黄巾の乱
後漢末期の184年には、黄巾の乱と呼ばれる農民反乱がおきた。
太平道という宗教の創始者張角は貧窮農民を主力とした反乱を指導。反乱軍は五行思想にもとづいて黄色の頭巾をつけたので黄巾の乱とよばれた。宦官政府は反乱軍と党人との連合を恐れて党錮の禁を解いた。黄巾軍の主力は潰滅したが、残党やその他の反乱が多発し、後漢王朝の権力は急速に衰え、群雄が割拠する状態に陥った。
張角は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり、天下大吉」をスローガンにして、西暦184年の3月5日に反乱を起こした。
蒼天とは後漢王朝を意味し、黄天は「太平道」の信奉する神であった。彼らは「黄天」を象徴する黄色の頭巾を巻いて印としたので黄巾の乱という。
太平道の真理は、無為自然という道教の教えをベースにしながら、因果応報を説いていました。身を慎み、正しい行いをすれば、幸福がやってくる、享楽に耽り悪い事をすれば、禍いを避ける事は出来ないという。
河南省を中心とした反乱は河北省に及んだ。後漢政府は当時「党錮の禁」で捕らえていた党人(宦官と対立していた官僚たち)を許し、党人と農民反乱が結束することを防いだ上で、豪族の協力を得て12月までに黄巾の乱を鎮定した。その後も散発的な反乱が続いて中央政府の威信はなくなり、各地の有力豪族が自立して、動乱の時代に入る契機となった。
これ以降、隋が589年に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を魏晋南北朝時代という。また、この時期には日本や朝鮮など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。
- 221 蜀が建国し三国時代に、魏・呉・蜀。
236 公孫氏が魏に反旗、238に魏に鎮圧される
239 邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを送る 魏(三国時代)
248 卑弥呼死す。宗女の台与を女王とする。
266 女王(台与)が晋に使いを送る。 魏が滅亡晋が起こる
280 呉が滅亡 三国統一(晋) 陳寿が三国志を撰。
391 倭国、出兵し高句麗と交戦(好太王碑文)
413 安帝の時倭王「賛」あり(梁書諸夷伝) 東晋
黄巾の乱後に纏わる人口激減は際立って顕著であったよ うで、後漢末永寿三年(156年)に5006万人を数えた十三 州の総人口が、三国期242年頃には三国合わせても僅か762 万人となるにまで減っており、明帝(曹叡)年間の杜恕・陳群・ 蒋済それぞれの意見書、及び以後の皇輔弼・朱照日らの発言録に も、十三州併せても後漢末の二州に満たない、などとした。
黄巾の乱が鎮圧されたあと、豪族が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、後漢王朝の皇帝を擁していた曹操である。
黄巾の乱(184年)が起きた後、皇帝の統制力は非常に弱まり、董卓の専横が始まるも部下の呂布に殺され、群雄割拠の状態となる。その中で台頭したのが曹操であった。反董卓を掲げて挙兵したことを皮切りに活動を開始した曹操は192年、兗州牧となった。その兗州で青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を投降させて自分の配下に納めた曹操は急激に勢力を拡大していった。196年、曹操は屯田制を開始し、流民を集めて耕す者がいなくなった農地を耕させた。
曹操と黄巾族
当時の青州では腐敗役人が大手を振ってまかり通っていました。彼等は、各地に適当に造り上げた神の祠を立てると、「神のお告げ」だと称して、人民から税を絞り取っていたのです。
信心深い民は、これを恐れていいなりになっていましたが、曹操はこれを知り、激怒し、祠を破壊して、青州の役人8割を処分します。
青州の人々はこれにより、恐怖からも重税からも解放され、曹操を慕っていたのです。
その曹操が今、兗州の牧として赴任してきている、黄巾賊の大半を占める青州の人民は、曹操の話であれば聞くという心理になっていました。曹操は、ここで、自分が公正で平和な、百姓が安心して暮らせる社会を造ると黄巾賊の首領達と話をつけた。
黄巾賊は、ただの賊ではなく、太平道という宗教を信じる人々です。その教義は、万民平等な平和な社会を造るという事でした。曹操が、それを替わって実現してくれるなら反乱を止めようと思ったのです。ここで黄巾賊は、降伏をしますが、そこに至って曹操に条件を出しています。
太平道を信仰する自由を認める事、
軍団を別の土地の兵と混成しない事、
曹操が死んだら自分達を自由にする事、という3点の条件でしたが、曹操はこれを呑みます。こうして、曹操軍に吸収された黄巾賊は青州兵と命名されます。そして鉄の団結と死をも恐れぬ強固な信仰を持つ最強の兵団として、曹操の為に手柄を立て、魏の建国に大きく貢献するのです。
ただし、魏の曹操は道教関係の神社を大量に取り壊している。たとえば黄帝と老子を祭った「濯竜宮」や済南付近の6百以上の祠を取り潰している。
曹操は献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れ、董卓の元配下であった李傕・呂布・張繍などの勢力を滅ぼし、200年には官渡の戦いで袁紹を破り、207年には袁氏に味方する烏桓族を打ち破って中国北部を手中に収め(白狼山の戦い)、後漢の丞相となる。
しかし、中国統一を目指していた曹操は、208年に赤壁の戦いで、江南の豪族孫権に敗れた。結局、曹操の死後、220年に曹操の子の曹丕が後漢の皇帝から皇帝の位を譲られ、魏を建国した。これに対して、221年には、現在の四川省に割拠していた劉備が皇帝となり、蜀を建国した。さらに、江南の孫権も229年に皇帝と称して、呉を建国した。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を三国時代という。
220年、曹操が死ぬとともに、曹操の子である曹丕が魏王と後漢の丞相の地位を継いだ。同年のうちに、曹丕は後漢最後の皇帝となった献帝から禅譲を受け、土徳の王朝のため、火徳であった後漢の都の雒陽の名を洛陽に戻して都とし、魏の皇帝となった。翌年に蜀の劉備も対抗して(漢の)皇帝を称し、さらに229年には呉の孫権も皇帝を称し、1人しか存在できないはずの皇帝が3人並び立つというかつてない事態になった。
文皇帝(曹丕)は九品官人法を実施し、中書省の設置など諸制度を整備して魏の体制を完全なものへと移行させた。しかし、九品官人法の影響により、後漢から形成されてきた豪族層が貴族化し、官職の独占を行うようになった。この問題は魏の時代はまだ端緒が見えた程度であるが、後の西晋になってから深刻化した。
222年に魏は3方向から呉を攻め、曹休が呂範を破り、曹真・夏侯尚・張郃らが江陵を包囲攻撃し、孫盛・諸葛瑾を破ったが、曹仁が朱桓に敗れ、疫病が流行したため退却した。曹丕は226年に死去し、長男の曹叡(明皇帝)が魏の皇帝となった。
227年、呉の孫権・諸葛瑾らが3方向から魏を攻めたが、司馬懿・曹休らに敗れた。
228年、孟達が蜀の諸葛亮と内応して魏に反乱を起こしたが、司馬懿に鎮圧され、また同年に諸葛亮・趙雲が攻めてきたが、曹叡が派遣した張郃・曹真が撃退している。さらに同年、曹休が呉を攻めるが、石亭において陸遜に大敗した。
229年、蜀の諸葛亮が派遣した陳式によって武都・陰平郡を奪われた。
229年、クシャーナ朝(貴霜)のヴァースデーヴァ1世(波調)、初めて使節らを中国の魏に派遣。魏から親魏大月氏王の仮の金印を与っている。
231年、再び諸葛亮が攻めてきたが、両軍とも決着がつかず退却している。張郃は司馬懿に追撃を強いられ蜀軍を追ったが、伏兵に射殺された。
234年、蜀と呉は連携して同時期に魏に攻めてきたが、東では満寵らが孫権を撃退し、西では諸葛亮が病死したため蜀軍も撤退した。諸葛亮が死去した後は、曹叡が宮殿造営や酒にのめり込んで国政が疎かになったため、魏は疲弊していった。
235年、魏の幽州刺史・王雄の部下の韓龍が鮮卑族の大人の軻比能を暗殺した。
238年、司馬懿を派遣し、遼東で謀反を起こした公孫淵を滅ぼしている。
238年、邪馬台国の卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる。
遼東と黄巾の乱
184年、宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」が勃発。百万余の反乱軍を指揮した首領の張角が 病死したことで反乱軍は崩壊。後漢政権も壊滅状態となった。 この混迷の時期に馬韓と濊貊が強勢になったとあるが、他の史料を調べても、この二国が強勢 になったと思える記録がなく、この時期に濊は高句麗の属国にされており、むしろ衰退している。 従って、韓とは遼東の大豪族となった公孫氏に同盟した扶余系の馬韓(後の遼西百済)、濊とは高句麗を指しているものと思われる。
黄巾党は壊滅した訳ではなく、なかでも百万を擁する青州黄巾党と五斗米道を懐柔して 陣営に取り込んだ魏の曹操の勢力が一気に増強され、後の晋王朝の基盤を築いた。
青州は朝鮮半島の対岸の山東省であり、戦乱を嫌った大量の黄巾党が海を越えて朝鮮半島に逃げ込んだと思われる。初平元年(190年)、遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗じて、遼東地方に独立政権を立て、 朝鮮半島の西北部をもその支配下に入れた。
建安九年(204年)、遼東郡で自立して勢威を奮った公孫度が死去、息子の公孫康が屯有県以南 (楽浪郡の南半部)に『帯方郡』を置いた。この頃は三国時代に突入する直前の混乱期にあたり帯方郡は公孫氏の私設の郡にすぎないが、一種の独立国家として韓族を勢力下に組み入れ、後漢政権からは左将軍の官位を授けられた。この時、倭と韓を帯方郡に属させた、と記録されている。この頃までは朝鮮半島は無風状態だったと思われるが、帯方郡は独立政権を維持するためにも人員の補強を したかったと思われ、朝鮮半島全域に触手を伸ばしてきた。倭と韓を所属させることにより、帯方郡は公孫氏の私設の郡にすぎなかったが、一種の独立国家として後漢政権から左将軍の官位を授けられることになった。
後漢(東漢、25年 – 220年)…前漢の景帝の子孫の劉秀(光武帝)が新末後漢初の動乱を勝ち抜き、漢を再興。
三国時代(220年 – 280年)
魏、蜀(蜀漢・漢)、呉…魏王の曹操の子曹丕(文帝)が献帝から禅譲を受け即位すると、蜀の劉備(昭烈帝)も漢皇帝を名乗り即位、さらに呉の孫権(大帝)も即位、三国時代に入る。
晋(265年 – 420年)
西晋(265年 – 316年)…晋王司馬炎(武帝)が魏の元帝より禅譲を受け即位し建国。だが、異民族五胡の侵入により衰退。異民族の漢に滅ぼされた。
東晋(317年 – 420年)…皇族でただ一人生き残った琅邪王・司馬睿は江南に逃れ、建康で即位(元帝)。これを中原の晋と区別して東晋という。
五胡十六国時代(304年 – 439年)
遼西の公孫氏と黄巾族の戦い
公孫 範(こうそん はん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。幽州遼西郡令支県の人。家系は遼西公孫氏。従兄は公孫瓚。同じく公孫瓚の従弟である公孫越との続柄は不明で、二人も従兄弟と考えられる。
初平2年(191年)、袁紹陣営の周昂(『後漢書』公孫瓚伝によれば周昕)との戦いで公孫越が戦死したため、公孫瓚は磐河に出兵して袁紹との対決姿勢を強めた。袁紹は衝突を回避しようと、自身が有していた勃海(渤海)太守の印綬を公孫範に授ける。公孫範は勃海郡の軍を率いて、公孫瓚を助け青州・徐州の黄巾賊を撃破し、公孫瓚の勢力拡大に大きく貢献した。
初平3年(192年)、公孫範は公孫瓚に従って、袁紹軍との界橋の戦いに参加した。しかし袁紹軍の麴義の活躍の前に、公孫瓚は厳綱を討ち取られるという大敗を喫する。公孫範は公孫瓚と共に敗軍を率い、薊へ退却した。その後は史書に名が見当たらず、建安4年(199年)の公孫瓚滅亡時まで健在であったかどうかも不明である。
建安3年(198年)、父の公孫瓚が袁紹と戦っていたとき、その命により公孫続は張燕のもとに送られ、盟約を結んだ。翌建安4年(199年)、張燕と公孫続は10万の兵を率いて易京城外へ救援に戻り、公孫瓚の指示で袁紹に対して挟撃策を採ろうとしていた。しかし袁紹は挟撃策を見抜き、伏兵を設けて公孫瓚・張燕を撃破した。同年、易京は陥落して公孫瓚は自害し、公孫続も屠各(南匈奴屠各種一支系?)によって殺害されてしまった。
公孫 康(こうそん こう、生没年不詳)は、幽州遼東郡襄平県の人。家系は公孫氏。父は公孫度。弟は公孫恭。子は公孫晃・公孫淵。建安9年(204年)、父の後を継いで太守となった。同年、楽浪郡18城の南半分である屯有県(現在の黄海北道黄州か)以南を裂いて帯方郡を設置し、韓や倭まで勢力を広げた。建安12年(207年)、烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われ遼東郡に逃れてきた時、袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命された。
公孫 淵(こうそん えん、拼音: Gōngsūn Yuān、生年不詳 – 238年(景初2年8月23日))は、中国三国時代の武将。字は文懿か。祖父は公孫度。父は公孫康。叔父は公孫恭。兄は公孫晃。子は公孫脩。 遼東の地で自立し燕王と称したが、魏の司馬懿によって追討され滅んだ。公孫淵は魏と通じつつ密かに呉とも通じるなど、巧みな外交を見せている。この経緯から嘉禾2年(233年)、呉から九錫を受け燕王に任じられた。しかし、後に心変わりして呉の使者として来訪した張彌・許晏・賀達らを殺害し、その首を魏に差し出した。この功績により、大司馬・楽浪公に任じられている
『三国志』魏志公孫淵伝によれば、景初2年8月23日(238年)に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠すると、邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って、魏との交流が再開された(なお、呉と倭との交流については存在した可能性もあるが、『三国志』が魏を正統王朝として呉や蜀(蜀漢)への朝貢の記述や、朝貢していた諸民族(特に南方諸国)についての記事はほとんどない)。
『魏志倭人伝』において、倭国の乱(『後漢書』の倭国大乱)から卑弥呼の遣使まで倭国に関する記述が途絶えている。
この期間は公孫氏が遼東で自立していた時期と重なる。卑弥呼の帯方郡への遣使は、ちょうど公孫氏滅亡の直前である景初2年6月であると魏志倭人伝に記述されている。しかしこれについては、帯方郡など遼東での戦乱最中時の遣使は困難である(また公孫氏はまだ滅んでいない)として、翌年の景初3年ではないかという説[が主流である。ただし、邪馬台国が遣使2人で朝貢物の奴婢10人布2匹2丈と、かつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇したのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績を認めたからだという観点から、公孫氏政権滅亡直前のこの時期の遣使が正確であるという説もある。
魏略や魏志にある卑弥呼の死
西暦247,248年くらいに、倭国では、倭の邪馬台国とそれに謀反を起こした狗奴国との間に戦いがあったとされ、その同時期か直後に、卑弥呼が死去したことが記載されている。
女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
女王の南、また狗奴國あり。 男子を以って王と爲す。 其の官を拘右智卑狗という。 女王に属さぬなり。引用元:魏略(逸文4)翰苑卷三十
其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。
その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。郡より女王国に至るには一万二千余里である。
其八年、太守王到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之。
その八年(247年)、(帯方郡)太守の王が(洛陽の)官府に到着した。 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。
卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。
引用元:『三国志魏書』倭人伝
日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の一つである常世氏(もと赤染氏)は、燕王公孫淵の子孫だと称している。
常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)
燕王公孫淵を祖と称する常世氏が信奉する神(常世岐姫神)を祀る神社であり、日本全国に数社ある。大阪府八尾市神宮寺にある神社が本宮であるとされ、残り(分社)は埼玉県内に確認できる。特に行田市荒木に所在する神社は”荒木”を冠して「荒木常世岐姫神社」と称する場合がある。深谷市樫合にも所在する。
常世岐姫神社 大阪府八尾市神宮寺
当地は古代に帰化したと思われる染色技術者集団(品部)の赤染部(あかそめべ)の本拠地で、赤染とは茜染めのことであるが、赤染氏が伴造としてこれらを管理していたと考えられ、時代は降って鎌倉時代にも当地の人々が幕府から「河内国藍御作手(あいみつくて)奉行」に任じられて染色技術を諸国で指導したという(『吾妻鑑』)。
伴造の赤染氏(姓(かばね)は造姓)の一族には壬申の乱で活躍した者もおり(『日本書紀』)、当地についてみれば、宝亀8年(777年)の夏に正六位上の赤染人足ら13人が常世連(とこよのむらじ)を賜姓されたという記録があり、『新撰姓氏録』の河内国諸蕃に「常世連。燕の国王、公孫淵の後なり」と記されており、当地を燕の公孫氏の流れを汲むと称する帰化人が本貫としていた事が判り、またその子孫が茜染めをしていたとも伝わっているので、赤染氏(常世氏)が祖神を祀ったものと推定できる。
神社が創建された年代は不詳であるが、貞観9年(867年)官社に預かり[3]、延喜の制で小社(官幣小社)に列した。
五斗米道などの道教では、北極星の神格化である最高神の「天皇大帝」は権威の象徴として剣と鏡の2種の神器を持つとされる。
卑弥呼の「鬼道」と中国道教の「五斗米道」が同じものであるとするという説をと唱える人もいるが、異説。