び田丸町に復しているという。 

御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座されている。 同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は「寒川比古命」、「寒川比女命」である。 寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(オオミナカミノカミ)、天須婆留女命(アメノスバルノミコトノ)、大歳神(オオトシノカミ)等の神々が祭られ、何れも神格は水神や農神であるという。

讃岐の大川郡寒川町
町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。
この神社の起縁由緒には「 水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし 」とある。

 甲斐宮下文書に見える寒川神社の御祭神説は、どうも後人の附加説も多く、つまり国狭槌尊加茂沢姫命及び菊理姫は、吉田垂迦説者の加筆したものではあるまいか。
「大日本史神祇志」によれば、伊勢国度会郡の園相神社は、大水上子曽名比々古命を祀るという。大水上とは大山祇の別名のことであって「神名秘書」では、伊勢宇治の大水上社は、大山祇御祖神で、倭姫の命の御世に定まった祀なりという。群書類従にもこれはあるにはある。
 寒川神は、その御子神におわせるのである。「神祇志」伊勢国度会郡の条に「牟弥(ムミノ)神社」として大水の上子寒川比古寒川比女命をまつるとでているのは宮下本家のものが正しい。
 御子とは後裔の意味であり伊勢国にては此他にも大水上子神多くまつられ各神祇の多くは倭姫命神宮、つまり伊勢の御官の奉斎のみぎりに内外両宮の河堤守護神として祭祀し給いたるにてよって、大山祀神御関係の祇の祖神社と申べき朝熊神社は特に水神として祀られているのは、海洋渡来をしめすゆえ「倭姫世紀」にも出ているゆえ天照大神であろうか。
 伊勢までは水上は、伊勢の御宮の五十鈴川の守護神とされているが、京へ入ると別である。
 なにしろ京は大陸系の手で坊都として延暦十三年十月二十二日より遷都された土地柄もある。が水上の氏子たちは、日本原住民系ゆえ被差別の奴扱いを幕末までされていたのである。
 水戸弘道館で作成された「大日本史」では「神祇志」の四国讃岐寒川郡大簑神社の条に、「大水上神とは霊泉あれ覗き見る事も許されぬゆえ、神霊の御水なりと、その泉の上に立つ宮をかく呼ぶのである。水上や寒川の地名や郡名もこれに由来するものである」

讃岐 寒川郡
古代律令国家においては、地方行政単位として、国の下に郡、郡の下に郷があり、寒川郡には難波郷、石田郷、長尾郷、造田郷、鴨部郷、神埼郷および多和郷の7郷がありました

相武国造は相模国(現・神奈川県)東部を支配した国造で、成務天皇の時代に伊勢国の地主神である伊勢都彦の3世孫・弟武彦命を国造に定めたことに始めるとされる。

伊勢津彦の末裔が茅武彦命?
神武天皇東征の折に、天日別(アメノヒワケ)命が伊勢の地に勢力を張っていた伊勢津彦(イセツヒコ)に領地を譲るよう求めたところ、イセツヒコは波に乗って東に去り、信濃の国に移ったといいます。そこで神武天皇はこの地を、国神(土着神)であるイセツヒコの名にちなんで「伊勢」と名づけたとされます。
『先代旧事本紀』に、十三代成務天皇が出雲笠夜命を嶋津(しまづ)国造に任じたと記されている。嶋津が伊勢・志摩をさすならば、出雲笠夜命と伊勢津彦の関係は?茅武彦命は、伊勢津彦の末裔(孫)といわれている。